神代には人々はたがいに助け合い、一村一邑が一つの世帯であつた。どんなものでも、一人が専有するということはなく社会共有であつた。ゆえに食物や着類などの不自由なく、人々は社会の恩沢に感謝したのである。
しかし現代はこれと逆さまで、食物や着類は昔より豊富であるが、みな金持ちと地主の倉のなかで虫に食われ、かんじんのこしらえた人々は、満足に食うことも着ることもできない有様である。階級制度をけつこうなものと思つているが、下の人々の苦悩はとうてい正視するにしのびない状態である。
相互扶助の平和な社会も、おいおい開け進むにつれて、人々の心はだんだん悪くなり、弱肉強食、人類相殺の醜状となつたのである。これというのも要するに社会の柤織と制度をあやまつたからである。
(無題、「人類愛善新聞」 昭和5年8月3日)
人間の健康状態は脈拍だけをみるも、すぐ故障があればわかる。舌を見ても、声を聴いても、爪先を見ても、明らかにわかるものである。それと同様に人間の魂だつて、その眼に、言葉に、また態度にことごとく現われてくるものである。一本の毛のなかにも、掌の線の上にも、視る人の目で視ると、その人間の全生命が躍動しているのだ。そこに霊妙な宇宙の実相があるのだ。
一国の政治を行なう者、国民の指導者となる人は、かかる意味における具眼の士でなくてはならない。はたして今日の政治家に、それだけの眼をもつて日本の健康を打診し、世界の病源を究明して、適切なる医療を講ずるものが幾人あるか。
民正しうしてしかも苦しみ、人勤めてなお飢うるは、政治の公正でない明らかな証拠である。しかもそこにすら、考えのいたらない人々はかりだから話にならない。