帰神の翌年には、大本出現の意義をのべつたえる「筆先」が、開祖によって書かれはじめた。この年一八九三(明治二六)年正月から、綾部では、たびたび、原因不明の火事があった。放火らしかったが、何もののしわざともわからなかった。四月一九日の夜、千田町の材木商の森という家が焼けたが、このとき、開祖は帰神となって、大声で、「よき目ざましもあるぞよ。また悪しき目ざましもあるから、世界のことを見て改心いたされよ。いまのうちに改心いたさねば、どこにとび火がいたそうも知れんぞよ」と叫んでいた。これを聞きつけた近所の安藤金助の妻が、「とび火」とは、きっと、おなおさんの放火のことにちがいない、と警察に密告した。
翌二一日、開祖の宅へ刑事と巡査がやって来て、開祖を警察へ連行した。警察が取りしらべをしてみても「もっと大きな者はようしらべんのか。上におる者をぎんみせんことには、いまに警察のいうことども聞くものは、一人も無うなるぞよ」といった調子でしらべようがなかった。開祖は出来上がったばかりの新しい留置場に入れられて「これは結構や」ときげんがよかったが、夜中になると荒立ち、監視の巡査がひそかに酒をのんでいるのを見通して、「それでは番人の役がつとまらんぞよ。上に立つ者ほど乱れておるぞよ」と叫ぶので手におえなかった。ところが翌日の夕方、放火の犯人は田町の大工某であることがわかり、開祖を放免することとなった。
しかし、大槻鹿造の強い願い出によって、本人は気が狂っているとの理由で、警察から組内に命じ座敷牢をつくらせ、開祖を無理に座敷牢(もと神苑西石の宮の北隅)に入れてしまった。