喜三郎の目的は、精神上の病者を救済することにあって、ただの病人相手ではなかった。喜三郎は多数の信者を集めて一つの団体を組織し、会場を設けて立教の主旨を発表することを目標に、会員の結集に力をそそいだ。ある日、斎藤が「幽斎ばかり研究するのもよいが、惟神の大道をひろめるには演説をやってはどうか」といいだした。
三月下旬のある日の夕方、喜三郎は斎藤と二人づれで宮川の妙霊教会をたずね、会長西田清記に「演説させてほしい」と申し込んだ。さっそく承諾してくれたので、その晩、月次祭の後で、喜三郎は「惟神の徳性」と題し、「日本臣民として国家百年のため皇道を発揮し、わが特殊なる国体を弁明し、民族的性格を発揚して、自主的思想を伸長し、この腐敗堕落した社会を洗濯して、惟神の徳性を宇内に宣揚せねばならぬ」という主旨の処女講演をして、大かっさいをあびた。そののち、西田(遺族は現在、岐阜市奈波神社勤務)との交際は久しく絶えていたが、喜三郎は、後年西田が帰幽したとのしらせをうけて、会葬して弔歌をおくった。
翌日には船岡の妙霊教会をたずね、三〇〇余人の聴衆にたいし、前日と同主旨の演説をし、ここでも大成功だった。この時の教会長は山田といい、副長は喜三郎の叔父佐野清六であった。
喜楽天狗の評判がますます高くなったので、曽我部村の巡査駐在所も無視することができなくなり、喜三郎の宅をおとずれ尋問した。喜三郎の意図は、たんなる病気なおしではなく、当時の国民教化の線に一応そって、国体の尊厳や神道を説くものであったから、巡査も、喜三郎の説明でその主張や目的を了解した。しかし、巡査は「結社の法律を知っているか、お前のところの結社はどこから許可をえたか」と、なおも詰問するので、喜三郎は「余は天から命令を受けて結社している。帝国憲法第二十八条に『日本臣民は安寧を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す』第二十九条に『日本臣民は法律の範囲内において、言論著作印行集会結社の自由を有す』と明記せられてあれば、日本の臣民たる私が結社するのはさしつかえはなかろうと考える』と弁明した。巡査は「お前は法律の範囲内ということを知らない。宗教には宗教上のそれぞれの規則がある。大成教なり、大社教なり、他の公認の教会の管下になって開いてもらわんと、行政上黙許するわけにはゆかぬ」と強調するので、喜三郎もその言葉に従い、形だけは御嶽教の教導職になって布教活動をつづけようと決意した。
こののち、幽斎の研究をつづけていた時のこと、ある日神示があって、ひそかに出修に行けとのことであった。そこで斎藤だけに話し、母には心配せぬようにと書き置きして出かけた。この時の書き置きに、ふと、「鬼三郎」と署名したが、「鬼」は喜三郎の「キ」と音が通ずるところから、「きさぶろう」と読んでもよいと思ったのであるが、のちに、綾部にきてから開祖の筆先で「おにさぶろう」と命名されたので、「王仁三郎」と改めるようになる。
〔写真〕
○妙霊船岡分教会(園部町船岡) p155
○大日本帝国憲法 第28条 第29条 p156