喜三郎は深夜家を出て、産土神社に参詣して祈願をこめ、高熊山の洞穴でしばらく感合法の練習をし、園部の天満宮で神霊感合の状態にはいった。さらに丹後の元伊勢に行こうとしたが、観音峠より引きかえし、園部の親しい菓子商内藤半吾をたずねて五日間滞在し、幽斎を専修研究したうえで、穴太に帰ってきた。今回の出修で、はじめて帰神術の大略を体得したので、さらに幽斎の修業をすることにし、斎藤仲一宅で第一回の幽斎研究会を開いた。なおこの間に、神示をえて、布教のために大阪にでかけたこともあったが、機熟さず、二週間ばかり滞在して引きあげている。
喜三郎は審神者(神感を審判し神の正邪を見分ける者、沙庭とも書く)となって、神主(幽斎修業者)を指導し、幽斎の法を伝授した。審神者と神主は、まず水行をして心身を清め、白衣・袴をつけ、荒菰の上に向かい合って着席する。神主は両掌を胸のあたりで組み合わせ、瞑目すると、審神者は天然笛を吹いて神人感合に入るように指導する。これが幽斎の法である。おおかたの者は三週間か四週間の修業で感合するようになるが、とかく邪神界と感合する者が多いとされる。神主は、女子は一二、三才から一五才までがよく、男子は一五、六才が適齢である。最初多田琴(喜三郎を養子に望んだ侠客多田亀の娘、二二才)を神主にしてはじめたが、志望する者が増して、石田小末(二二才)・岩森ゆき・岩森とく(一二才)・斎藤静(仲一の叔母で下司熊吉の妻、三四才)・斎藤たか(静の妹、一二才)・上田ゆき(喜三郎の妹、六才)・上田幸吉(喜三郎の弟)の八人となった。毎回三〇分ずつ一日八回修業であったが、身体を動揺したり、手を急激に上下にふるわし、口を切って騒ぎまわる者もできたが、喜三郎は一々審神し、その正邪をみわけた。
〔写真〕
○園部の天満宮 p157