一八九八(明治三一)年四月初旬、喜三郎は御嶽教太元教会の中教正松山昇のあっせんで、御嶽教の教師になる目的で家をでようとした。そのとき、静岡県安倍郡不二見村下清水、月見里神社に附属する稲荷講社総本部の役員三矢喜右衛門がたずねてきた。三矢は、喜三郎に稲荷講社に加入するようにとすすめた。三矢の話は不得要領であったが、規約の主旨には賛成できるので、一応、総本部に総理長沢雄楯を訪問しようと決意し、親族である佐伯村の大石友吉に旅費の工面をしてもらった。喜三郎の信者としては、この大石が最初の者だといわれる。
しかし、八人の幽斎修業者を中途で放任しておくこともできず、審神者のできる代理者を早く養成してからでかけようと、一そう幽斎修業をはげむこととした。それまで一日昼夜八回の修業であったが、これを一二回、一回四〇分ずつとして三週間つづけた。みな疲労衰弱してしまったが、ぽつぽつ正しい感合者もできた。三矢の申請により、総本部から四月一五日付で喜三郎に中監督、斎藤仲一に副社長の辞令を下付してきた。喜三郎は講社の主旨には賛成できても、名称についてはどうかと案じた。神降しや稲荷下げの巫女・口寄せなどが、御嶽教の敬神教会・太元教会・神籠教会などの名を利用して世人を迷わせることが、ままあったので、稲荷というとすぐ狐使いか狸下しのように一般の者が軽蔑する傾向があった。そのため、稲荷講社の名義では、これまで開いてきた神教の名をけがし、趣意を誤解されるおそれがあると思ったのである。しかし、すでに辞令を受けたことでもあり、その礼をいう義理があり、また尋ねたいこともあったので、修業のつもりででかけることにしたのである。喜三郎は留守中を斎藤に託して、四月二八日三矢の案内で駿河へ旅立った。京都七条駅から新橋行の列車に乗り込んだが、喜三郎が遠国へ旅行するのも、汽車に乗るのもこれがはじめてであった。静岡で乗りかえて江尻駅に下車、一七、八丁の道を歩いて夕刻に総本部に到着した。総本部の所在する御穂神社は一八九一(明治二四)年の地震で破壊され、神域は荒れはてて復旧のまっ最中であった。
稲荷講社は一八九二(明治二五)年、稲荷講社の給仕をしていた宮城野金作(一四才)に、御穂神社の眷族八千彦命がかかって「稲荷の神は飯成の神であり、天下万民一日も無くてはならぬ衣食住の元の神である。しかるに世人の多くはこの大神を狐と同一視して、稲荷といえば狐のことと誤解している者多く、御恩の深き神に対してまことに申しわけない次第である。世俗の誤解を解くために神社附属の稲荷講社を結集して、一は君国のため、一は神界のために尽くすように」と長沢雄楯に警告したので、長沢が官の許可を得て講社を開設したのにはじまる(『神霊界』大正6・11)。
長沢は講社の総理で神職を兼ね、国学者本田親徳のおしえをついで、幽斎や鎮魂帰神法をおこなっていた。喜三郎がはじめて総本部を訪ねた時、長沢は霊学の話や本田の来歴など詳しく喜三郎に語った。長沢の母豊子は「本田の遺言に、『十年後、丹波から一人の青年が訪ねてくるが、その者がくるとこの道は開ける』といったが、貴下が師の大志を継ぐ人に相違ない』といって、本田から授かった『神伝秘書』一巻と、『道の大原』『真道問答』各一巻を写本のまま授与した。喜三郎は、おしいただいて読んでみると、異霊彦命の神訓と同じもので、さらに詳しく神の本義があらわしてあった。奇異に感じ、本田の神名をたずねると、それは異霊彦命であるという。喜三郎は、本田の遺言で「丹波から」といわれた事情を了解して喜び、希望にもえた。このとき、長沢の審神により幽斎の法をさらに深く体得し、三日後に総本部を辞去した。帰宅して間もなく、霊学会本部設置のことや神感法について疑問の点がでてきたので、五月二〇日ふたたび総本部を訪問した。このときも都合よく長沢総理に面会ができ、霊学会本部設置の認可をえて、その会長に任命された。また「鎮魂帰神二科高等得業証」を与えられ、京都・大阪両府下の講社事務担当を命じられた。これまであまたの人から「狂人だ」「山子だ」「狐使いだ」などといわれて、正しくみわけてくれる者がなかったにもかかわらず、長沢の審神の結果、高等の神懸と鑑定されたので、喜三郎は喜んで入門した。この時、喜三郎は長沢豊子から鎮魂の玉と、天然の笛とをもらったが、とくに豊子からかわいがられ、養子になれとすら懇望された。
喜三郎と本田親徳とのつながりには、深いものがある。
本田親徳(一八二三~八九)は鹿児島県に生まれ、父祖は代々諏訪神社の神官であった。幼時に霊学を学び、一八才で郷里を去って水戸に行き、会沢正志の門に遊ぶこと三年、和漢の学を修めた。本田は水戸学の影響を強くうけて尊王攘夷論者となり、『大日本史』の講義を得意とし、平田国学の門にも出入し、篤胤を高く評価していたという。本田は、大国主命を顕界の主宰神とする神道家であり、明治政府が次第に開明思想をうけいれ、そのため神道国教化政策が後退したことを心よからず思っていたらしい。そのころ、京都で一二才の少女に狐が憑依し、和歌を詠むのをみて霊的作用の研究をはじめた。久能山や富士山にこもり、神道の学理を実地について研究し、鎮魂帰神法を再興し、『道の大原』をあらわした。しかし、『記紀』『経書』などについては古人の説をとらず、独創的な意見をもっていた。
一八八五(明治一八)年、静岡県知事奈良原繁のまねきで静岡県に来て、浅間神社の宮司となり、「太占」『万葉集』『古事記』などをおしえた。また同じころ、キリスト教と仏教を攻撃した著書を公刊したともいう。門人には長沢雄楯・副島種臣などがあった。本田は一八八八(明治二一)年ころ、世界の高天原発見の目的で諸国を遊歴し、丹後の元伊勢、比沼真奈比にも参拝し、綾部にも足跡を残したといわれているが、この年三月中旬、喜三郎と丹波の梨木峠で対面し、神道家として国のために尽くすように、とさとしたと伝えられる。また、船井郡鳥羽村八木嶋の村はずれで開祖とも出会し、開祖の身上について話し、七人の女の中の随一であるといったという。喜三郎は高熊山修業のとき、異霊彦命から鎮魂帰神法の大要を教示されたといわれ、後年『本教』(一名『道の大原』『皇道霊学』)によせた序文に「本教は皇祖天照大御神の遺教にして、治国平天下の大道なり。中世異教の侵襲する所となり、惟神の本義を覆うこと久し。余が先師本田九郎親徳大人大いに本教の衰へたるを歎き給ひて、殆ど四拾余年間、皇室のため国家のためとして学理と実施につき研鑽せられしもの、即ち本教の中興を為せるなり。先師今や幽界の人となりたまひ、常に余が霊魂に幸いたまひて、天下未発見の神理と妙術とを顕はしたまふものなり。嘗つて茂頴(喜三郎)が高熊山にありて示教を得たりし異霊比古命は、実に本田先師の威霊なり。師の門人には伯爵副島種臣、並びに静岡県県社御穂神社社司長沢雄楯の二士其主なる者とす。余は幽冥にては本田先師の直教を拝し、現世にては長沢恩師の懇篤なる教授を受けたりしなり。明治三七年四月下旬上田主教識」と記している。喜三郎は、幽冥では本田、現世では長沢の教示により、鎮魂帰神法を体系的に修得して、霊学を完成したのである。なお、一九〇一(明治三四)年旧三月七日の筆先には「これからは緯のご用と申すが霊学であるぞよ。この霊学を天照皇大神宮さまから、本田親徳どのに授けなされたのでありたなれど……」と示されている。
〔写真〕
○園部のもと内藤半吾宅 p158
○1897-明治30年ごろの京都七条駅 p159
○御穂神社の扁額(静岡県三保) p160
○長沢雄楯 p160
○霊学会本部の鎮魂帰神得業証書 p161
○梨木峠での喜三郎と本田親徳の対面 p162