ところで王仁三郎の入蒙が成功であったか、失敗であったか。それは簡単には評価しえない面を内包している。その計画が挫折したという意味では、あきらかに失敗であったが、反面日本国内への反響という点では、かなり成功したということができる。
そのことは、ジャーナリズムにおける入蒙のうけとめかたにも見出される。たとえば、雑誌「太陽」の「夢の蒙古王国」(四号にわたり連載、筆者黒頭巾)は、破天荒な壮挙としてその足どりをつぎのようにつたえている。
此のお話は探偵小説の興味を以て迎へられる極めて厳正なる事実の物語だ。日本人が大陸に理想的の新王国を建設しやうとした大胆な試みであつた。開闢以来初めての企てである。而も徒手空拳を以てそれを遣つつけやうとした大胆さに至つては壮挙を通り越して、誇大狂だといふ非難もあるだらうが、とにかく支那政府の威力の徹底しない蒙古の大沙漠のうちに突如として新天地を開拓しやうといふ破天荒の陰謀、ロマンチックな、夢のやうな空想であつた(「太陽」大正13・12)。
あるいはまた、「北国新聞」の同年一一月一四日の社説「蒙古と日本」も、つぎのようにのべている。
……蒙古が過去の東洋における遡源の地であると云ふ事実から、その将来に対しても種々の空想と期待とを派生せしめ、所謂支那浪人の浪漫的感情の上に蒙古王国なるものは常に生命を宿してゐるのである。大本教の王仁某の人格や思想や、その山師的野心などについては別問題として、彼が一種の遡源的日本の研究者であることは、世間から興味を持つて見らるるのである。……よしその計画は全然失敗に終つたとは云へ、彼が東洋浪人的性格を多分に持つてゐることと、おとぎ話の国の王様らしいことと、兎に角一般的に思惟と空想の世界のせせこましくなつた現代の日本においては、たしかに痛快なる現代ばなれの試みであつたのである。
これらにもみられるように、入蒙にたいする世評は、破天荒とか、ロマンチックな、時代ばなれのした壮挙とみなしたのである。「北国新聞」がのベたそれが、社会的諸矛盾が激生している日本、「せせこましい日本」を挽回する夢と意義づけたのなどはその好例である。
そのほかの諸新聞も、ほぼおなじような論調にたっていた。政治家でもそうであった。同年一一月一日に、矢野祐太郎は、政友本党鳩山一郎・向井忠晴にあって、王仁三郎の入蒙事情を語ったところ、二人とも「出口は偉大なり」とたたえたという。(「宇知丸日記」)
だが、入蒙問題が、大本内部になんらの動揺をあたえなかったかというと、そうではないたとえば、王仁三郎がまだ奉天総領事館におかれていた七月の中旬から、大本内部では、上西信助らが王仁三郎の入蒙問題をとりあげて、二代教主の隠退をはかり、三代教主を表にたてようとするうごきなどがみられた。その理由とするところは、「責付出獄中で謹慎すべき身の王仁が巨額の金を携へて本国を脱出し満蒙に迄恥を曝し大本教の体面を汚した」というにあった(「朝日新聞」大正13・9・7)。これは財政問題ともからみあっており、多額の債務(大正日日債務証書二九万四一二〇円・別途借入金一三万九六一九円)をつぐなうために、財政緊縮をはかれなどという要求ともむすびついていた。同紙によると、九月八日熊野神社にて、「王仁弾劾排斥信者大会」がひらかれたといわれる。もとより、たいした波紋をもたらすにはいたらなかったが、教内にもこうした考えの人々があったことは事実である。
入蒙についての資金調達は、一般信者のしらない間に準備されていたが、さて入蒙となると、その準備金だけではとうてい足らない。入蒙直後の二月二一日には、矢野祐太郎の帰綾第一報に資金調達の相談があって、本部はその対策のためにうごいており、中野岩太の七万円、浜中音雄の五万円をはじめとしてつぎつぎと送金がなされている。なお、入蒙に要した費用は、総額で二〇余万円であったと推定される。
王仁三郎は、大阪刑務所未決監のなかにあっても、教団の発展にところをくだき、「旧九月八日より五六七殿の七五三の太鼓を、五六七と打つことに改めてください」という書信などがおくられている。そして「三千年の岩戸の七五三も解けにけりみろく三会の神音のひびきに」と歌が附記されていた。そこで指示のとおりに、一〇月六日(旧九月八日)には、五六七殿の大太鼓は五六七のうちかたにあらためられている。
〔写真〕
○再入監 大阪刑務所北区支所へむかう王仁三郎 p755