一九三一(昭和六)年の一一月一一日から五日間にわたって、綾部において大本大祭がおこなわれた。そのころさかんになっていた明光社の文芸活動は、信者の各層にもひろがっていたので、大祭を期しておこなわれた歌句などの応募は、きわめて多数にのぼり、秀逸のものは発表されて神苑内に掲示された。また霊界物語拝読十週年記念の行事として、各地の主会から優秀な拝読者を選抜して、拝読競演の大会が二日間にわたって五六七殿でとりおこなわれた。こうしたなごやかな明るい大祭ではあったが、満州事変による国民の緊張は大祭にも反映し、ことに、神示による「時節」という信仰的なうけとりかたが、参拝した信者の胸中にあった。したがって、大祭における本部の態度が、信者から注目されていたのである。
大祭で本部から地方主会長会議に提案されたおもなものは、「昭和青年会の改組、満州同胞救済、人類愛善新聞中間目標三十万部実現、東京にて大本博覧会開催」などであった。とくに信者を緊張せしめたものは「時局は愈々急転し、所謂大峠の重大時期に際会した」との本部側の所見発表であった。そして従来大本・人類愛善会の講演には寄席や劇場を会場につかうことは禁じられていたが、今後は、聖師より「只今は非常時である。非常時には特に寄席や劇場を会場にあててもよい」と指示された。この「非常時」という言葉は、強く信者に印象づけられた。宇知麿は至聖殿祭典後、五六七殿において「愈々覚悟すべき世界的困難の重大なる時期がきたのであります。満蒙の地はこの大神業に最も重要なる関係を有しておるのでありまして、先ず満蒙が神の経綸のままにならなかったならば、大神業の進展に大障害をきたすことになるのであります。……満蒙の経綸は東亜の経綸の基をなし、やがて世界的大経綸の礎となるが故なのでありまして、聖師様の御歌にも〝満蒙の今日のありさま前知してわれは蒙古に向ひたるなり〟〝満蒙の平和の基礎を築かずば我が日の本の悩みとなるべし〟……事変突発致しまするや、日出麿様は聖師様の御代理として急拠満州に渡られまして、実に目ざましき活動を続けられてゐるのであります。……この際こそ活動の絶好期でありますから、本部からも極力、力を満蒙に向けて真に大積極的に活動を進めることになったのであります」とのべた。また大本瑞祥会第四回総会においても岩田会長補は「神示の確定的実現と時運の急転回とは盲目でない以上、誰の目にもはつきりと認められるやうになつてまゐりまして、大本の真価は低能でない限り何人にも意識しうるやうになったのであります。……お互いは最後の決勝的積極宣伝により、日本及び日本人の大使命を高調し、救世主の出現をあまねく天下に知らしめなければならぬのであります……」とのべて、「神示に基づく時局の推移に適応せる宣伝」について方針を示した。ついで亀岡天恩郷の大祥殿で開催された宣伝使の会合でも、宇知麿からほとんど同様の主旨が強調され、宣伝活動の方法として、「満蒙問題をとらへて、聖師様の御活動を入蒙より説き起し、聖師様の御抱負、大本の運動、人類愛善運動、また道院、世界紅卍字会などの話を合せて、さらに日本人の大使命、吾々日本国民としての今日の覚悟などを特に宣伝しなければならない」と指示した。
こうした諸会議における本部の指示・方針はたちまち全国の信者につたえられ、信者は積極的宣教を時局に適応する方向へと結びつけていった。
これよりさき滋賀県では大津・彦根をはじめとする各市町村で、大国・藤原両宣伝使を講師にむかえて時局講演会を開催した。聴衆は会場外にあふれるばかりの盛況であったという。本部が時局講演として本格的にのりだしたのは、大本大祭後の一八日、亀岡商工会主催の満蒙大講演会からである。この時には深水静・北村隆光・大国以都雄・桜井重雄・出口宇知麿らが登壇しておのおの熱弁をふるった。
こうして時局に適応する宣伝講演は各地に開催されるようになった。これまでにも大本および人類愛善会が満蒙問題の重大なることを宣伝し、また「人類愛善新聞」などで訴えてきたが、多くの国民は、これを縁遠いものとしていた。ところが満州事変がおこって、はじめて問題は国民に直接につながることが、しだいに認識されるようになり、大本および人類愛善会の時局に適応した講演会が開催されると、いたるところで反響をよぶようになった。そこで本部は、運動の指導精神として、大本瑞祥会宣伝課からつぎの六ヵ条の通達をがした。「一、日本は天よりの大使命を覚り、一切の対立行動より超越せよ、而して満蒙開発指導の使命を果せ。一、世界各国に向つて臆病なる態度を改め、進んで此の天命を宣命せよ。一、各国が右の宣明を解せざる場合は、須らく自主的経綸の断行によって邁進せよ。一、必要に応じて満蒙を占拠することあるも、断じて支那国民を蹂躙すべからず。一、占拠は虐政を事とする支那軍閥膺懲にあつて、決して支那国民を敵としてはならぬ。一、占拠地は直ちに日支人共通の徳政を布かねばならぬ、而して其要人は徳望第一主義でなければならぬ」。この六ヵ条は宗教的見地にたつ大本独自の見解表明であった。
また「人類愛善新聞」は「満蒙人が神の懐に帰り、神の国を以て任ずる日本人が、神愛を自覚して、真に満蒙開発の尊き使命を果すために、所謂闘争的気分や侵略的陰謀を心底から放擲して、日、満、蒙に愛善の慈雨が降る時、即ち暗雲は直ちに払拭せられて東亜の光は輝き初むるであろう」(昭和6・10・13)と論じ、それらの主旨を毎号に主張した。
しかしここで問題となったのは、人類愛善という思想は、人類のすべてが神の子で同胞であるとの立場をとったことである。にもかかわらず、日本および日本人の天よりの使命を強調することは、普遍的世界人類愛と矛盾するのではないかということであった。その点について日出麿総統補は一一月九日「普遍的世界人類愛と日本の自主的世界経綸とは決して矛盾しない」といって「光明国道中記」につぎのように書いている。「過去六十年間における奇蹟的日本の進出は決して偶然のものでなく、一定の神慮による必然的なものである。世界一家の日が来なくては真の幸福はこの地上に来ない。…ただ今一度、我々日本人は心の中にしつかりと『日本』を取り戻し整理し直す必要がある」と。
このことは大本が大正期に主張していた「皇道論」の立場にもみられるものでもある。「人類愛善新聞」も「愛善主義に対する認識、把握が不十分である場合、愛善なる字義よりする概念と、国家的観念よりする熾烈なる破邪顕正の意慾また行動との間に根底的矛盾の横たはるを感ずるに至る惧れがある」(昭和6・12・3)と論じ、日本の満蒙への勢力進出を白眼視するものからは、侵略として反対されるであろうといい、こうしたことの生じたのは、日本の為政者が「真の愛善主義」を体得し、実行しないためであり、その結果今回の不祥事態が起ったのであって、それは満蒙政策に「根本的大精神が欠如」していたからだとした。「利権問題の如きは未だ事の末葉たるを免れない、また当然の生存権の主張と謂ふも、なお認識の至れるものとなすことはできない」「苟も小帝国主義よりする偏狭なる侵略主義論にたいしても、また断じて同ぜざるものなること論を俟たぬ」と、断乎として日本の満蒙政策を批判し、満蒙は世界平和建設の第一段階としての神の経綸の地であるとの立場から、軍部の意図した満蒙進出行動にも一矢を放った。したがって大本の時局講演の論旨は、神慮にもとづく大愛主義に日本および日本人が反省自覚したうえで、国家や民族あるいはその利害を超えた宗教的な精神であたらねばならない、とするのが基調になっていた。
〔写真〕
反響をよんだ満蒙時局講演会 p103