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宣統帝問題

インフォメーション
題名:宣統帝問題 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:107
概要: 備考: タグ:川島芳子 愛新覚羅溥儀(宣統帝) データ凡例: データ最終更新日:2023-03-05 05:04:35 OBC :B195402c5216
 ここで注目すべきことは、昭和青年会第一回総会において、会長補が「会長はいつどの方面にご出動になるか知れない状態になっております……」とのべたことである。
 聖師は満州事変がおこると日出麿総統補を満州に派遣し、みずからは九月二五日に、突如東上して秘密裡に軍人・政治家その他要路の人々と会談して二七日に亀岡に帰り、翌二八日には川島浪速と、その娘芳子らと面談した。川島との会談では側近のものを遠ざけ、川島が耳が遠かったので筆談しているが、その筆談の中には「うつかり離すと、つまらぬ者に利川さるる恐れあり、大本はすべて神示によりて動いております。東京に行き御面会したのも神示によりてしたのです。私一個人の考へでは動いていません。……先づ日本へ宣帝をかくし時を見て……」「神示によれば、宣統帝、日本ヘ一先づ御来朝ある方、完成するとのことです。今度下手をすると宣統帝の没落になりますから十分考へてやつて下さい」「愈々こちらへお迎へすることに確定すればさらに準備をする積りですから速報を……」などの文字がみえている。また一〇月六日には大島豊から「天津ノ情況悪ク連出スコト出来ヌ空シク帰ル。奉天ニテ宣統帝推戴独立ノ準備ヲ整ヘタル上ニテ、関東車司令部ノ諒解ヲエテ更ニ天津ニ行キ連出スヨリ他無シ。奉天ノ情況ヲ見テ我一人一度帰国スルツモリ、御差図乞フ。─大島」という電報が聖師のもとへきている。これによって会長補の暗示的な言葉の意味がある程度推察される。宣統帝の問題がすでに聖師によって考えられていたのである。
 満州事変の起きた当時は、宣統帝(清朝最後の帝)溥儀は天津に居住していた。そのころ満州に独立国をつくるために、文治派の袁金鎧(えんきんがい)闞朝璽(かんちょうじ)・パプチャップらは「中和国」の建国を計画し、他方吉林の煕洽・ハルピンの張景恵・熱河の湯玉鱗・洮南の張海鵬らのグループは「明光国」建国を計画していた。中和国は共和制、明光国は宣統帝擁立の清朝復辟(ふくへき)「復辟」は「退位した君主が再び位につくこと」(広辞苑)をはかるもので、この復辟派の中心人物はほとんど世界紅卍字会員であり、人類愛善会関係者たちであった。「万朝報」新聞はこの明光国建国運動について、「人類愛善会出口王仁三郎氏も直接間接にこれか賛否に列せしめらるる関係にあるわけで、同氏の態度如何が本問題を左右するものとみられ、独立計画者側からその賛同を待望されている」と報道した。また「明光という国号は、事変前に王仁三郎がつけたと自から語つている」(「大阪経済新聞」昭和6・12・11)と報じた。その他の新聞にもそれと似たりよったりの記事が掲載され、聖師との関連を示唆していた。
 昭和七年一月一日の「中外日報」には「……東亜経綸は世人か気付かぬ間に断行し、且つ種子をまいてゐたのが、八年の今日に至って芽を出したことは会心に堪へない。私の心は現に満蒙の天地に飛んでゐる。……今満蒙政局の表に立つてゐる要人達は野心家揃ひで、本当に民族を統治して行ける器ではない。誰が出ても駄目だ。そこになると宣統帝が一番よいと思ふ。満蒙の紳民間には宣統帝を擁立して独立国を建設しやうと企ててゐる。宣統帝の起ち上るのも今が潮時であらう。明光帝国の名称は事変前から屡々要人に会った時すすめてゐた。マア私が名付親とでも云はうか。序にのべておくが、大本の立場だ。大本は武器は持たない、破壊の役目でなくて、その方は他にある。大本は修理固成即ち世界の立直しをするのが神から授かった大使命だ。この目的の下に昭和青年会は立直した。青年の奮起、それは二、三年の後になるやら知れぬ」という聖師の談話が掲載されている。
 一〇月二五日には「万朝報」の長谷川社長から「恭親王(溥儀一族)から迎へに来いといって来た、明日立ちたいがどうか」と電報で問い合せがきた。それにたいして、聖師は即刻「後日のこと軍部の諒解得たか」と返電し、翌日長谷川から「電報拝見軍部諒解してるどころか援助してる。ぼく今夜立ち明日お目にかかり、それより直ちに恭親王の所に行き策運す」と電報があった。ついで一一月のはじめには恭親王の命をうけた吉村喜介が聖師に会いにきた。一方、一〇月二六日には東京から河津雄の「米倉より委細拝承、当局表画困る、内面賛成。問合せあるときは善意の慫慂(しょうよう)すとの確答得た。此のまま続行如何」と問い合せの電報が入った。宇知麿は「お許し得た努力あれ」と返電している。この問題に大本の幹部級の一部の人々が関係していたことは明らかである。
 満州の現地においては、すでに九月下旬、特務機関の土肥原大佐らを中心に宣統帝擁立運動がおこっていることが外務省に知られ、事変不拡大方針をとっていた政策に抵触することが心配されて、幤原外相は天津駐在の桑原総領事にたいしその計画の中止に努力せよと訓令した。そして拓務省には「宣統帝を擁立しやうとする復辟運動には、大本教の出口王仁三郎なんかも動いているし、また土肥原大佐も力を添へている」という報告が現地からもたらされていた(『西園寺公と政局』)。こうして日本の政府・官僚・財閥からも大本の動きがきびしく監視されるようになったのである。二月の末には、元老西園寺公望の秘書原田熊雄は、三井財閥関係者に招かれ、三井物産の大村俊太郎と会談した。大村は「満州における関東軍内に、大本教の出口王仁三郎が紅卍字教の連中と一諸になって非常な妖言を放っている。たとへば、来る何年には日本に革命が起るとか、満州に独立国を建てねばならんとか、中央部の言ふことを聞いてはいかんとか、軍の統制を紊すやうな流言を放ち、或は宣統帝を立てるやうな独立運動をするなど、あらゆる意味において彼等の行動は怪しからん話である。どうしてもあれはなんとかしなければならん」と原田に告げ、原田も政府に注意する必要があるとした(『西園寺公と政局』)。
 これらの報告は事実を混同し曲げてつたえているが、ともあれこのように大本が問題視されてきたのは、満蒙に宣統帝を擁立して独立国を建てようとするグループのほとんどが、道院・世界紅卍字会関係者であったことにも原因があった。その道院・世界紅卍字会員は、出口聖師を救世主と信じ、聖師の言葉は神の意志と信奉していたからである。こうした状況を知っていた現地の軍関係者や策謀家が、これを見逃すはずはなかった。
 満蒙問題については、昭和六年の六月一一日、参謀本部作戦部長建川美次少将を委員長として「満蒙問題解決方策大綱」が内密に研究されている。八月三、四日の軍司令官・師団長会議の機会には、朝鮮軍司令官林銑十郎・関東軍司令官本庄繁・台湾軍司令官真崎甚三郎・陸軍次官杉山元・軍務局長小磯国昭・軍事課長永田鉄山・参謀本部次長二宮治重・作戦部長建川美次・情報部長橋本虎之助、その他重藤支那課長・渡欧米課長らが会合した。満蒙問題の解決については、昭和一〇(一九三五)年に目標を置き、それまでに国内改造や国防国家態勢の確立をはかることにしていた(『現代史資料』第七巻)。ところがこの目標をはやめるために、時の関東軍参謀板垣征四郎大佐・同石原莞爾中佐・花谷少佐らは満州を占領する意図で、九月一八日に事変を起してしまった。このとき建川少将は一八日の午後九時頃に奉天へ飛行機で到着した。『満州事変機密政略日記(片倉大尉手記)』によると、建川は「流星光底長蛇を逸せるの嘆を深うせり」と語ったという。建川は関東車参謀らの急進的行動をなげき、占領意図を変更せしめるために、一九日の夜半には関東軍幕僚と会見して「現東北政権を潰し、宣統帝を盟主とし、日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし」と献策した。しかし関東軍幕僚らは占領を固執して宣統帝をたてることは承認しなかった。建川と聖師の会合は、これまで二、三回おこなわれており、満州に宣統帝を擁立する点では意見の一致をみていた。その後関東京幕僚は数回会議を開いた結果、ついに建川の意見に同意することになった。そこで、土肥原特務機関長が働きかけて、溥儀を天津から強引につれだし、旅順にかくまったのち、長春(のちの新京)にのり込ませて、執政ということにしたのである。
 出口聖師の考えは、満州民衆の総意にこたえて溥儀が皇帝の位につくというかたちで、第三者の策謀的な介入は一切排除しなくてはならぬ。そのためには、しばらく亀岡天恩郷にかくれて、溥儀をとりまく策謀の渦から離脱していなくてはならぬとするものであった。そのため聖師はすでに、一九二六(大正一五)年一一月栗原白嶺を天津に派遣し、同地に蟄居していた宣統帝に会見させて、その意のあるところを伝えているのであるが、川島浪速が天恩郷にきたときも、筆談でそのことをつたえたのである。
 聖師は土肥原らに溥儀をさらわれたのちに、その策謀的なやりかたをいきどおり、以後溥儀問題については傍観的態度をとることとなった。
 第二次大本事件の控訴審において、聖師は「建川サンヤ秦サンニ頼マレテ昭和六年ニ満州ニ行ツテクレト云ハレタ。紅卍字会ト提携云々ノ事デ……、建川ガ一諸ニ行カウト云フタ。其時満州ニハ大本が紅卍字ト活動シテイタ。宣撫班ハ大本ガ始メタ。一二月八日ニ発タウトシタノデスガ、宣撫班ノ方カラ、出テ来テハイカヌ、身辺危シト電報ガ来タ」とのべ、それで満州行きを中止したといっている。軍の一部策謀者が溥儀つれ出しの策謀を批判され、大本と提携している中国の宗教団体が聖師によって動き出したら一大事と、聖師暗殺の策動があったのである。
 満州事変に関しては日本政府は、九ヵ国条約・不戦条約の関係から不拡大方針をとり、戦闘行為をさけるよう関東軍に指令していたが、軍の強行派はあくまでも侵攻の意図をすてず、軍司令官を軟禁同様にして、溥儀を執政にまでもっていった。その間の事情を端的に物語るものに左の電文がある。これは天津の桑島総領事が外務省亜細亜局長あてに、昭和六年一一月三日に発信したもので「土肥原は館員に対し、満州の事態を現況までこぎつけたるは一に出先の軍部の活動にして、今後における収拾上是非とも宣帝の擁立を必要とする場合、もし現政府が之を阻止するか如き態度に出づるは奇怪千万にして、果して然りとせば、或は関東軍は政府と離れ如何なる行動に出づるやも保し難く、又内地に於ても目下拘禁中の暗殺計画者以外に更に由々敷事態の発生すべきを恐る。此際政府の方針の如きは問題にあらず、もし帝に於て出廬の決意あらずば権道に依りても連れ出すべしといきまきたる由……」(『大平洋戦争前史』)と報告している。ここにもその当時の情況が推測されよう。
 聖師は、〝満州は今後に於ける全世界の鎌倉となる運命をもてり〟とよんでいるごとく、満州事変の発展は世界の重大事となることを憂慮して、日出麿を派遣したのであるが、ついに事態の進行は、聖師によって意図されたところとは相反するものとなった。満州事変はただちに国際連盟にとりあげられ、九月二二日の緊急理事会で日本はたちまち不利な立場においこまれ、一〇月二四日の理事会で一三対一という結果となった。その後リットン調査団の派遣となり、国際連盟に調査の結果が報告された。この報告は、列強諸国による満州の国際管理を示唆するものであった。当時のイギリスの政策を反映して、日本の満州占領については、全面的にこれを否認したものではなく、かなり妥協的なものであったが、日本政府は、満州を中国の領土とみなす立場をはげしく批判して、その報告を否定した。一九三三(昭和八)年三月の国際連盟の総会では、松岡は「支那は国家に非ず」と非難し、対日勧告案が四二対一の多数で可決されると、ついに連盟からの脱退を通告するにいたった。世界における日本孤立の運命は、聖師の予言通りに進行してゆくこととなった。
 ここで併記しておかねばならぬことがある。それはシベリア独立計画についての問題である。一九二九(昭和四)年春ごろ、大阪の信者本庄宰甫が牧野千代蔵を同伴して亀岡天恩郷に聖師を訪ね、シベリア独立の計画について協力と援助とを懇請した。シベリア独立計画というのは、ロシア革命によって本国を追われ、また脱出していた帝政時代の軍人・支配階級の人たち、白系ロシア人、タタール人たちが団結し、赤軍の手うすなバイカル湖以東に、武装蜂起をくわだて、シベリアに独立共和国を建てるというのである。牧野はホルワット、セミヨノフ両将軍や、ポロチコフ大佐らと盟約して、具体的な秘密資料を持ってきて、この計画を理解し援助してくれるものは聖師以外にはないと熱心に説明した。牧野はセミヨノフ将軍・ポロチコフ大佐もすでに人類愛善会の会員であり、その部下にも相当会員があり、白系、タタール人の中にも会員があることを知っており、会員のためにも是非のりだしてほしいと要請した。そこで出口宇知麿・御田村竜吉・大国伊都雄らに折衝させ、一方資金調達のため、全国の有力信者三〇数人を天恩郷に招集した。しかしなお充分に調査する必要があるので、国分義一と加藤明子を視察の名目で、ハルピン方面に派遣し、要人だちと会談させた。
 ところが陸軍省は黙認していたが、武器払下げについて時の外務大臣幣原喜重郎が洩らした言葉から赤軍が知るところとなり、ついにシベリア鉄道沿線に大弾圧がおこなわれ、独立計画は挫折することになった。張作霖の麾下にあった督軍の張宗昌もこの計画に参画していたので、その後牧野は張と協力し、満蒙に独立国をつくる計画を進めていった。そのため張は部下一〇余人とともに綾部・亀岡にしばらく滞在して、着々と準備をしていったが、張は別府で静養中に病に倒れ、この計画も実現するところとはならなかった。
 聖師が「素盞嗚尊の神業は大亜細亜にある」とのべ、アジア大陸に常に意をそそいでいたことは、入蒙の行動や、青海王(中国青海省)との提携、あるいは世界宗教連合のために中国の五台山に松村らを特派したこと、また満蒙の布教に力を用いたことなどをみても明らかである。それほどアジアの開発と安定とは宗教的に文化的にまた経済的に、世界の将来のため重大であった。ことに資源の開発のおくれていたシベリアは「北がよくなる」等と大本の神示にも示唆されていた。したがって、世界の平和と人類の福祉に貢献するには、大本が先駆的に宗教的に精神開発をおこない、もって神の経綸にもとづき日本のため、また世界のために奉仕しようとするものであった。
〔写真〕
○昭和青年会旗 p107
○聖師の筆談 p108
○関東軍司令部 長春 p110
○関係文書類 o114
○満州野原にひるがえる愛善の旗 右出口日出麿総統補 左出口宇知麿人類愛善会長 p115
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