梅花運動やみろく殿建設、保育事業への協力を通じて婦人の役割がおおきくなり、婦人運動が活発になるにつけ、大本愛善婦人会の組織もまた充実され、会員も四〇〇〇人にたっした。そこで、一九五二(昭和二七)年九月には規約を改正して、あらたに会長をおき、中央委員会を審議機関とした。そして会長に出口八重野、中央事務局長に小高美沙子が就任し、一一月からは機関誌「婦人会だより」を発行して、婦人会の中央と地方との連絡を密接にした。一九五三(昭和二八)年には、三代教主から、婦人会の紋章を「三つ梅」とさだめられ、会員はこれを紋服にもちいてもよいこととなった。
またこのころには宗教婦人連盟を通じて、他の宗教団体との友好関係もふかくなってきた。一九五三(昭和二八)年五月一四日、近畿宗教婦人連盟総会では、京都府代表として大国清香・兵庫県代表として野上比奈子が、大本婦人の立場から意見をのべ、「信仰による真実の喜びを具現し、人類平和に努力する」ことを誓い、戦犯者慰問をおこなうなど、大本愛善婦人会員の地域活動もみられた。昭和二八・二九年には、教養の向上と生活の改善、青少年の育成・社会福祉活動・地域婦人会との交流などが運動方針としてとりあげられているが、この線にそって日常活動がたえずつづけられ、婦人運動の分野も拡大されてその基礎もしだいにかためられていった。
一九五四(昭和二九)年のビキニ環礁における水爆実験反対署名運動には、人類愛善会・青年会と協力して活躍した。ビキニ被災者の家族見舞には、婦人会中央事務局次長大山美子を婦人代表として派遣した。その生々しい報告は婦人会員におおきな刺激をあたえ、原水爆実験反対署名運動にたちあがらせた。そしてその後ひきつづいて教団が展開した水爆問題講演会や、世界連邦アジア会議への参加となり、また原水爆禁止世界大会へ毎年代表を派遣するなど、平和運動への自覚と意識をたかめた。
農繁託児所の開設は、一九四九(昭和二四)年から農繁保育所としてとりあげられ(七編四章)、一九五三(昭和二八)年には大本愛善婦人会の事業として、地域婦人会と協力して穴太で開設したのにつづいて、昭和二九年には穴太をはじめ、京都伏見区納所、八木、綾部、鳥取の吉岡など、各地の婦人会でつぎつぎと実施された。中央事務局はこれら施設に経費の助成をするとともに、大本社会事業団と協力して、保育所指導者講習会をひらき、具体的な指導をおこなった。この事業は、のちに農繁託児所の必要性についての社会の関心をめざめさせ、農村の有志や自治体によって開設されるようになるまでつづけられた。また一九五四(昭和二九)年から展開された食糧自給国民運動に、婦人会は青年会とともに協力し、農事講習会参加の呼びかけをおこなうなど、各地で積極的に活動した。同年八月五日には、京都宗教婦人連盟主催の万国戦没者慰霊祭が、大本愛善婦人会の世話で亀岡天恩郷でおこなわれ、来苑した神・仏・基各教宗派代表との交歓がなされた。ついで八月九日の第一一回中央委員会において、大本愛善婦人会の名称は「大本婦人会」とあらためられた。これよりさき、昭和二七年から一月一五日の「成人の日」に、本部奉仕者の成人祝をおこなっていたが、会員子弟の信仰育成のため、昭和二九年からは、これをひろめて全国の会員子弟の成人式を天恩郷でおこない、記念品をおくることとした。この成人式は地方連合会でも漸次おこなわれるようになり、二世の信仰を啓発し、交流をふかめる機会になった。
こうした活動のなかで、一九五三(昭和二八)年四月の基本婦人会長会議で決議した婦人会館の建設は、総工費二九一万九二〇一円で、一九五五(昭和三〇)年八月六日には天恩郷の苑内に完成し、三代教主から「瑞月舎」と名づけられた。この婦人会館には中央事務局がおかれ、会員の宿泊・会合に利用されたが、さらに、建物のすくなかった天恩郷では、教団活動の各方面にこの施設が提供されて、おおきな役割をはたした。
宣教や個人の家庭にとって、もっとも重要なことの一つは女子青年の育成である。婦人会はこの要望にこたえ、教団と協力して、一九五六(昭和三一)年五月から二ヵ月間、大本女子教修所を婦人会館で開設した。また、本部女子奉仕者の研修にも力をつくし、料理教室・和裁教室などもあわせて開催した。また青年会と協力して、少年育成に力をそそぎ、毎年各地で開催される少年夏季学級に援助をおこなった。
節分大祭に婦人が奉仕する瀬織津姫行事の服装についても研究がおこなわれ、三代教主の意向にそって、昭和三一年の基本婦人会長会議で白衣・紫の木の花帯の服装を制定し、翌年から実施した。これを機会に、婦人会ではこれらの服装を調整して保管し、節分大祭における瀬織津姫行事の奉仕いっさいを、一九五七(昭和三二)年より毎年担当しておこなうこととなった。また、この年には教団の宣教方針にもとづいて、本部修行者送り出し運動に積極的に協力している。昭和三二年八月には、大本婦人会は全面的な規程の改正をおこない、従来の中央事務局は本部事務局とあらため、中央委員会を廃して、連合会長会議を審議機関とし、地方の基本婦人会は婦人会支部と改称した。
このころには平和運動への意識もたかまって、一九五六(昭和三一)年からは被爆者救援運動をおこし、全国の会員にたいして一円募金をよびかけた。これらの募金は原水爆禁止日本協議会を通じて被爆者団体に寄付され、のちに被爆者援護法が制定されるまでつづけられた。原水爆被害者救援運動とともに、「人類愛善新聞」の原水爆禁止世界大会特集号の一部売りも全国で実施され、婦人会も各地で熱心にとりくんだ。また各地で世界連邦都市宣言運動に協力するなど、平和運動をはじめとして、婦人団体連合会への加盟、全国母親大会への参加など、一九五七(昭和三二)年以降には婦人会運動の対外的進出も積極化した。さらに大本婦人会は人類愛善会婦人部の立場で世界連邦運動を推進し、一般婦人の集まりとして全国数ヵ所に結成された世界連邦婦人の会の有力メンバーとなり、一九五八(昭和三三)年二月に結成された全国世界連邦婦人連絡協議会には、東京・京都をはじめとする大本婦人会員が重要な役割をはたしている。
一九五八(昭和三三)年四月、出口八重野の辞任にともない、五月二七日付で出口向江が会長に就任した。この年は社会活動とともに、生活のなかに信仰を生かす実践面に力をそそいだ。これは八月の第二回連合会長会議で決められた、「みろくの世の実現は、まずわが家からみろくの家とすること─これこそ婦人に課せられた最も大きな使命であります。それには精神面が大切なことは申すまでもありませんが、婦人の務めは生活の体的な面をあずかることにあります。私たちの日ごろの家庭生活が教えを生かしたものでなくてはならないと思います」(「愛善苑」昭和33・9)との運動方針にもみられる。
また青年会と共同で機関誌「大本婦人・青年」を発刊し、冬期特別宣教として婦人派遣講師磯部八重子を、一九五九(昭和三四)年二月中旬より1ヵ月間北海道に派遣し、婦人問題について研修した。
また同年八月八日には第一回大本婦人会幹部研修講座を三日間にわたって天恩郷でひらき、「大本の使命」「現代の家庭教育」「教典よりみた婦人のおり方」などを講題に研修をおこなった。こうした婦人講師の派遣や研修会を通じて、自己内修と家庭の愛善化への気運をたかめた。
一九六〇(昭和三五)年には、教団の宣教方針である「家族ぐるみの信仰」と「分苑・支部の神の家づくり」に協調して、全国総合研修会を宣教部・青年会と一体になって推進し、本部事務局からは小高・磯部・細田よしを等が出向した。研修会では家庭や地方機関・地域における婦人の役割について話し合いがおこなわれ、家庭を基盤に婦人運動への積極的意欲をたかめた。
ついで一九六一(昭和三六)年には、教団・人類愛善会・婦人会・青年会の総合運営のもとに、開教七十年特別宣教体制が確立され、神教宣布の活動が強力に展開された。婦人会員はこの特別宣教のなかで、あたらしい信徒のみちびきに活躍し、おおきな成果をあげ、会員数も五五〇〇人となった。婦人会はまた、その後も一円募金運動をつづけ、毎年の風水害や冷害など災害救援基金にあてたり、「愛善米運動」とあわせて社会福祉面にも活動した。さらに人類愛善会の諸運動にもおおきく貢献したが、それらは第三章平和運動で言及されている。
〔写真〕
○大本婦人会機関紙 p1067
○紋章 三つ梅 p1068
○農繁託児所がつぎつぎに開設され社会の関心をよびおこした p1069
○大本婦人会館 瑞月舎 昭和36年移転直前 亀岡天恩郷 西光館北東側 p1071
○大本婦人会全国連合会長会議 真剣な討議をへた実践は教団発展の原動力となった p1072