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社団法人愛善みずほ会

インフォメーション
題名:社団法人愛善みずほ会 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:1072
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c8233
 社団法人愛善みずほ会は、前にものべたように(七編四章五節)、黒沢式稲作法の暖地における不適や会の力が機能的に発揮されなかったこと、さらに農村経済のあらたなゆきづまりに十分に対応できなかったことなどもあって、一時は三万二六〇〇人をかぞえた正会員も、一九五二(昭和二七)年六月には一万二七〇〇人となった。そこで山中重信・伊藤恒治・島本覚也らが中心となって、農業技術指導の強化をはかる一方、大本本部から二〇〇万円を借入れて会の再建に全力がそそがれてきた。
 一九五三(昭和二八)年二月の社員総会で、会長梅村登、副会長出口新衛・島本覚也、専務理事山中重信が再選されたが、三月二八日の緊急理事会では、参議院議員立候補にともなう梅村会長の辞任が可決され、これを機会として梅村も退会した。この年の指導方針には、主要作物増収技術の徹底とともに、農家経済力の充実がうちだされており、「日本農業を経済的に圧迫するものは必要以上の外国食糧の輸入である。これを防ぐためにも米麦作の労力を極端に少なくし、なお四石平均くらいの収穫があるように考慮せねばいけない。現在の米作一反歩当りの労力二十一人とすれば、これからは十人乃至十二人位で仕上げることである。これによって生まれる労力を有利な野菜を作るなり、裏作麦をつくって飼料化し、家畜、家禽を養って金銭収入の道を多くしてゆくのである」(「みづは日本」昭和28・8)と山中専務理事がのべているように、米麦の省力栽培と、換金作物による現金収入の増大によって、農家経済の安定をはかることに留意された。
 昭和二七・二八年に会員がしめした顕著な実績をあげてみると、米作では、凶作にみまわれた山形県において、会員は反当平均四・四石をあげて例年より六斗の増収をしめし、青森県八甲田山麓にすむ会員は、黒ボクの冷水地帯にかかわらず、反当平均五石を上回る収穫をえた。これは島本の酵素利用による地力つくりと、伊藤の肥料設計・燐酸多用の技術の応用が実をかすんだものであった。甘藷では、高知県の一会員が反当総掘収量五一二六貫の多収穫に成功し、技術指導のためメキシコ政府にまねかれて移住した。愛媛・宮崎両県の会員も三〇〇〇貫を突破した。菜種は、愛知県の会員が反当収量六・九石、三重県の会員が五石の実績をあげ、愛善みずほ会による指導は各地で着々とよいみのりをむすんでいった。また酵素の利用にも工夫がこらされ、飼料化や堆肥化がすすめられ、育雛・養鶏・地力増進によい効果をあげた。
 一九五二(昭和二七)年には日本の人口は八五八五万人をこえ、年間の自然増加数は一二四万人をかぞえていた。しかし米の生産量は豊作であった昭和二七年度で六六一五万石、反当平均は二・一八石の収穫量にすぎなかった。「年年玄米にして二〇〇〇万石の不足が訴えられ、この不足を戦後ことごとく輸入にあおぎ、米麦三〇〇万屯以上、金額にして、一二〇〇億円の巨額にのぼって」いたといわれているほどである。しかも一九五三(昭和二八)年は、風水害と冷害があって、五四九二万石という大凶作となり、「翌年度には、一一五万屯の外米輸入が計画され……世界市場に出回る米四五〇万屯の四分の一は日本へ向けられているという実状」(「愛善苑」昭和29・1)であった。
 昭和二七年における輸入米二二〇〇万石の一升あたり輸入価格は一一七円、配給価格は八二円であったのにたいし、内地産米の供出は二一〇〇万石、その政府買上価格は七五円、配給価格は九六円で、輸入米をたかく買入れて内地米より安く配給し、その反面、内地米はひくくおさえて高く配給するという操作がなされた。そのため農家の増産意欲は低下し、一方食糧管理特別会計の赤字も累積して、国の財政を圧迫する一因ともなった。そこで「日本経済の自立を望むためには、まず貿易の正常化を図ることが先決であり、そのためには当然輸入総額の二十パーセント以上を占める食糧の自給力強化を必要とすることは今日の常識」であるとして、愛善みずほ会は「現在のみずほ農法では反当り労力十人以内で四石収穫の自信がある。日本の耕地面積田三三〇万町歩、畑三〇〇万町歩で、全日本にこの運動が普及した暁には、反当り三石平均とみて九、〇〇〇万石をこえ、米はあまる。さらに聖師さまの提唱された陸稲栽培法を畑地に普及するなら、食糧問題の解決は至難の問題ではない」ことを力説し、一九五三(昭和二八)年一一月九日の理事会で、大本教団と協力して食糧自給国民運動の全国的展開を決定した。この運動で愛善みずほ会は農業技術面を担当し、みずほ農法の普及徹底を期するとともに、信徒農家の入会・復活をはかり、全国各地で、愛善みずほ会地区事務所と大本各主会の協力のもとに運動がすすめられることとなった(一〇一六頁)。なお、会の財政立直しは、その後逐次実績をあげ、この年の一二月一日には、大本本部からの借入金の返済もおわっている。
 一九五四(昭和二九)年二月二日に、理事会および社員総会がひらかれ、欠員であった会長には全会一致で出口新衛が就任した。この年の三月八日にはMSA援助条約が締結され、アメリカの余剰小麦が輸入されて、その利益は軍需産業に投資され、駐留軍の労務支払いと物資の調達にあてられた。そのため農家の増産意欲はますます減退をきたし、愛善みずほ運動の前途にもあらたな困難がくわわってきた。しかし、「MSA援助受入れと対応して食糧政策は大きくかわりつつあるが、防衛強化のシワが食糧生産者である農民によせられ、ひいては日本の経済的自立をいよいよ困難とする事態をもたらしはしないか。今日ほど農民ひとりひとりの自覚にうったえて、食糧増産運動を推進することの重要性を痛感することはない」(「みづほ日本」昭和29・4)とうったえて、食糧自給国民運動かさらに強力に推進されることとなった。綾部で食糧自給国民運動大講演会がおこなわれるとともに、地方では一月から三ヵ月間にわたって、一主会平均一会場、二日間を単位として農事講習会が積極的にひらかれていった。
 農事講習会は山中重信の「農業経営の実際と蔬菜技術」、伊藤恒治の「安全多収米麦増収法について」を内容として、九州を皮きりに、四国・山陽・近畿・山陰・東海・関東・東北・北海道と国土を南から北へとリレーしておこなわれた。農事講習会はその後も地方の自主的企画で開催され、この年には一七二会場・二万二六〇〇人の受講者があり、このため、その年の会員は、前年度よりも一一〇〇人の増加をみた。またこれと並行して、島本覚也による「微生物農法について」の講習会も随所でおこなわれた。
 一九五五(昭和三〇)年二月には理事・役員の改選がおこなわれ、会長出口新衛、副会長島本覚也、専務理事山中重信が再選されたが、食糧自給国民運動の第二年度として、この年も山中・伊藤・島本らによる農事講習会が各地でおこなわれた。とくに農村信徒の愛善みず会入会、農村の大本支部所在地に愛善みずほ会支部の設置を促進すること、機関誌「みづほ日本」の普及に重点がおかれた。そのため従来の愛善みずほ会本部委嘱の指導員にかえて、あらたに本部指導員・地方指導員制をもうけ、指導陣を強化する一方、本部指導員を教団の宣教部地方課兼務とし、また主会長と地区事務所長、主会専任宣伝使と地方指導員の合同会議をもって、教団と愛善みずほ会の一体的運営を促進した。その結果各地で相当の好成績をおさめた。米作日本一の競作に出品した兵庫県の会員が反当四・八五石、和歌山県の会員が四・四一五石でそれぞれ県下で一位、また京都府の会員は四・五九石で東海・近畿ブロック増産躍進賞を獲得しているし、青森県の会員もまた反収六・四五石の成績をあげた。愛媛県の難波支部では平均反収六・一八二石をあげ、県下の麦作競作会で団体一位、個人でも六・九三石で一位を占めた。こうした活躍が社会の注目をあつめたことはいうまでもない。この年には参議院議員高良とみの斡旋もあって、出口会長が1ヵ月間、農業技術援助の実地調査をするため渡印している(四章)。
 一九五五(昭和三〇)年の一二月から食糧自給国民運動は、「農村生活の新生と立直し」と改称され、教団としては、とくに信徒農家の技術の習得と実践の強化に力点をおいて、運動がすすめられることになり、愛善みずほ会はこれに協力してその育成につとめた。なお、信徒農家の要望によって、一九五五(昭和三〇)年二月の大本開祖大祭からお初穂献納の受付が正式にはじまり、また翌昭和三一年二月の節分大祭からは、神前に供えた優良水稲品種の籾種の支部への下付が復活された。
 昭和三一年から三二年にわたって、会員による米作の体験発表がなされているが、青森県では会員中四石以上の成績をおさめたもの八一人、六石台のもの三人、会員の平均四・四石から四・八石という報告があり、奈良県橿原支部連合では二〇〇人の平均反収が、従来の三石から四石ちかいものになったと知らせてきた。とくに山間低収地では、病気につよい稲の優良品種をすすめ、適切な肥培管理を指導することによって、二石前後の収量が三石台にあがったという報告が注目をひいた。高知県の会員は心土栽培法をとりいれて、一町四反歩の反当平均四・五石の成績をしめした。愛媛県大洲市上須戒地区は標高三〇〇メートルの山間地で、陸の孤島といわれる僻地であるが、みずほ運動が実をむすび、九支部二〇〇余人の会員が支部連合を結成した。この地域の九九%までが、愛善みずほ会の水稲品種で、三年前とくらべて約二倍の増収を得ることに成功し、昭和三〇年・三一年と県知事らの視察がなされた。広島県の会員は反当五・二石、また亀岡の中矢田農園では一町歩の反当平均四・五石、最高五・四石の実績をしめしている。一方、日本における稲作の技術水準も向上して、一九五五(昭和三〇)年には史上最高といわれた八二五六万石を記録し、ついで昭和三一年七二六五万石、昭和三二年七六四一万石と豊作がつづいたが、しかし、一般の反当平均収量は、昭和三〇年でさえ二・五四二石にとどまっていて、いかに愛善みずほ会会員の実績が群をぬいたものであったかがわかる。昭和三二年からは、みずほ農法の指導と普及をいっそう徹底するために、8ミリ映画が採用されている。なお、一九五七(昭和三二)年度の支部数は一〇七〇、会員は一万一五〇〇人となっている。
 一九五八(昭和三三)年には、愛善みずほ会は創立十周年をむかえた。二月一日本部会館において創立十周年記念式典と表彰、ついで愛善みずほ会関係物故者の慰霊祭がおこなわれた。この年からは、農業技術の浸透と農業機械の導入、農作物の多様化と農家経済の困窮に対応して、愛善みずほ会でも農業技術と農業経営に、より高度な科学性を導入するよう指導がなされ、換金作物として、みづほメロンと椎茸の普及に積極的にのりだすこととなった。こうした技術指導の強化による成果は着実にあがっていった。長崎県松浦地区の会員六〇人の平均反収は四・二石、五石以上が四人もあり、従来二・三石だったものが四石以上の収量をあげている。愛媛県では、久万町の高冷地帯(七五〇メートル)で五・九石の実績をしめし、また同県北条町での稲の競作では、四・四四八石で県下一位をしめ、地元の亀岡市でも従来二・二石しかとれなかった人が、五・六石と一挙に倍増以上の実績をあげている。なお、昭和三三年一〇月には、株式会社多木製肥所との間に「あいぜん肥料」の製造登録協定をむすんで、優良肥料(窒素六・燐酸九・加里七に有機質肥料を複合)の委託製造・斡旋をはじめ、翌年の一〇月には、会員による蔬菜の共同出荷団体として、愛善みずほ会関東ブロック協議会が結成され、流通機構を改善して生産から出荷への一貫した体制の確立がこころみられている。
 一九六〇(昭和三五)年九月六日、池田内閣は農業基本法の実施を予告した。そこでは「曲り角にきた農業・第二の農業革命」がうたわれ、経済の高度成長政策にそった大農化方式がうちだされた。「米はあまる、世界の食糧もあまる。果樹・畜産・養鶏・蔬菜など適地適作の選択的拡大方式をとらねば、日本農業はゆきづまり、外国農産物と太刀うちできない」として、一〇月一〇日には、食糧庁長官、同庁振興局長名で「ムギを作るな」という要請があり、裏作麦の減反に拍車をかけた。これを転機として、全国的に「百姓では駄目だ」という空気が支配的となり、農村青年の離農が激増した。農業基本法の政府案は一九六一(昭和三六)年の二月一八日、国会に提出され、いわゆる一〇〇日審議ののち六月六日に成立した。農村には米作悲観論がますますしみわたり、逆に畜産・養鶏・果樹の増産気運がおこってきた。各界各層よりおおくの批判をあびながらも農某基本法は徐々に浸透し、青年の離村現象はいっそうめだつようになった。愛善みずほ会もその影響をうけて、会員数は、昭和三三年の一万三七八五人から、昭和三五年に一万二五〇〇人、昭和三六年には一万一二〇〇人と減少した。
 こうしたくるしい客観状勢のなかで、愛善みずほ会は、一九六一(昭和三六)年度の運動方針に「米の需要は底をついたのではない。余るかのごとく錯覚をおこしているが、外国食糧に依存する量は莫大なものである。愛善みずほ会はよりいっそう食糧の自給を強化するよう運動をすすめるものである」と、会設立以来の一貫した方向をしめし、「一、稲作指導の徹底 二、特用作物の栽培指導 三、メロンの普及 四、畜産の振興 五、中心農家の養成 六、日本農業を推進する気力の養成」の六項目にわたる実施要項をかかげた。同時に、客観状勢に対応して、「一、時代に即した新らしい稲作 二、稲作を軸とした各種農業経営すなわち稲と畜産・果樹・園芸・特殊作物・工芸作物との組合せ研究 三、経営の協同化 四、農村の進展をはばむ事柄を除く努力」など、農基法に即した方法で対処するよう指示し、あたらしい稲作のあり方として、省力増収、水田の高度利用、集団栽培がすすめられた。また蔬菜の栽培と市場出荷の協力体制を強化し、市場と直結した合理的な方法をとり、収穫物を有利に販売できるよう研究がすすめられていった。
 愛善みずほ会は一三年にわたり、民間有数の農業改良団体として農業技術の改良普及につとめてきたが、実地指導とともに、月刊誌のほか数おおくの単行本・パンフレット・図表・スライド・8ミリフィルムを作成頒布した。こころみに、一九四八(昭和二三)年から一九六一(昭和三六)年の間に発行されたおもなものはつぎのとおりである。
◎稲作に関するもの─改良稲作々業表(B3判、昭和23・4)、六石取米作掛図(B2判、昭和23・4)、豊作への指針(B6判、槌田竜太郎、昭和23・4)、改良稲作法(B6判、黒沢浄、昭和23・4)、ゑばなしいねつくり(B5判、西村朝喜、昭和24・3)、稲作夜話(新書判、黒沢浄、昭和24・12)、暖地稲作の研究(B6判、真砂正次、昭和25・2)、稲作新説(B6判、伊藤恒治、昭和29・4)、これからの稲作(B6判、同、昭和30・12)、水稲耕種概況表(B5判、昭和31・3)、優良水稲品種の特性と栽培(B5判、昭和32・1)、陸稲増収改良栽培法(B6判、出口新衛、昭和28・4)、水稲畑栽培法(B6判、昭和32・3)。 ◎麦作に関するもの─麦作研究(B6判、伊藤恒治、昭和24・1)。 ◎経営・蔬菜に関するもの─ジャガイモ増収法(B6判、山中重信、昭和24・3)蔬菜栽培の要点(B6判、同、昭和25・8)、近代農業経営の指針(B6判、同、昭和26・2)、躍進する蔬菜栽培(B6判、同、昭和27・2)、蔬菜作りの秘訣(B6判、同昭和29・12)、みづほメロン栽培の栞(B5判、昭和32・1)、経営の勘どころと蔬菜の秘訣(B6判、山中重信、昭和29・12)、みづほメロンの作り方(B6判、同、昭和34・11)、しいたけの不時栽培(B6判、藤掛正雄、昭和34・11)、セレベスの作り方(B6判、山中重信、昭和36・7)。 ◎微生物に関するもの─酵素の応用と農業(B6判、島本覚也、昭和24・9)、醗酵微生物の応用(B6判、同、昭和26・2)、微生物農法(B6判、同、昭和27・6)、最新微生物農法(B6判、同、昭和31・3)。 ◎その他─毎年の農事暦(B6判)、開拓記(B6判、梅村登、昭和24・2)、(わた)のつくり方(B6判、田中房太郎、昭和24・4)、米麦病虫害特集(B5判、昭和26・3)、雑草養鶏と鶏糞酵素養鶏(B6判、昭和32・1)、肥料設計の話と実例(B6判、昭和32・3)。
 このような歩みをたどってきた、愛善みずほ会体制の現状はどうなっているのか。この会の本部事務所は、京都府亀岡市古世町北古世七九番地の愛善みずほ会館におかれている。本部には事業部のもとに、総務課・経理課・会員課・指導課・編集課・業務課の六課をおいて、地方との連絡・指導などの事務をおこない、月刊誌「みづほ日本」を発行して正会員に頒布している。地方活動は、支部(会員五人以上)単位にもおこなわれるが、数ヵ村または市や郡内のいくつかの支部があつまって支部連合をつくり、講習会・競作会・品評会をひらいて活動のつながりをつよめるように努力されている。地区事務所は府県単位に一ヵ所もうけられ、管下の支部連合または支部を統轄し、必要な事務・物品の取次などをおこなう。会員には、普通会員(趣旨に賛同し入会手続をへたもの)・正会員(会費年額五〇〇円以上)・名誉会員の三種がある。
 社団法人として、一〇口(一口、一〇〇〇円)以上の出資者をもって社員となし、社員中から理事・監事、理事のなかから会長・副会長が選任される。そして社員および役員によって構成される総会が、この会の最高議決機関となり、理事をもって構成する理事会は、重要常務の審議・執行機関となっている。また、地区単位に正会員のなかから一人ずつ評議員が選出されて評議員会を組織し、会の目的遂行のため必要な事項を評議し、理事会の議に付することになっている。なお、指導体制としては本部講師は三人、本部・地方指導員百数十人が任命されている。
〔写真〕
○農具を象徴した会員章 p1073
○愛善みずほ会は一貫して大地の尊重と食糧自給をさけびつづけ農業技術改善に顕著な実績をあげた 農事講習会 熊本人吉市 p1076
○本部指導員を動員して各地でくりかえし講習会がひらかれた 徳島 p1077
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