一九六二(昭和三七)年三月一九日、亀岡天恩郷の春陽閣で、第七回人類愛善会評議員会がひらかれ、運動方針としては、かがやかしい実績をになっている世界連邦運動・原水爆禁止運動、ならびに世界宗教者平和会議のめざす諸運動を力づよく推進するとともに、新年度の運動の特長として、「人類愛善新聞」を通じて、世界に平和の声と行動をたかめてゆくことに重点がおかれ、教団と人類愛善会が一体となって「人類愛善新聞」の拡張にのりだすことになった。
さらにこの会議においてあらたな総本部の役員が決定され、この機会に従来の理事制のなかに、常任理事がおかれることになり、名誉会長出口伊佐男、会長出口栄二、常任理事大国以都雄・米川清吉・三村光郎・安本肇・広瀬静水、理事出口虎雄・伊藤栄蔵・土居重夫・桜井重雄・葦原万象、宣伝部長安本肇、管理部長土居重夫、文書室長広瀬静水がそれぞれ就任した。
「人類愛善新聞」が、このように積極的にとりくまれることになった理由の第一には、教団の活発な神教宣布の諸活動に相呼応する機関紙活動の重視がある。現代社会にたいして大本の主張を率直にうったえ、その教義や思想を紹介することは、現時点における大本神業の進展のうえに、きわめて重要な役割をになうものと感じられた。第二には、東西対立の国際情勢のきびしさとかかわって、文化・思想の諸分野や平和運動のうえにも意図的な妨害がくわえられはじめ、マス・コミもまた、その影響をうけてきたことがあげられる。しかも平和運動内部にあっては、各政党・労組などにおける主導権争いがからみあって、国民大衆を基盤とする平和運動にも分裂のきざしが生じつつあった。このような事態のなかで平和運動をすすめてゆくには、世界や日本の現状に関する適確な問題認識と、真実のニュースの報道が必要であり、同時に、人類愛善会の主体的な独自の立場にたつ主張の展開と、実践かあらたな課題となった。
そのため、「人類愛善新聞」は、これまで編集業務を亀岡でおこなっていたのを、一九六二(昭和三七)年四月から、その主力を東京本社(大本東京本苑内)におくこととした。印刷も従来は、北国新聞社でおこなわれていたが、五月から東京の機関紙印刷でおこなわれることになり、東京での一貫した発行体制が確立された。紙面は、これまで四頁であったものが、三月下旬号からは六頁に増頁され、さらに五月からは、毎日曜日に発行する週刊制にきりかえられた。「人類愛善新聞」の宣伝・頒布は、従来、人類愛善会の地方組織によって推進されていたが、教団と人類愛善会の合同地方機関長会議において、教団特宣体制の地方分会もこれに協力することが決定され、いっそう強力にその拡張がすすめられることとなった。そして信徒・会員の機関紙として購読がすすめられると同時に、大本関係以外の一般読者をも対象とする一般紙としての性格がつよめられ、編集面では、説教的・独善的なものをさけ、公平かつ客観的にとりあつかうように配慮された。紙面の内容には人類愛善の立場を基調として、国際問題・政治・社会・軍事・宗教・文化・教育など、各方面にわたる解説や評論をかかげた。
こうした「人類愛善新聞」の真摯な姿勢は、社会的評価をたかめ、外部の購読者数もしだいにふやすことになった。平和を愛する諸団体や、評論家・学者・ジャーナリスト・作家・芸術家・宗教家などからも積極的に支持され、好意にみちた協力をうるようになった。たとえば、「日本読書新聞」(昭和37・11・9)は、つぎのように「人類愛善新聞」を紹介している。
「人類愛善新聞」への各界の評価と期待は、想像外に大きなものがあったが、そこには大別して二つの問題があるといえる。一つは、とくに新安保成立後マス・コミにたいする根ぶかい不信感である。巨大な商業新聞が公正中立の報道をうたいながら、日本と世界が直面している問題との対決を回避し、無責任な泰平ムード、レジャー礼讃に流れ、真実を恐れるところなく報道し、社会の木鐸となるべき骨格を喪失しているという批判が、「人類愛善新聞」の、企業意識から無縁な成りだちと報道態度への評価を高めたのである。真実のマス・コミ、理想的なマス・コミという讃辞は、商業ジャーナリズムの反動化と低俗な商某主義への批判に他ならない。
第二には、「人類愛善新聞」の思想、文化、宗教問題への真剣なとりくみへの評価である。いわゆる民主陣営の進歩的なマス・メディアが、国民個々の生活にわけ入り、その心の問題にゆたかな寄与をするという角度が著しく立ちおくれている現在、「人類愛善新聞」が、国際問題、社会問題、平和問題で一貫して進歩的な主張をかかげつつ、思想・文化・宗教の問題に大きなスペースをさき、平和を愛好するという他には、ほとんどわくをもたない百家争鳴的な論評を提供してきた役割は注目される。
この年の五月三日は、日本国憲法公布より十五周年の記念日にあたったが、人類愛善会では、「人類愛善新聞」の護憲特集号の頒布活動を、憲法記念日を中心におこなうよう全国の地方機関によびかけた。四月下旬から五月中旬にかけての約一ヵ月間、各地では統一行動日がもうけられ、組織的な活動が展開された。東京・島根の各三万部を筆頭に各地で会員が活躍し、三一万部を突破する成績をおさめた。五月五日には金沢市の北国講堂で、憲法施行十五周年記念平和講演会がもよおされた。五月一四日には熊本市の大洋文化ホールで、九州・四国・山陽・山陰および大阪地区の各代表数百人が参加して、人類愛善会西日本大会が開催され、各地区代表者によって人類愛善運動による平和実現の決意が表明され、具体的な運動方法が協議された。この大会にさきだち、五月一三・四日には、熊本市公会堂ホールで世界連邦日本大会が開催された。それは、一九六三(昭和三八)年日本で開催される世界連邦世界大会の成功にむけられたものであった。五月二〇日に、島根本苑では、軍縮のための山陰婦人大集会が開催され、六月二日には、人類愛善会兵庫県連合会主催の憲法問題講演会が姫路でひらかれた。
これよりさき四月一一・一二日には東京浅草寺伝法院において、日本宗教者平和協議会が結成された。この協議会は、京都で開催された世界宗教者平和会議で採択された京都宣言(三章)の趣旨を実行するための中央組織であり、大本からも代表数人が参加した。この会議で、中国やアジア諸国への侵略戦争のざんげと、軍備なき平和な世界実現へのつよい念願をこめて、軍備全廃・原水爆禁止・核非武装・信教の自由擁護などがつよく強調された。
一九六二(昭和三七)年七月九日から一四日まで、世界平和評議会のよびかけによる全般的軍縮と平和のための世界大会が、モスクワでひらかれ、東西をとわず一二〇ヵ国から、平和を熱望する代表者二千数百人が集会した。日本からは、宗教・婦人・学者・文化人など各界の代表およびオブザーバなど一〇〇余人が参加した。人類愛善会では、平和をねがう純粋な立場から、この大会の支持を表明した。会長出口栄二は、日本宗教者平和協議会の代表として、大河内隆弘(伝通院貫主)とともに推薦され、人類愛善会会員古田光秋は、地域の平和団体から島根県代表として推薦され参加した。出口は大会の議長団に選出され、さらに道徳に関する委員会では、戦争の罪悪性の強調と、不戦の世界的世論の提案をおこなった。また会場では、日本から持参した人類愛善会や大本の諸運動を紹介する資料を配布したが、海外代表のなかには、その内容に非常なおどろきと関心をよせるものがおおかった。そして六日間におよぶ熱心な討議ののちに、諸国民へのメッセージを採択して幕をとじた。メッセージは人類的立場から、平和をもとめる諸国民の良識と悲願を率直に反映した。そこには軍縮による生活の向上を指摘し、軍縮の達成はきわめて困難であるけれども、すべての障害は克服できるとの確信にみち、軍縮は人類すべての双肩にかかっていると、つよくうったえたものであった。
出口会長は帰路、中国仏教協会の招請をうけて、七月一九日に中国を訪問し、二週間にわたって滞在して八月一日に帰国した。中国では、周総理をはじめ各界の要人や、ことに宗教界の有力者と懇談して友好をふかめ、宗教・文化面の交流がいっそう促進されるよう意見が交換された。「人民日報」は、周総理と懇談した出口会長の写真をおおきく報道した。
この年もまた、原水爆禁止世界大会にさきだって、「全世界から核戦争の危機と原水爆をなくするため」の核戦争阻止・原水爆禁止国民平和大行進が、北から南からはばひろい国民の支持のもとにおこなわれて、人類愛善会の会員も各地で積極的に参加した。第八回原水爆禁止世界大会は、八月一日から六日まで東京でおこなわれたが、強引な主導権争いが表面化して、宣言や決議の採択はなされずに報告で幕をとじた。しかし一方では、そうした深刻な事態に直面しながら、ひたすらに大会の成功をもとめて、整然と最後まで秩序をくずさなかった一般大衆の平和にたいする熱情がしめされたことを、みのがすべきではないだろう。
この時期には、平和運動の内部における主導権争いをめぐっての政党色がますます濃厚となり、平和を志向する団体の動き自体にも、不幸な分裂の危機がつよまりつつあった。また教団のなかにも、運動がはげしさをますにしたがって、機関紙誌に発表される論説や言動のなかに、ゆきすぎとうけとられる一面がみうけられるようになり、そのなりゆきを案ずる人々もでてきた。
こうした事態に直面して、大本は如何にあるべきか、かねてそのことは、三代教主によってふかく憂慮されていたが、「おほもと」誌の八・九月合併号には、教主がつねづね念願されていたこととあわせて、「私のねがい」と題するつぎの言葉がしめされた。
私のねがいといたしますところは、あらためて、神さまのみ教えを、ほんとうに、うけとらしていただき、示されているお道をしっかりと歩ましていただくことで、神さまのみ声による大本の教えを、いま一度、いただき直してもらいたいことであります。そうして、お互いが、神さまのみ教えによって反省し、お互いの生命に、神さまのおかげを、こころから自覚して、お互いの歩むべき道を、それぞれ開拓さしていただくことにより、神さまのみ教えを拡めさしていただくために、ばげみたいことであります。……
大本の教えは、右によらず左によらず、右をも左をも平和の大道に活かしうるものでなければなりません。大本には大本としての平和運動のあり方があるのではないでしょうか。この大本は、平和への働きかけにおいても、判りやすく言えば─この中の人から、平和な気持になって、それを世の中の人にうつしてゆけ─と示されているところです。そのためには、平和の心に反している自分の腹の中の掃除をしようという、暮しの中でのはげしい修行が、信仰的な精神が、たいせつであります。……時流の渦に超越して、本来の「大本」を明確にして、大道に生きる道こそ、勇気と忍耐と最大の努力を必要とするのです。大本は今も、神さまのあらたかな光の中に守護されているのです。この光を、人々の心に点じることが私たちの使命であると思います。「みろくの世をつくる」という言葉を、よく聞かされますが、それは、どこに、つくるのでしょう。私は思います。自分の心の中に、人の心の中にみろくの世がつくれなくて、どうして、「神さまがお示しになっているみろくの世」がつくれるでしょう。……
大本は、人々の心に神の愛と智を伝え、「みろくの世の人」を作らしていただくことを第一義にしています。このことが新しい世界の中枢にならないで、どうして世界が新しくなりえましょう。大本と使命を別にした分野には、それぞれの担い手があることでしょう。大本は大本の使命に生きなければなりません。
こうした三代教主の基本的な教示の方向にしたがって、大本における平和運動や教団の諸活動は再検討され、調整されてゆくことになる。
〔写真〕
○人類愛善新聞は叫ぶ! 荒波のなかで…… 大本の主張を…そして民衆のねがいを… p1294
○平和憲法擁護の決起大会が全国各地でひらかれた 九州地区婦人集会 p1296
○日中友好と世界の平和を……周総理と懇談する出口栄二会長(右) p1297
○出口会長(矢印)はさらに宗教文化界の有力者とかたりあった 北京 p1298
○おほもと誌に掲載された教主のことば p1300