開教七十年の意義ふかい年を感激と緊張のうちにむかえた教団は、その盛儀を一年間にわたってくりひろげた。各地の信徒はこの歴史的祭典や行事に参加すべく、全国津々浦々から、団体列車やバスなどで綾部・亀岡へと足をはこび、また海外からは開教七十年をいわうメッセージかおおくよせられたほか、海外の信徒もその代表が参加した。
〈節分大祭〉 開教七十年をいわう記念式典は、二月三日の節分大祭にはじまった。前日より福知山・舞鶴などの近隣諸地域には、宣伝カーがこの盛典をふれまわった。綾部市大本協賛会は、全市民こぞっての協力体制をとった。市内の旅館は参拝者の受入れに協力し、梅松苑施設や旅館でまかないきれない参拝者の宿泊には、公会堂や一般民家が提供された。中央公民館では、昼夜にわたって奉納芸能がもよおされ、また協賛会の主催で、大本節分祭フォトコンテストがおこなわれるなど、多彩な行事がくりひろげられた。梅松苑では正午より、献灯冠句の巻開きののち、信徒大会がみろく殿においてひらかれ、つぎの決議がおこなわれた。「われわれ大本信徒は開教七十年を記念して、さらに、一、神教の徹底的宣布、一、開教七十年記念事業の完遂を期し、和合一致して奉仕の誠を尽すことを誓い、ここに決議いたします」。
みろく殿外では、島根本苑奉納の「佐田かぐら」、熊本主会奉納の無形文化財「吉原かぐら」が参拝者の目をたのしませた。殿内では、上田正昭(京都大学助教授)、鶴見俊輔(同志社大学教授)、新名丈夫(毎日新聞社社友)の開教七十年によせた記念講演がおこなわれた。ついで開教七十年をむかえた三代教主の挨拶(一二八五頁)があり、午後八時みろく殿になりひびく大報鼓とともに、開教七十年を記念する節分大祭が厳粛に執行された。この日、北海道・東海地方よりの団体列車を筆頭に、東京その他よりの団体参拝や、岡山・奈良・大阪・神戸・兵庫のバスによる団体参拝などで、みろく殿は立錐のよちなきにいたり、信徒は殿外にあふれ、苑内の大かがり火にあかあかとてらされながら、敬虔な祈りをささげた。ことにみろく殿前は、近隣諸地域からの一般参拝者にたいする甘酒接待や福引などで、身うごきならぬ情況であった。祭典は二〇〇余人の祭官・瀬織津姫によって厳粛にいとなまれ、ついで大祓行事にうつり、一四一万余の人型をおさめた素焼の壺は、瀬織津姫によって和知川へはこばれ(第一次・三日午後一〇時半、第二次・四日午前三時半)、綾部大橋からながしきよめられた。おおくの市民もおりからふりしきる雪のなかで、この人型行事に参加した。
この節分大祭には、柴田実・佐木秋夫・上田正昭・村上重良・鶴見俊輔らも参列した。この実況は朝日テレビを通じて二月一八・九日の両日、クローズアップの番組で全国に放送された。
〈教主還暦生誕祭〉 この年は、報身みろくとしての三代教主の還暦の年にもあたっていたので、三月七日の誕生祭には、教主みずからによって「西王母」が演能された。信徒はこれを、開教七十年の行事のうちでもっとも意義ぶかい神事の一つとしてうけとった。
東北・広島・四国の団体参拝をはじめとして、全国各地から信徒多数か亀岡にあつまった。祭典がはじまる前から、すでに東・南側面にさじきをもうけた万祥殿もはいりきれなくなり、殿外ではおおくの信徒がたったまま参拝した。式典は午前一〇時半にはじまり、おわって、桐竹紋十郎(重要無形文化財総合指定)によって自作自演の文楽「天津乙女」が奉納され、信徒代表のお祝いの言葉があって、慶祝歌が朗詠された。四光明の天は、〝弾圧の嵐幾度凌ぎつつ栄ある老に入り給ふ君〟(亀岡・波多野千枝)であった。
三代教主からその場でつぎの三首がよまれ、出口うちまるが教主にかわって披露した。
〝神のまもり友等の愛にまもられて六十路の坂をやすくこへぬる〟
〝ひとやにて一人かんれきを迎へたりし亡き母をおもふ今日のよき日に〟
〝茨の路ひらきし友ら皆天にあり吾一人けふのよき日にあへる〟
これらのあいだに、教主の面にはしばしばハンカチがあてられていた。なみいる信徒もまた思わず感涙にむせんだ。
三代教主還暦祝賀能は、三月五・六・七の三日間にわたって、全国信徒や各流同好の人々によって盛大に開催された。宝生・金剛の宗家や観世喜之をはじめとする数々の協賛・出演は、祝賀能にひときわの光彩をそえた。とくに三月七日、その最終をかざり教主みずからによって、開教七十年を祝賀して演能された「西王母」は、この行事最大の圧巻として、その神々しいふんいきが、参会者一同にふかい感銘をあたえた。この「西王母」は映画としても記録保存され、その後各地の信徒会合で映写された。
〈みろく大祭〉 三代教主就任十年は同時に、二代教主の昇天よりかぞえて一〇年目にあたっていた。三月三一日、二代教主十年祭は綾部みろく殿において、遺徳をしたう全国宣信徒の参列のもとに厳粛に執行され、祭典後は、木の花帯をつけた桐竹紋十郎による文楽「天津乙女」が奉納された。
またその日には、二代教主の提唱によって一九五一(昭和二六)年におこなわれた第二次世界大戦万国犠牲者慰霊祭の精神にのっとる世界平和祈願万霊慰霊祭が、みろく殿前の特設祭典場で執行された。祭典には、遺族・宗教界・政界・平和団体・報道などの各界各団体の来賓・代表や、地元市民らが多数参列し、大西良慶(日本宗教者平和協議会理事長・京都清水寺貫主)、森滝一郎(広島原爆被害者団体協議会理事長)、荒木万寿夫(文部大臣)、大谷智子(東本願寺裏方)、安井郁(日本原水協理事長)、東久邇稔彦(世界連邦建設同盟会長)、フリスト・ボエフ(駐日ブルガリヤ公使)をはじめ、国内外からの多数のメッセージや電文が霊前にささげられた。夜間は、みろく殿において記念文芸講演会がもよおされ、城山三郎の「新しい作家・新しい文学」、五味康祐の「小説の虚構と真実」の講演があった。
翌四月一日には開教七十年記念みろく大祭や、春季祖霊大祭がおこなわれ、三代教主就任十周年祝賀芸能大会は、コロンビア専属歌手朝倉ユリ、エレクトーンオルガンの斎藤英美らの特別出演や、本部・地方の役員信徒の多彩な芸能披露でおおいににぎわった。四月二日には、本苑長・主会長・人類愛善会地区本部長・同連合会長合同会議が彰徳殿で開催され、人類愛善会の新路線がうちだされるとともに、出口うちまるの「大本教義と平和憲法」、元一橋大学学長上原専禄の「現代の精神的課題」の講話かおこなわれ、現時点における宣信徒の社会的役割の認識をふかめた。
〈瑞生大祭〉 開教七十年の瑞生大祭は、瑞霊真如聖師九〇回目の生誕にあたっており、また第二次大本事件による未決出所からかぞえて二〇年目にあたっていた。鳥取・山口・島根・九州・奄美大島・和歌山・三丹などの団体参拝をはじめとする各地からの参拝者、多数の来賓が参加した。
八月六日、午前には二時間にわたり、新装なった大本会館ホールで上原専禄の「新しい世界・新しい人間」と題した記念講演がおこなわれ、午後には、人類愛善会平和集会が万祥殿で開催された。人類愛善会の運動報告、モスクワで開催された全般的軍縮と平和のための世界大会に出席した古田光秋の大会報告、出口栄二のモスクワ・中国視察報告、さらに、ソ連のジャーナリストから招待され、ソ連を視察した上山南洋(北国新聞社論説主筆)の視察報告などがあった。恒例の第十三回大本歌祭りは、午後七時半から万祥殿能舞台において厳粛・華麗のうちにおこなわれ、〝道のため生命捧げし先輩朋友らありてわが七十年の基は固し〟(綾部・若本三晴)が天位となった。
翌八月七日午前九時、天恩郷の旧更生館跡に再建された出口聖師の歌碑、〝鶴山に妻は錦の機を織り吾亀岡に万代を教ふ 王仁〟の除幕式がおこなわれた。午前一〇時、万祥殿の内外にあふるるばかりの参拝者のなかで、開教七十年記念瑞生大祭と大本会館完成奉告祭が執行され、清水寺貫主大西良慶・国際宗教同志会代表牧野虎次・元一橋大学学長上原専禄・北国新聞社会長宮下与吉・綾部と亀岡の両市長をはじめ、大本会館工事関係の大成建設株式会社代表など多数の来賓や、全国信徒代表・海外代表が玉串を奉奠した。祭典後は開教七十年の最大の記念事業であった大本会館完成の祝賀会が会館ホールでおこなわれ、参会者一同が大本教団の発展を祝した。
〈大本開祖大祭〉 開教七十年の最後をかざる大本開祖大祭ならびに秋季祖霊大祭は、一一月三日、はげしくふりそそぐ雨のなか、みろく殿において午前一〇時から、東京・北陸地区の団体参拝をはじめとし、全国各地からの宣信徒が参集して厳粛におこなわれた。この日教主から、開教七十年の記念の大祭をおわるにあたって、教団のあたらしい体制を実現したいとして、つぎのような挨拶があった。
本年開教七十年を迎えて、順次おこなわれて来ました記念の大祭も、本日の開祖大祭をもって、目出度く終了したのでございますが、この時に当り、私といたしまして、かねがね神様にお祈りいたし、考えておりました教団の新しい体制を実現さしていただくことに致しました。
……これまでこの教団における宗教法人の最高責任者には、出口家の者が当らせていただいておりましたのを、七十年を期に、信徒の中の適当な方にも当っていただくことにいたし、出口家の者は、主として祭事にお仕えさせていただくと共に、教義の研鑚や、信徒の方々との交りを深めさせていただくことに力を注がせていただきたいと存じまして、本日の大祭を期し、本部の機構と、人事を改めさせていただいた次第でございます。
さらに、一九五八(昭和三三)年四月以来、総長であった出口栄二の後任に、桜井重雄が就任することになったこと、この新体制により一段と大本の真面目がかがやくことをねがうとのべ、そして言葉をつづけた。
……大本は世界に良い鏡を出さねばならぬところでございます。現在、世界における大きな対立も、不信と憎悪の念に起因するものと存ぜられます。みろくの世を念願し、みろくの世を来たらすために努力する私達の、まず果たさなければならぬ課題は、お互いの心より疑いの心と憎悪の念を払拭して、みろくの世に住むにふさわしい人となるための内省と、祈りと実践にまことをつくし、世界に良き鏡を出さしていただきますよう励んでゆきたいと存ずるのでございます。
以上のように、三代教主によって、信徒の当面はたすべき課題がしめされたのである。
このあと午後には、金龍海で、りゅうぐう丸の進水式がおこなわれ、みろく殿では、ブラジル信徒の名剣儀一、イギリス婦人信徒のD・Mウースタ、E・Mコックスらの講演、夜間には琴の演奏や舞踊など奉祝芸能大会があって、開教七十年最後の大祭が盛大にかざられた。
〈五流能〉 一一月一八日には、開教七十年最後の、かつもっともがありたかき記念行事として、「五流能」が亀岡万祥殿の能舞台でもよおされた。
五流能とは、室町時代すでに大和にあった結崎座(後の観世流)・円満井座(金春流)・坂戸座(金剛流)・外山座(宝生流)の四座と、江戸初期(一六一八年)におこった「喜多」の一流をくわえたものである。江戸時代にはいって、徳川家康が将軍宣下能をもよおしたことが先例となって、しだいに江戸幕府の式楽となり、後の勧進能において各流がうちそろって能を演じたことから、五流能ははじまったといわれている。五流能は、皇室・将軍家による神事能・祝言能として、記録をとどめているが、現代では能楽の隆盛にともない、大阪朝日新聞社、中日新聞社によるもよおしとしておこなわれている。しかし一宗教が五流能をもよおしたことは特筆すべきことであり、能楽界にとっても、大本の歴史にとっても、注目すべきことであった。
能楽界もこの企画に協力して、開教七十年にふさわしい名曲がえらばれ、宗家やそれに準ずる人々のほか、囃子・脇・地謡などにも、もとめうる最高の陣容があてられて、重厚かつ艶麗、格調正しい珠玉の演能が展開されたのである。
一一月一八日、演能にさきだって午前九時一五分から、五流能奉納奉告祭典がおこなわれた。おわって鏡の間の儀式がおこなわれ、つづいて古式ゆたかな裃・長袴に威儀をただした奉行出口うちまるによって、「お能はじめませ」と仰せの儀がおこなわれ、この日の座頭の太夫宝生流宗家宝生九郎から、「慎しんでお受けいたします」との答礼があって、おごそかに「五流能」が演じられた。その次第は上掲のとおりである。
〔写真〕
○開教70年節分大祭 200人をこえる祭員 瀬織津姫の入場 綾部 みろく殿 p1303
○「西王母」出口直日演能 万祥殿 p1304
○瑞生大祭をいろどる大歌祭り 正面中央は歌垣 万祥殿 p1307
○大本開教七十年記念五流能 当日のプログラム 翁は神事として演ぜられるもので、一日の演能では最初に太夫か舞うのか鍵とされ、能楽創成時代からこの道の根源として神聖視されている。鶴亀は翁の脇能とされ、八島は代表的な勝修羅として、しられている。羽衣は伝説に因む詩情豊かな天地和合の姿をえがき、鉢木は武士道精神をあつかった代表作である。石橋は重い習物となっている曲で、後の曲が半能としてその精髓が演能された p1310-1311