戦後における大本の独自の活動が、国内外にくりひろげられてゆくなかで、疑惑と誤解とにつつまれている大本の霧はだんだんに払拭されていった。愛善苑時代からはやくも、大本の動きが世の識者の注目をあつめつつあったが、いちはやく、しかもかなり本格的に大本を論評したのは、一九五四(昭和二九)年の「中央公論」九月号に執筆された、東京大学教授小口偉一・東京大学史料編纂所員松島栄一・宗教学者佐木秋夫・法政大学教授乾孝らによる『教祖列伝(第二回)大本教』であった。この共同研究はのちに単行本の『教祖─庶民の神々』として出版されたが、そのなかで天理教につづいて大本が紹介され、精彩ある大本の考察がおこなわれた。また東京大学東洋文化研究所研究員の村上重良も『近代民衆宗教史の研究』を一九五八(昭和三三)年にあらわして、民衆宗教としての大本の評価をなした。また高木宏夫の『日本の新興宗教─大衆思想運動の歴史と論理』(昭和29年)、同『新興宗教─大衆を魅了するもの』(昭和33年)などでも大本の紹介がなされ、宗教史・宗教学の側面よりの追究が、さかんにこころみられるようになった。
魅力ある大本の探究は、教義とその歴史のみでなく、開祖出口なお・聖師出口王仁三郎などの人物像の考察にもおよぶようになり、その広汎な大衆との接点は、政治史や思想史のみならず、文芸作品の有効な素材としてもさかんにとりあげられていった。一九五九(昭和三四)年の五月から「大阪朝日新聞」は、一一一回にわたって「歴史の群像」という特集をこころみたが、一二月二八日の紙上には、「大本開祖出口なお」が写真(彫刻座像)入りでおおきくとりあげられ、京都大学教授柴田実は、「政治と主義に見離された当時の大衆は、貧苦から生まれた、なおの世直しの思想に救いを求めた」事情を指摘した。この特集でとりあげられた群像のなかから、さらに八五人をえらんだ写真展が、大阪朝日新聞社の主催で、京都高島屋百貨店・綾部三ッ丸百貨店でおこなわれたか、とくに開祖出口なおの写真は観覧者の注目をひいた。
開祖の筆先の書体や聖師の耀盌の真価、さらに三代教主のひととなりもたかく評価されるようになり、やがて三代教主および教主補の人柄や作品も、世の注目をあびるようになった。一九五九(昭和三四)年に、大阪の大丸百貨店をはじめとして、東京・神戸・福岡などの各百貨店で開催された大阪毎日新聞社後援の「関西百人の顔」写真展では、三代教主の写真が展示され、翌年の四月一二日には、皇居広庭でひらかれた園遊会(観桜会)には、宗教界代表として三代教主が招待されている。
ついで、大本の本質がひろく世間に紹介され、論壇の注視をあびるようになったのにあずかって力のあったのは、当時大阪市立大学助教授(現京都大学助教授)梅棹忠夫の論文であった。この論文は、一九六〇(昭和三五)年の「中央公論」三月号に掲載された「大本教と世界連邦」である。「日本探検」の二回目をかざったものであるが、三二頁にわたるその論評は、山陰にうまれた大本のおいたちに、民衆のかくれたエネルギーを発見し、丹波の大本が、府県をこえ、日本国家を超越しえた理由がどこにあったかを、するどくかつかなり詳細に論究した。とくに大本事件における弾圧の蛮行と、そのなかに屈しなかった非転向の信徒の強靭さを力説して、大本事件の意義に言及した。梅棹論文は、京都大学教授桑原武夫の論壇時評(「大阪朝日新聞」)をはじめ、そのほかでもおおきくとりあつかわれて、大本の社会的評価をたかめるのに役だった。その後における平和のための教団組織をあげてのとりくみは、ますます社会の関心をあつめて、「毎日グラフ」(昭和35・4・17)、『主婦の友』(同年6月)のほかおおくの新聞・雑誌などでもクローズアップされ、テレビ・ラジオなどでも大本の側面が報道された。一九六二(昭和三七)年八月には、城山三郎が「小説中央公論」に創作「命令者」を執筆し、作家の立場から大本事件をとおして権力の実態をするどく追及している。このようにして大本にたいする疑惑や誤解、認識のあやまりは徐々にぬぐわれていった。