霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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回顧録(二)

インフォメーション
題名:回顧録(二) 著者:瑞月(出口王仁三郎)
誌名:神霊界 掲載号: ページ:72
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-07-31 05:26:25 文字数:1768 OBC :M192919210301c09
派生[?]この文献を底本として書かれたと思われる文献です。[×閉じる]:出口王仁三郎著作集 > 第一巻 神と人間 > 『霊界物語』 抄 > 回顧録
 王仁(わたし)が高熊(たかくま)山中(さんちう)に於(お)ける、顕界(けんかい)と、幽界(ゆうかい)の修行(しうげう)の間(うち)に、親(した)しく実践(じつせん)したる大略(たいりやく)の一端(いつたん)を、前号(ぜんがう)に於(おい)て照会(せうかい)して置(お)いたのは、真(ほん)の一(いつ)小部分(せうぶぶん)に過(す)ぎない事実談(じじつだん)である。王仁(わたし)は、今後(こんご)本誌(ほんし)上(じやう)に、引続(ひきつづ)いて執筆(しつぴつ)して見(み)ようと思(おも)ふ。
 
 凡(すべ)て宇宙(うちう)の一切(いつさい)は、顕幽(けんゆう)一致(いつち)、善悪(ぜんあく)一如(いちによ)にして、絶対(ぜつたい)の善(ぜん)も無(な)ければ、絶対(ぜつたい)の悪(あく)も無(な)い。従(したが)つて又(また)絶対(ぜつたい)の極楽(ごくらく)も無(な)ければ、絶対(ぜつたい)の苦艱(くかん)も無(な)いと謂(い)つて良(よ)いのである。歓楽(かんらく)の内(うち)に艱苦(かんく)があり、艱苦(かんく)の内(うち)に歓楽(かんらく)の在(あ)るものである。故に根(ね)の国(くに)、底(そこ)の国(くに)に墜(お)ちて、無限(むげん)の苦悩(くのう)を受(う)けるのは、要(えう)するに、自己(じこ)の身魂(みたま)より、産出(さんしゆつ)したる報(むく)ひである。亦(また)顕界(けんかい)の者(もの)の霊魂(みたま)が、常(つね)に霊界(れいかい)に通(つう)じ、霊界(れいかい)からは、常(つね)に顕界(けんかい)と交通(かうつう)を保(たも)ち、幾(いく)百千万(まん)年(ねん)と雖(いへど)も、易(かは)ることは無(な)いのである。神諭(しんゆ)に示(しめ)された如(ごと)く、天国(てんごく)も地獄(ぢごく)も皆(みな)自己(じこ)の身魂(みたま)より顕出(けんしゆつ)するのである。故(ゆゑ)に世(よ)の中(なか)には、悲観(ひかん)を離(はな)れた楽観(らくかん)は無(な)く、罪悪(ざいあく)と別立(べつりつ)したる真(しん)善(ぜん)美(び)も無(な)いのである。苦痛(くつう)を除(のぞ)ひては、真(しん)の快楽(かいらく)を求(もと)めらるるもので無(な)い。又(また)凡夫(ぼんぶ)の他(ほか)に、神(かみ)は無(な)い。言(げん)を換(か)へて曰(い)へば善悪(ぜんあく)不二(ふじ)にして、正邪(せいじや)一如(いちによ)である。仏典(ぶつてん)に曰(い)ふ煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)。生死(せうし)即(そく)涅槃(ねはん)。娑婆(しやば)即(そく)浄土(じやうど)。仏凡(ぶつぼん)本来(ほんらい)不二(ふじ)である。神(かみ)の道(みち)から謂(い)へば、神俗(しんぞく)本来(ほんらい)不二(ふじ)が真理(しんり)である。
 仏(ぶつ)の大慈悲(だいじひ)と云(い)ふも、神(かみ)の道(みち)の恵(めぐ)み幸(さちは)ひと云(い)ふのも、凡夫(ぼんぶ)の欲望(よくばう)と云(い)ふのも、其(そ)の本質(ほんしつ)に於(おい)ては、大(たい)した変(かは)りは無(な)いのである。凡俗(ぼんぞく)の持(も)てる性質(せいしつ)その侭(まま)が、神(かみ)であると謂(い)つて良(よ)い。神(かみ)の持(も)つて居(を)らるる性質(せいしつ)の全体(ぜんたい)が、皆(みな)悉(ことごと)く凡俗(ぼんぞく)に備(そなは)つて居(を)ると謂(い)つても良(よ)いのである。
 天国(てんごく)浄土(じやうど)と社会(しやかい)娑婆(しやば)とは、其(そ)の本質(ほんしつ)に於(おい)て、毫末(がうまつ)の差異(さゐ)も無(な)いのである。斯(かく)の如(ごと)く本質(ほんしつ)に於(おい)ては、全然(ぜんぜん)同一(だういつ)のものでありながら、何故(なにゆゑ)に神俗(しんぞく)、浄穢(じやうえ)、正邪(せいじや)、善悪(ぜんあく)と分(わか)るるので在(あ)ろうか。要(えう)するに此(こ)の本然(ほんぜん)の性質(せいしつ)を、充分(じふぶん)に発揮(はつき)して、適当(てきたう)なる活動(かつだう)をすると、せぬとの程度(ていど)に対(たい)して、付(ふ)したる仮定(かてい)的(てき)の、符号(ふがう)に過(す)ぎないのである。
 善悪(ぜんあく)と謂(い)ふものは、決(けつ)して一定(いつてい)不変(ふへん)のものでは無(な)く、時(とき)と処(ところ)と位置(ゐち)とに因(よ)つて、善(ぜん)も悪(あく)と成(な)り、悪(あく)も善(ぜん)と成(な)る事(こと)がある。人(ひと)を殺(ころ)すのは悪(あく)に相違(さうゐ)ないが、一朝(いつてう)宣戦(せんせん)の詔勅(せうちよく)が降(くだ)つて、勇士(ゆうし)が戦場(せんじやう)に出(で)て敵(てき)を殺傷(さつしやう)しても、是(これ)を以(もつ)て大悪(だいあく)と云(い)ふ事(こと)は出来(でき)ない。寧(むし)ろ軍功者(ぐんこうしや)として賞讃(しやうさん)されるやうなものである。
 道(みち)の大原(たいげん)に曰(い)ふ。「善(ぜん)は天下(てんか)公共(こうきやう)の為(ため)に処(しよ)し、悪(あく)は一人(いちにん)の私有(しゆう)に所(しよ)す、正心(せいしん)徳行(とくこう)は善(ぜん)なり。不正(ふせい)無行(ぶぎやう)は悪(あく)なり」と、何程(なにほど)善(よ)き事(こと)と雖(いへど)も、自己(じこ)一人(ひとり)の私有(しゆう)に所(しよ)するための善(ぜん)は、決(けつ)して真(しん)の善(ぜん)でない。譬(たと)へ少々(せうせう)位(くら)ゐ悪分子(あくぶんし)が有(あ)つても、天下(てんか)公共(こうきやう)の為(ため)に成(な)る事(こと)なれば、是(これ)は矢張(やはり)善(ぜん)と曰(い)はねば成(な)らぬのである。文王(ぶんわう)一度(ひとたび)怒(いか)つて、天下(てんか)治(おさ)まる、怒(いか)るも亦(また)、可(か)なりと謂(い)ふべしである。
 之(これ)より推(をし)考(かんが)ふる時(とき)は、小(ちい)さい悲観(ひかん)の取(と)るに足(た)らざると共(とも)に、勝論(しやうろん)外道(げだう)的(てき)の暫有(ざんゆう)的(てき)小楽観(せうらくかん)も可(い)けない。大悲観(だいひかん)と大楽観(だいらくかん)とは、結局(けつきよく)同一(どういつ)に帰(き)するのであつて、神(かみ)とは大(だい)楽観者(らくかんしや)であると同時(どうじ)に、大(だい)悲観者(ひかんしや)である。
 凡俗(ぼんぞく)は小(せう)なる悲観者(ひかんしや)であり、又(また)小(せう)なる楽観者(らくかんしや)である。社会(しやかい)、娑婆(しやば)、現界(げんかい)は、小苦(せうく)小楽(せうらく)の境界(きやうかい)であり、天国(てんごく)浄土(じやうど)は、大楽(だいらく)大苦(だいく)の位置(ゐち)である。理趣経(りしゆきやう)には、大貪(だいとん)大痴(だいち)是(こ)れ三摩地(さんまち)。是(こ)れ浄菩提(じやうぼだい)、淫欲(いんよく)是道(ぜだう)と在(あ)つて、所謂(いはゆる)当相(たうさう)即道(そくだう)の真諦(しんてい)である。
 禁欲(きんよく)主義(しゆぎ)はいけぬ。恋愛(れんあい)は神聖(しんせい)であると謂(い)つて、而(しか)も之(これ)を自然(しぜん)主義(しゆぎ)的(てき)、本能(ほんのう)的(てき)で、即(すなは)ち自己(じこ)と同大(どうだい)程度(ていど)に決行(けつかう)し、満足(まんぞく)せんとするのが凡夫(ぼんぶ)である。之(これ)を拡充(かくじう)して宇宙大(うちうだい)に実行(じつかう)するのが神(かみ)である。
 神(かみ)は、三千世界(せかい)の衆生(しうぜう)は、皆(みな)我(わが)子(こ)となし、一切(いつさい)の衆生(しうぜう)を済度(さいど)せんとするの、大欲望(だいよくばう)があるのである。凡俗(ぼんぞく)は我(わ)が妻子(さいし)眷属(けんぞく)のみを愛(あい)し、少(すこ)しも他(た)を顧(かへり)みないのみならず、自己(じこ)のみが満足(まんぞく)し、他(た)を知(し)らざるの小貪欲(せうとんよく)を恣(ほしいまま)[*底本では「慾」だが誤字。]にするものである。人(ひと)の身魂(みたま)そのものは、本来(ほんらい)は神(かみ)である。故(ゆゑ)に宇宙大(うちうだい)に活動(かつだう)し得(う)べき、天賦(てんぷ)的(てき)本能(ほんのう)を具備(ぐび)して居(を)る。
 夫(それ)で此(こ)の天賦(てんぷ)の本質(ほんしつ)なる、智(ち)愛(あい)勇(ゆう)親(しん)を開発(かいはつ)し、実現(じつげん)するのが、人生(じんせい)の本分(ほんぶん)である。之(これ)を善悪(ぜんあく)の標準論(へうじゆんろん)よりみれば、自我(じが)実現(じつげん)主義(しゆぎ)とでも言(い)ふべきものである。吾人(ごじん)の善悪(ぜんあく)両様(りやうやう)の動作(どうさ)が、社会(しやかい)人類(じんるゐ)の為(た)め済度(さいど)の為(た)めに、其儘(そのまま)賞罰(せうばつ)二面(にめん)の大威力(だいゐりよく)、大活動(だいかつだう)を呈(てい)するように成(な)るものである。此(こ)の大(だい)なる威力(ゐりよく)と、活動(かつだう)と、が即(すなは)ち神(かみ)でる。所謂(いはゆる)自我(じが)の宇宙(うちう)的(てき)拡大(くわくだい)である。
 孰(いづ)れにしても、此(こ)の分段(ぶんだん)生死(しやうじ)の肉身(にくしん)有漏(うろう)雑染(ざつせん)の識心(しきしん)を捨(す)てず、又(また)苦穢(くえ)濁悪(だくあく)不公平(ふこうへい)なる現社会(げんしやかい)に離(はな)れずして、悉(ことごと)く之(これ)を美化(びくわ)し、楽化(らくくわ)し、天国(てんごく)浄土(じやうど)を眼前(がんぜん)に実現(じつげん)せしむるのが、皇道(くわうどう)大本(おほもと)の成神観(せいしんかん)であつて、又(また)一大(いちだい)眼目(がんもく)とする所(ところ)である。
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