霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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百日養子

インフォメーション
題名:04 百日養子 著者:出口和明
ページ:97 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2017-10-30 02:49:14 OBC :B138902c04
0001 ある日、0002前日に新規加入のあった田野村字奥条の森家まで、0003喜三郎は三合の牛乳を届けに行った。0004紅葉の山々が左右にせまる間の田道を奥深く行く。0005森家は噂に聞く豪農らしく、0006土塀をめぐらせた広い屋敷であった。0007勝手口から奥をのぞくと、0008京人形のような丸まげ姿の美人が、0009縫いぐるみの人形を膝にうつむいている。
0010「精乳館でございます。0011牛乳持って上がりました」
0012 明るい喜三郎の声に女ははっと面を上げた。0013縫いぐるみが膝からすべり落ちる。
0014「あ、0015志津江はん……」
0016「喜楽はん……」
0017 二人は万感こめて見つめ合った。0018志津江の長い睫毛が震えて、0019涙が光っている。
0020「ほんなら、0021富豪の家に嫁がすいうとったんは、0022ここの家やったんか」
0023「うち、0024ずいぶん母さんに逆ろうたんえ。0025でもみんなで寄ってたかって……そやけど、0026うち……喜楽はんのこと、0027一日も忘れてしまへん」
0028「……」
0029「喜楽はんが牛乳屋始めなはったと聞いたさかい、0030会いたい一心で牛乳とることにしたんや」
0031「……志津江はん、0032牛乳飲むのけ」
0033「牛のお乳なんて、0034うち好かん」
0035「ははあ、0036じゃ旦那はんに精つけて……あほらし」
0037「あんな人に飲ませるかいさ。0038毎朝、0039喜楽はんの顔みて、0040ちょっとでも声聞けたら、0041牛乳の三合ぐらい便所へ捨てたかて安いもんや」
0042「も、0043もったいない。0044三合も……」
0045「いややわ。0046さっきから乳のことばっかり……喜楽はん、0047もううちのこと……」
0048 志津江は恨めしげにすり寄ってくる。0049びくっとして喜三郎はあたりを身廻し、0050声をひそめた。
0051「だ、0052誰も家の人おってないのけ。0053旦那はんは……」
0054「朝早よから義父さんや弟たちとみな田んぼに行ってはる。0055義母はんは離れで寝たきりやし」
0056「それでも……人妻にならはったら、0057わしには手のとどかん存在や」
0058 喜三郎は眩しげに新妻姿の初々しい志津江を見つめた。0059駄々をこねるように、0060志津江は重い丸まげを左右に振った。
0061「いやん、0062いけず。0063人妻いうたら怒るえ。0064うち、0065ちょっとも変わってへん。0066心は喜楽はんのことばっかりや。0067もう一度昨年の夏にかえりたい。0068大井神社のお祭りの夕方、0069喜楽はんが家までついてきてくれはるの、0070うち、0071ちゃんと知っとったんえ。0072ほんまに嬉しかった……あの時がうちの一番幸せやった日……」
0073「女は化けもんやのう。0074背後に目ついとったんかい……」
0075 志津江はいたずらっぽく笑った。
0076「この縫いぐるみ、0077見覚えあらへんか? あの祭りの日、0078妹からとりあげたん」
0079「あ、0080あの時の……」
0081「だって、0082母さんが監視しとって、0083まともに口もきけんもん。0084懐かしいわあ」
0085 ほんとに志津江は変わっていない。0086ころころ面白そうに笑い転げる。0087中身はまだ十八の、0088わがままいっぱいに育った少女のままだ。
0089「けど旦那はん、0090困ってやろなあ、0091こんな嫁はんでは」
0092「困っちゃったら良いんや。0093人がいややいうのん、0094だまして連れてきたんやもん。0095うち、0096死にたいぐらい辛いのえ。0097毎日毎日、0098かまきりみたいな男と……」
0099 たちまち志津江の唇が歪み、0100涙がぽろぽろこぼれてくる。0101女の涙に、0102喜三郎の胸はしめつけられ、0103いとしさに血汐が沸き立つ。
0104「喜楽はんの顔みたら、0105うち、0106もうよう辛抱でけへん。0107お願い、0108攫って逃げて。0109唐でも天竺でも……」
0110 志津江は、0111喜三郎にしがみついて泣きむせぶ。0112志津江の波うつ背を抱きながら、0113喜三郎はいのを思った。0114いのも人妻になって人知れず泣いていよう。0115自分の罪深さが空恐ろしく苦しい。0116いのの涙、0117志津江の涙の一滴のためになら、0118自分の身をくだき、0119命をつかみ出しても惜しくない思いに激してくる。
0120 門口に人の足音が聞こえて、0121はっと二人は離れる。0122奉公人が入ってきて、0123二人を見比べた。
0124「毎度おうきに、0125ではまた……」
0126 言葉を改めて、0127喜三郎は牛乳罐を手に外へ出た。
0128 朝な朝な牛乳配達の最後に奥条まで足をのばすのが、0129喜三郎の心ときめく日課となった。0130志津江は、0131美しく化粧し身づくろって、0132茶菓を整え待っている。
0133 稲刈りの最中であった。0134大暴風雨のため稲は泥水に伏し、0135収穫は激減していた。0136牛乳罐を抱え稲田の中を急ぎ行く喜三郎の後から、0137ひょろりと痩せた男が足音を忍ばせてついていく。
0138 森家へ入って、0139いつものように志津江の愚痴をやさしく聞き、0140慰めたりなだめすかしているところへ、0141ガラッと不意に戸口が開いた。0142痩せて三角にとがった顎をつき出し、0143目玉をむいた男は、0144真蒼になって喜三郎に喰ってかかった。
0145「ち、0146乳屋はん、0147わしんとこへ来てちょうど一時間になる。0148時計を見てみい。0149ちゃんと計っとんにゃ。0150それも今日だけやないど。0151わ、0152わしの女房に何んぞ用事があるのけ」
0153「あ、0154ここのご主人さんで。0155毎度ご贔屓にしてもろてます。0156何せい穴太から奥条まで一里の道のり、0157歩いてくるとのどが乾きますさけ、0158つい、0159ここの奥さんに御無心して……」
0160「厚う切った羊羹までこ。0161ふう、0162わしには薄い薄い一切れしか出さへんくせに……」
0163「人聞きのわるい、0164浅ましいことを言わんといてえさ。0165隠れていて時間計ったり、0166羊羹の薄い厚いまで……おう、0167いやらしい」
0168 志津江が身ぶるいして、0169つんと上を向く。
0170「お、0171お前は亭主と乳屋とどっちが大事じゃい……」
0172「さあ、0173まだそんなこと考えたことあらへんし……」
0174「そ、0175そんなもん……考えんかて……」
0176 二人の争いに居たたまれず、0177喜三郎は空の牛乳罐かかえてとび出した。
0178 翌朝、0179喜三郎が裏口から顔を出すと、0180志津江の姿が見えぬ。0181昨日の今日である。0182心さわぐまま、0183そっと垣根越しに庭をのぞいた。0184と、0185座敷で主人と語っていた中年の男と眼が合った。0186男はおいでおいでをする。0187仕方なく庭先に進みよる。
0188「乳屋はん、0189おくたびれやろ。0190ちょっと休んでおゆき」
0191「いえ、0192くたびれてまへんさけ」
0193「じゃ、0194のどが乾いとるやろ。0195生憎と志津江がおらんで気に入らんやろけど、0196遠慮せんと一杯どうやい」
0197 男はむりやり喜三郎に杯を握らす。
0198「へえ、0199おうきに……」
0200 喜三郎は、0201居心地悪げに、0202縁に腰をかけ、0203徳利の酒を受けた。0204男は細い目を据えて、0205しつこく絡みついてくる。0206 
0207「なるほど色男やのう。0208あちこち乳くばっては、0209女子どもに騒がれとんにゃてのう」
0210「乳くばるのは商売です。0211他意ありまへんで」
0212「ところが、0213ここの志津江はんは昨日のうちに実家へ帰ってしもたんや。0214それで仲人のわしが、0215わざわざ呼ばれて来た」
0216 三角形の主人の顔の片目のまわりが青黒くよどんでいる。0217ハハア、0218派手にやったなと呑みこめた。0219ますます落ち着かない。
0220「あんた、0221どう思うてや。0222お志津いうたら、0223どこの馬の骨とも知らん青瓢箪にうつつ抜かして、0224だまって坐っておればころがりこむ大地主の身上を棒に振って逃げ帰るなんて……」
0225「へえ、0226よくよくのことでっしゃろなあ」
0227「そら、0228どういう意味や」
0229「い、0230いや、0231もったいない話で……」
0232「そやろ。0233聞いたこともないどえらい心得違いや。0234わしに娘でもあれば、0235何が何でも……ま、0236もう一杯飲めや」
0237「あ、0238あかんのや、0239わしは、0240酒は飲めまへんねん」
0241「厚切りの羊羹やないと口に合わんか。0242まあええ、0243そこでじゃが、0244その青瓢箪はのう、0245どこやらの乳屋はんやちゅう噂があるが、0246同じ仲間やさけ知っとってないけ」
0247「知らん、0248そんなこと知りまへん。0249わしを疑うとるんなら言いますけど、0250濡れ衣でっせ。0251わしはその……手ぐらい握ったかも知らんけど……乳くばりに来ただけやさけ」
0252 言葉なかばに立ち上がり、0253後ずさると、0254喜三郎はぱっと逃げ出した。0255仲人は道まで追って出て、0256喜三郎の背にわめいた。
0257「こら、0258乳屋。0259もうお前んとこの乳は絶対にとってやらんぞ」
0260 喜三郎は、0261振り返りどなり返す。
0262「いらんわい。0263そんな難題かける家、0264頼まれても売ったるかい」
0265 田の畦を息をきらせて走りつつ、0266喜三郎の胸は不安と苦い後悔にしめつけられる。
0267 数日後、0268心配していた志津江から手紙が来た。0269夫と喧嘩をして実家へ帰ったが、0270もう金輪際戻る気はないこと、0271実家の母から不始末を激しく叱責され、0272こらしめのために京都市大宮通り四条の呉服屋に奉公にやられたこと。0273上女中として働いているが、0274ただ喜三郎に会いたいばかり。0275真心があるならば一日も早く訪ねて来てほしいこと……そういう意味が巻紙に情熱をこめて認められている。0276切羽詰まった女心が哀れだった。
0277 喜三郎の心は騒ぎ立ち、0278矢も楯もたまらず、0279京都の呉服屋を訪ねて行く。0280四条のとっつきにある呉服屋に入って品物を調べるふりをして内部を伺うが、0281さっぱり志津江の姿はあらわれぬ。0282あまり長くもたついているので、0283店員はうさんくさげな顔をする。0284心臓が強いようで妙に弱い喜三郎、0285銭をはたいて羽織地を買い、0286しょんぼり六里の道を帰るのだった。
0287 しばらくして、0288また彼女からの手紙。
0289 今日こそ、0290今日こそはと、0291お会いすることばかりを生き甲斐に辛い奉公づとめに耐えているのに、0292待てど待てど来まさぬ君の心が恨めしい。0293ほかに増花ができたのか。0294もう私など捨ててしまわれたのか。0295この文を見次第、0296すぐ会いにきて。0297すぐに……
0298 恨みあふれる細い水茎のあとを抱きしめ、0299胸の高鳴りの止まぬ苦しさに、0300またぞろ喜三郎は京へ上る。0301例の呉服屋で再び品物を選ぶふりして、0302内部をのぞく。0303二時間余り、0304せき払いしたり、0305わざと高声で値を聞いたり、0306さんざん苦心をして粘ったあげく、0307今度も袴地を買わされて泣く泣く戻る。
0308 志津江からの手紙はそれきり途絶え、0309喜三郎も転変する人生の荒浪にまきこまれるうち、0310年月がたつ。0311なぜあの時志津江に会えなかったか、0312喜三郎は折にふれ、0313うずくように思いまどう。0314が、0315年を経て、0316はっと思い当たった。0317呉服屋といっても、0318狭い穴太とは違う。0319大宮通り四条には何軒か軒を並べて呉服屋があったではないか。0320考えてみれば、0321四条のとっつきで呉服屋を見るなり、0322ここだと思って屋号も確かめず飛びこんだ。0323ははーん、0324二度までも店を間違えて……が、0325もう手遅れである。
0326 戸籍によると、0327志津江が森家へ嫁したのが明治二十九年五月四日、0328そして五か月後の十月十日には離婚している。0329若い喜三郎とのふとした出会いが、0330彼女の人生を大きく変えてしまった。
0331 喜三郎は、0332牛の乳や糞汁にまみれながら、0333たび重なる失恋の打撃に耐えた。
0334 明治三十(一八九七)年、0335喜三郎は二十七歳。0336正月早々、0337次弟由松が家出した。0338由松の友達の話を総合すると、0339どうやら家出の原因は、0340狭い丹波の山野に飽いて広い都に博奕修業に旅立ったらしい。0341由松が本当に祖父の再生であると信じるならば、0342いよいよ本格的に祖父のたどった人生を繰り返す覚悟らしい。
0343 祖母宇能はもう八十二歳の高齢だし、0344父も日頃の過労が祟って半病人で伏せり勝ち。0345十九歳になった三男の幸吉は佐伯の郵便局に十一歳の年から男衆として奉公したままだし、0346十四歳の四男政一は一昨年夏、0347京都市に住む小竹宗太郎の養子に行っていない。0348五男久太郎は二十一年に生まれて十日目に死んでいる。0349あとは、0350母と十六歳の長女雪、0351六歳の次女君が残るばかり。0352その雪も母を助けての野良仕事。0353農閑期には臨時の他家の子守り奉公に出ていた。
0354 二月二日曇天、0355喜三郎は、0356凍みつく明け方の野草刈り・搾乳・配達・農耕の寸暇をさいて父の見舞いに顔を出す。0357胃を病む吉松は、0358床の中から心細げに言った。
0359「わしとこはやっぱり家屋敷がのうなるまで落ちんなんかい。0360由松がおらんようになって、0361女子供ばかり、0362薪一荷刈りに行く者もあらへん」
0363「ほんまやのう。0364よっしゃ、0365薪ぐらい、0366わしがちょこっと刈ってくるわい」
0367 すぐ腰を上げかける喜三郎を、0368吉松はとどめた。
0369「山へ行っとる暇はないやろ。0370すぐ夕方の乳しぼらんなん時間や。0371なに、0372山まで行かいでも、0373庭の樹を伐って、0374薪にしてくれへんか。0375そうや、0376あの榧と椋がよいやろ。0377お互いひっつき過ぎて窮屈そうや。0378緑の深すぎるんは、0379うっとしゅうて何や疲れるさけ」
0380 世祢が心配そうに口を出した。
0381「喜三や、0382あの木は鬼門にあるけど、0383伐ってもだんないやろか」
0384「別にかまへんやろ。0385今の世に祟りなんてあるかい。0386すっきりしてよいで」と喜三郎は事もなげに言った。
0387 榧と椋の大樹は屋敷の東北隅にあり、0388その大きな枝が隣の小島長太郎の乾蔵にまで伸びていた。0389喜三郎の子供の頃は確かに少し離れて立っていたが、0390椋の木が次第に太くなって、0391いつの頃か幹と幹がくっつき、0392互いに肉に食い入って、0393根本は一本の大樹の如くみえる。0394だが空を仰ぐと、0395屋根より遥かに高くから二手に分かれ、0396榧は青々と葉を繁らせ、0397椋は落葉して黒い実を空にちりばめている。
0398 喜三郎は長梯子を椋と榧の大木の股にかけ、0399その上に乗ると、0400鋸で榧の枝を次々と伐り、0401次に椋の太枝にかかる。0402ようやく固い芯を伐り離したが、0403いっぱいに小枝を張った太枝は傍の柿と樫の木に支えられて地上に落ちぬ。0404喜三郎はその枝にぶら下がった。0405足の裏と地上にまだ五尺ほどの距離がある。0406ゆさゆさゆするうち、0407枝は喜三郎の体重でたわみ、0408ずしんと響きを上げて落下した。
0409「おい、0410どうした。0411大丈夫か」
0412 吉松が物音に驚いて病床から這い出し、0413蒼ざめた声をかける。
0414「なーに、0415大丈夫や。0416木の枝がちょっと鳴っただけや」と喜三郎は、0417冒険の成功に鼻をうごめかした。
0418「なんやもの凄い音やったで。0419お前が高い所から落ちて怪我せんちゅうのも、0420不思議なこっちゃ」
0421 吉松が愁眉をひらいた時、0422隣の小島長太郎が大声を上げてあらわれた。
0423「お、0424おい吉松、0425えらいことしてくれたのう」
0426「へ、0427どうしたんや」
0428「あれ見い」
0429 長太郎の指さす小島家の土蔵の瓦が二、0430三十枚めくれている。
0431「ははあ、0432道理でごつい音がしたと思た」
0433 喜三郎がぽかんと見上げていると、0434長太郎が肩を怒らしてつめ寄る。
0435「瓦は弁償してもらわんなんど。0436いや瓦だけやないやろ、0437あっちこっちに見えん傷ができたかも知れんわい。0438ほんまに無茶苦茶しくさる」
0439 隣の小島家は、0440喜三郎が、0441例の久兵衛池事件後に奉公した主家である。0442しかも組頭であり、0443大地主であり、0444明治以前は代官の家柄である。
0445 この薪は高値についた。0446喜三郎が新しい瓦を買って弁償しただけではすまなかった。0447長太郎が吉松の病床まで来て、0448なんのかのと苦情を持ちこんだのだ。0449身も心も弱っていた吉松は、0450癇を高ぶらせて病気を一層こじらせた。0451艮の木を伐った祟りであろうかと喜三郎は、0452ちょっと不安になった。
0453 十日ほどして、0454どこからともなく由松がひょろりと帰ってきた。0455金がなくなったからだろう。0456家中を物色して金目のものを持ち出し、0457賭場へ通う。0458吉松の心配は一通りでない。
0459 長男の責任を感じた喜三郎は、0460ある日、0461由松をつかまえて説教した。
0462「お前が家出したことについて、0463誰も咎めたりはせん。0464一時の出来心と思うさけや。0465よう帰って来てくれたと父さんも母さんも喜んだはる。0466けどこの頃のお前はどうや。0467ますます博奕がひどうなるばかりやないけ。0468父さんはもう年やし、0469その上病気やぞ。0470病人に心配かけたら、0471治るものかて治らへん。0472父さんのためやと思うて、0473なんとか心配させんように、0474家の仕事に精出す気になってくれへんこ」
0475 由松は蒼ざめて、0476白い目を兄に返した。
0477「そうけ、0478兄やんもたいした出世したもんじゃ。0479大きな口ききよって。0480後継ぎはこの家にどっしりいて、0481百姓に精出したらどや。0482農機具の改良や、0483獣医、0484ラムネや、0485マンガンや、0486それもあかんさけ今度は牛乳やの、0487勝手なこというて好き放題さらして、0488今まで親にさんざん心配かけたんは誰じぇい。0489兄やんがこの家の長男やど。0490お前のしたこと数えてみたことあるけ」
0491 そう言われると事実その通りで、0492返す言葉もない。0493が、0494兄貴の貫禄の手前、0495言うことをきかすほかに手はない。0496 
0497「そらそうや。0498わしかて、0499なんとか水呑み百姓から脱け出す道はないもんかと焦っとったさけ……そうやさけ、0500わしも今となっては反省して穴太へ帰り、0501まじめに牛飼いに精出しとるやんけ」
0502「あんだけ好き放題して誰に気がねなく失敗したら、0503そら本望やろい。0504わしも兄やん見習うて、0505まだまだ好きなことせんなん。0506それも飽いたら、0507ゆっくり反省させてもらうわい。0508お節介さらすな」
0509「ば、0510博奕はあかん。0511博奕だけはあかん。0512家屋敷まで奪われて、0513一家散り散りになってからではおそいんじゃ」
0514「奪われて惜しいような家屋敷かい。0515兄やんみたいに女の丸い尻追うのは結構で、0516わしが四角い賽ころ撫でたらなぜあかん?」
0517 そういえば、0518由松の浮いた噂は聞かぬ。0519女にもてぬ恨みは、0520派手な浮名を流す喜三郎にふりむけられるのか。
0521「由松、0522わしも悪い、0523あやまる。0524けど父さんのためや思うて、0525賽ころだけは捨ててくれ、0526たのむ」
0527「うるさいわい、0528自分の都合は棚に上げてさんざんうまい汁吸うといて、0529何がわしだけ父さんのためや。0530そのでれっとした助平面、0531どついたる。0532表へ出い」
0533「弟やと思うて辛抱しとれば……よっしゃ、0534その根性、0535叩きのめしちゃるわい」
0536 売り言葉に買い言葉、0537喜三郎、0538裸足で庭にとび下りる。0539続いて飛び下りた由松。0540父譲りの癇癪で顔を蒼白にひきつらせ、0541縁先にあった鍬をひっつかんだ。0542素手でとっ組むつもりだった喜三郎の面からも、0543血の気がひいた。
0544「ま、0545待て、0546刃物は捨てろ、0547危い」
0548 逃げながら、0549喜三郎は叫ぶ。0550執念深く追いつめた由松は、0551久兵衛池の端で、0552磨きたてた鍬を振りかぶった。
0553「殺しちゃる」
0554 がっと鍬の刃が鳴った。0555その刃先が二寸もつらぬいたのは、0556吉松が投げて寄こした鍋蓋であった。0557喜三郎が受けとめたのが一瞬早かったのだ。
0558 必死によろめき出た吉松が由松に背後から抱きつき、0559押えつけ、0560二人がかりでようやく唐鍬をもぎとった。0561由松は再び縁に走って今度は三つ又鍬をとった。0562血走った形相は狂気のように喜三郎に追いせまる。
0563「由松、0564止めい」
0565 逃げ廻りながら、0566喜三郎は手にふれた天秤棒で、0567必死に防ぐ。0568吉松が毛布を握って、0569とっさにふり上げた三つ又にからませる。0570由松が毛布をはずす瞬間の隙に、0571喜三郎がとびかかる。0572組み合ったまま獣のようにうなり噛みあい、0573ころがった。0574素手では小柄の由松は兄貴にかなわぬ。0575起き直るなりすさまじい目つきで兄を睨み、0576父を睨み、0577失神せんばかりに立ちつくしている母をも睨みつけて、0578ぷいと外へとび出していった。
0579「父さん……」
0580 喜三郎が駆け寄って吉松を抱き止めた。
0581「だんない……」
0582 その手を振り払おうとしながら、0583もう吉松には立っているだけの力も残されていなかった。
0584 父はべったり寝ついてしまった。0585田野村佐伯の漢方医周吉(姓不明)に投薬してもらったが、0586ただ胃がわるいという他は分からなかった。
0587 梅の蕾はまだ固く、0588風は冷たい。0589喜三郎は、0590牧場の柵に寄って、0591月を見上げた。0592一年前にいのと仰いだ細い月であった。0593癒えぬ恋の傷あとがうずく。0594と、0595竹藪の向こうから人影が湧いて出る。0596近づくにつれ、0597白い顔が月のほの明かりに浮き上がった。
0598「いの……おいのはん」
0599 喜三郎の全身の血が逆流した。0600梅の木陰にたたずんだ白い顔が、0601花のように笑んだ。
0602「いやらしわあ、0603うち、0604おいのはんとちゃうえ」
0605 まじまじと見つめて、0606初めて喜三郎は幻から覚めた顔になる。
0607「ああ、0608おしやんけ。0609びっくりしたで。0610今頃こんなとこで……」
0611 照れくささに赤くなる。0612娘は同じ穴太の斎藤吉之助長女しげのであった。
0613「うち、0614おいのはんの代わりえ。0615おいのはん、0616浪花に去んでしもたさけ、0617うちが今度加減味にきたのや」
0618「へえ、0619あの亀やんとこに」
0620 しげのはこっくりうなずく。
0621 加減味とは、0622養子になっても良いかどうか試しに一時来てみる、0623この地方の風習であった。0624わき・いの姉妹が去って、0625斎藤亀次郎の三番目の養女に来たという。
0626「乳、0627余ったのがあるで。0628飲んでいかへんこ」
0629 仔牛も二頭大きくなって、0630哺乳の時期は過ぎている。
0631「おっきに。0632うち、0633まだ牛の乳、0634飲んでみたことないのえ」
0635「栄養あるで。0636蛋白質も、0637脂肪も、0638灰分も、0639人間の乳よりぐんと豊かや。0640蛋白質には十種の必須アミノ酸がすべて含まれとる」
0641「ふうん、0642喜三やん、0643小さい頃から地獄耳やいう噂聞いとったけど、0644何でそんなむずかしいことが分からはるのん」
0645「勉強や。0646本やら新聞読んどったら、0647誰かて分かる」
0648 喜三郎が汲んできた牛乳を、0649恐る恐るしげのが飲み干した。
0650「こんなの、0651毎日飲んではる人がいるのやなあ」
0652「わしかて、0653余る日は飲んどるで」
0654 しげのは深く嘆息し、0655あこがれの瞳を燃やして言った。
0656「乳、0657毎日のんだら、0658肌が白うすべすべして、0659きれいになるやろなあ。0660喜三やんみたいに……うち黒うて……恥ずかしい」
0661「おしやんかて美しいで。0662よっしゃ、0663乳余ったら飲ましたる。0664余ったかどうか、0665毎晩見に来いや」
0666 その約束通り、0667しげのは毎晩、0668亀やんの家から忍んできて、0669牧場の端まで顔を出す。0670いのを浪花へ、0671志津江を京へと奪い去られて荒涼たる喜三郎の胸は、0672たちまちしげのに傾いていく。
0673「おしやん、0674結婚しょ。0675わしの嫁はんになっとくれ」
0676 ほころびかけた梅がまだ浅い春の香を運んでくる。0677しげのは言葉も出ず、0678喜三郎の腕に全身を投げかけた。0679十九歳の若い体臭にむせつつ、0680喜三郎は譫言のように口に出す。
0681「おいのはんも、0682志津江はんも、0683わしには高嶺の花やった。0684おしやんぐらいがわしの身にはちょうど似合いなのや……これでよいのや」
0685 言わでものことを口にしながら、0686喜三郎は涙をこぼした。0687しげのは喜びにしびれて、0688ただうっとりと喜三郎の胸に酔っている。
0689 翌朝、0690喜三郎は半丁ほど西の生家に顔を出し、0691吉松の枕頭に坐った。
0692「父さん、0693やっと見つかった」
0694「ほう、0695何がや」
0696 骨と皮ばかりに痩せ細った吉松は、0697ものうげに頭だけ喜三郎に向けかえる。
0698「前から欲しいと言うとったやろ。0699色が黒うて、0700尻がでこうて、0701乳がうんと大きい。0702あれなら父さんの気にいる。0703間違いなしや。0704ここに連れてくるさけ、0705見てくれはるか」
0706「連れてこんかてよいで。0707しんどいわい。0708わしに関係あらへんことは、0709お前の好きにしたらええわい」
0710「あれ、0711いつから父さん、0712そんなに物分かりようなったん。0713ほいでも結婚式のまねごとぐらいせな、0714格好つかへんやろ」
0715「結婚式?……おい、0716乳牛のことやないのか」
0717「そんな……父さん、0718わしの大事な嫁はんや。0719乳牛なんて、0720なんぼなんでも……」
0721「ド阿呆、0722それを早う言え。0723そいでどこの牛……いや、0724娘や」
0725「斎藤吉之助はんとこのしげのはんじゃ」
0726「ああ、0727あれか」
0728 吉松は目をつぶった。0729ほっと安堵のため息が出る。0730我が家には釣り合わぬ娘にばかりうつつを抜かしていた息子が、0731やっと百姓の嫁にふさわしい娘を見つけてきた。0732喜三郎が白羽の矢をたてた斎藤しげのなら、0733家もほどほど。0734ちょっと手粘(のろい)でも体は丈夫、0735辛抱も強かろう。0736たくさん子を生む体つきやと吉松は、0737わが血が末長く伝わる予感にほほ笑んだ。
0738 この縁談は意外に難航した。0739斎藤亀次郎は、0740やっと得た三度目の養女をどうしても手放したくなかった。0741上田家では、0742長男の喜三郎を養子には出せぬとつっぱる。0743どちらも譲らなかった。0744喜三郎は仕事も手につかず、0745悶々と世の無情をかこっている。0746結局折れたのは上田家側であった。
0747「喜三郎は上田家は継がぬ。0748大きゅうなったら養子にやれ」という祖父吉松の臨終の予言が思い浮かんできて、0749吉松や世祢を決断させたのだ。0750ただし斎藤家婿入りの条件として、0751喜三郎は精乳館が忙しいので、0752「養家の仕事は一切しない。0753暇があれば、0754少しでも読書させてもらいたい」と申し出た。
0755 亀次郎はいそいそと答えた。
0756「なあに、0757手のかかる子があるやなし、0758わしらもまだ体は達者や。0759好きなだけ勉強したらええ。0760喜三やんみたいな学者先生に来てもろたら、0761わしらかて名誉なこっちゃ」
0762 そんなにまでした結婚でありながら、0763喜三郎は半月を経ずに早くも後悔していた。0764今までの恋人に比して背は低く、0765ごつごつとして浅黒いのがもの足らぬ。0766恋愛中は月・星・雪の光に情緒を増し、0767のぼせ上がって気にもならなかったのに、0768夜ごと燈火の下で鼻つき合わせ、0769白昼陽の光にさらされたしげのを見ると、0770さまざまな欠陥がいやでも目立ってくる。
0771 喜怒哀楽の振幅の大きい喜三郎にとって、0772まず不満なのは、0773妻の感受性に乏しい張り合いのなさであった。0774短い恋人時代には、0775いつもものも言わずに、0776喜三郎の胸に顔を埋めるのを、0777無垢な女の羞とのみ受けて感激したものだが、0778恋のうま酒に酔いしれていたのはどうやら喜三郎の一人相撲と気がついた。0779寡黙なのも、0780内気というより、0781語彙と感性の不足のためらしい。0782夫を理解しよう、0783意を迎えようとは思わぬのか、0784ただ黙々とのろのろ働くばかり。0785喜三郎の好きな詩や歌を聞かせても、0786お経と区別がつかぬほど反応がない。
0787 百姓の嫁としてなら、0788しげのは合格点かも知れぬが、0789一日鈍重な牛を相手に、0790帰ってからまで鈍重な妻――詩人喜楽としては何とも味気ないのだ。0791その上、0792この家はあまりにもいのとの思い出が深すぎる。0793楚々としたいのの幻が妻と重なり、0794喜三郎を苦しめる。
0795 亀次郎、0796ふさは仲の良い平凡な老人夫婦だ。0797が、0798他人ならいざ知らず、0799親子関係を結んでみると、0800やることなすことしみったれて、0801何しろ口うるさい。0802茶碗の持ち方が悪いの、0803食べ方がどうの、0804人前もかまわず放屁しすぎるのと小言の絶え間がない。0805本に読みふけっていることにも、0806次第に嫌な顔をする。0807本を読む目の前で、0808わざとばたばた忙しげに動きまわる。
0809「ちぇっ、0810えらい婿入れたもんや。0811縦のもん横にもさらさん」とぶつぶつ呟く。
0812 自然、0813喜三郎は仕事が終わっても一人で牧場でごろ寝して、0814気がねなく本を読む日が多くなる。0815あれほど騒いで結婚しながら、0816すぐに後悔する豹変ぶりがいかに勝手なものか、0817自分でもよく知っている。0818それだけに苦しい。0819この結婚は錯覚であったとつくづく嘆いても、0820もう後の祭りだ。0821ついに牧場に泊まる夜が多くなり、0822養家には、0823十日にいっぺんほど、0824お義理に帰ると言う風になった。
0825 五月のある夜、0826ついに亀次郎は切り出した。
0827「おい、0828喜三、0829しげのは養女といいながら、0830わが斎藤家のたった一人の跡取り娘や。0831それを大事にしてくれんのなら、0832出て行ってもらわなしゃあないのう」
0833「義父さん、0834わしは大望をかかえとる身や。0835女房ぐらいにかもておられんのじゃ」
0836「大望やて、0837あほくさ。0838乳屋ぐらいしとる身で大望やて。0839よう言わしてもらわんわ。0840ハハ、0841ハーン」と亀次郎は、0842歯の欠けた口をあけて嘲笑する。
0843 そばでしげのが、0844無表情に縄をなっている。
0845「乳屋いうて馬鹿にしてもろたらどもならん。0846なんせ、0847天皇さん、0848皇后さんでも京にいやはる間は一日二合ずつ牛乳飲んどってやそうな。0849京には麻疹がはやっとるさけ、0850何より牛乳をもって御養生あそばしとる」
0851 英照皇太后(孝明帝皇后)大葬の折、0852流感のため御名代をつかわされていた両陛下が、0853百日祭に京へ行幸行啓され、0854ちょうど滞京されていたのだ。0855天皇までかつぎ出したことのついでに、0856喜三郎得意の論法が始まる。
0857「言わしてもらえればやのう、0858天皇さまも御愛飲給わる滋養豊かなこの牛乳事業を大手に広げて、0859国民全体の体位向上を図らんとするわが大望を知らぬとは……そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん、0860お言葉無理とは思わねど、0861そも逢いかかる初めより、0862末のすえまでいいかわし、0863互いに胸を明かし合い、0864何の遠慮もないしょうの、0865世話しられても恩に被ぬ。0866ほんに女夫と思うもの……」と〈おしゅん・伝兵衛近頃河原達引〉のさわりをうなり出す。
0867「け、0868けったいな声出さんとけ。0869気色わるい……」
0870 調子にのった喜三郎、0871また一言多かった。
0872「義父さんや義母さんは、0873わしをだらしない箸にも棒にもかからん男やと思うとってか知らんがのう。0874まあ、0875気長に見とってんか。0876わし、0877いつまでも牛乳屋なんかしとりまへんで」
0878 ふさが聞き咎めて開き直った。
0879「なんやて。0880また山子はる気かいな、0881この男は。0882乳屋を止めるんやったら、0883うちの養子にいりまへんで」
0884「ほんまや。0885大当てはずれや」
0886 乳屋ぐらいと馬鹿にしたばかりの亀次郎まで、0887憤然となる。
0888「男が何しようとかもてくれるな。0889今に一国一城の主にもなって、0890あふんとさしちゃるわい」
0891「今でも充分あふんとさしてもろとるで。0892とにかく、0893乳屋を止めてまたマンガン掘りでもさらしてみい。0894大事な家屋敷なくして、0895村中のよい笑いもんにならんなん」
0896「笑いもんになるくらいが恐ろしゅうて、0897男一匹こんな掘っ立て小屋にすっこんでおられるけい」
0898「わしんとこが掘っ立て小屋なら、0899上田の家は厠じゃわい」
0900 まさに「斎藤の家庭をおそう低気圧暗雲低迷かみなりごろごろ」、0901真っ赤になって、0902三人三様にどなり出した。0903 
0904「見そこのうたで。0905とんでもない阿呆じゃ。0906ド助平や」と義母が言えば、0907
0908「お前みたいなはねかえりもん、0909家風に合わぬ。0910出て行け」と義父も得たりとどなる。
0911「そちらから放り出さんかて、0912こっちから放り出たるわい」
0913 喜三郎もどなり返して立ち上がり、0914ちらとしげのを見た。0915見返すしげのの目に涙を見た。0916泣いている――浄瑠璃や芸術の分からぬしげのにも、0917自分にささった刺の痛みは分かる。0918きりっと胸が疼いた。0919だが騎虎の勢い、0920何くそと養家をとび出し、0921牧場の小屋へ走っていた。0922婿入りしてちょうど百日目であった。
0923 喜三郎はしげのと結婚はしたが、0924入籍していない。0925上田家の長男であるためか、0926入籍する間もなくとび出したせいか。
0927 しげのは明治三十年五月一日斎藤家へ養女として入籍し、0928明治三十一年七月五日に離縁している。0929喜三郎が飛び出した後もしばらく斎藤家に残っていて、0930結局実家に復帰。0931西条の某と再婚したのは三十二年で、0932その後平安に生涯を送った。
0933 喜三郎と恋愛したすべての女性がそうであるように、0934彼女もまた、0935晩年になっても、0936喜三郎の日常を知る人に会えば、0937必ず「喜三やん、0938どうしとってえ。0939元気にしとってけ」と、0940さも懐かしげに様子を知りたがったという。
0941 養家から解放されると、0942喜三郎はまさに羽をとり戻したようであった。0943まず小幡神社の道をへだてた北、0944郷神社の前の矮屋を借り受け、0945喜楽亭と名づけて寝泊まりすることにした。0946いつまでも牛小屋では格好がつかぬと、0947独立宣言したわけである。
0948 牧畜の暇に、0949田野村佐伯の十五歳の少女糸子を師匠として、0950長唄・端歌・日本舞踊まで習い始める。0951しかもその舞いぶりやのどの加減を聞かせたさに亀岡の料亭に通い、0952芸者遊びを始める。0953春雨や淀の川瀬や鶯宿梅を得意になって舞って見せ、0954芸者の愛想に陶然となる。
0955 遊びにうつつを抜かしていても、0956牧畜の仕事だけは怠らなかった。0957この頃、0958亀岡と東本梅に同業者ができ、0959競争は日々に激しかった。0960得意先を奪われまい、0961蹴落とされまいと油断なく牛乳を配り、0962さらに得意先を拡張して行く。0963乳牛はそれぞれ仔を生み、0964仔は親になり、0965事業は栄える。
0966「喜三やんは、0967ほんまに寝る時間があったんやろか」と呟く古老に著者は出会ったものだが、0968同感である。0969忙しい牧畜の暇に田畑を作り、0970本を読む。0971趣味を数え上げれば、0972冠句・俳句・短歌・浄瑠璃・画・歌舞音曲、0973次から次へと発展する恋愛、0974茶屋遊び、0975そして飽くことのない悪戯。0976そのどれもこれもが実に熱心である。
0977 小島光之助は、0978父長太郎(元上田家の隣家)の思い出を伝える。
0979「亥の子の翌日のう、0980近所で庭の便所が消えてしもたんや。0981あちこち探し歩いたら、0982なんと何町も先の山のねきに移っとった。0983犯人はきまっとる。0984喜三やんが仲間を集めて、0985夜中に棒でかついで運んだんや」
0986 野原捨吉は語る。
0987「喜三やんは、0988牛乳配達しながらでも、0989いつも歩きもって本を読んどったのう。0990声をかけても気づきよらん。0991股引きが破れて繕う暇がないのか、0992よう手拭いで破れた膝小僧しばっとったわい。0993いつやったかのう、0994股引きの紐がとけて、0995ひきずっとるのも気づかんと、0996本読みながら歩いとったさけ、0997紐の端を踏んづけてやったら倒けそうになってびっくりしとったわい」
0998 養家を出て間もなく、0999喜三郎は、1000浄瑠璃の会で美しい女に見染められた。1001今までの女とはまるで違っていた。1002誰よりも背は高く、1003ふっくらと肥え、1004色が抜けるように白かった。
1005「喜楽はん、1006よいのどやわあ。1007うち、1008惚れ惚れしたえ」と女の方からはにかみもせず話しかける。
1009 穴太から南へ一里ばかり、1010南桑田郡中村の小さなうどん屋の一人娘多田琴と、1011彼女は名乗った。
1012「あ、1013それなら多田亀の娘か」と喜三郎は驚いた声を上げた。
1014 中村のうどん屋多田亀吉といえば、1015中村辺りで睨みをきかす侠客の親分である。1016道理で人おじせぬわけだ。
1017 中村なら同じ方向だ。1018これからどこかへ飲みに行くという友達と別れ、1019喜三郎は琴と肩を並べて歩き出す。1020背丈は同じぐらいだから、1021当時としては大女である。1022歩きながら、1023琴は闊達にしゃべる。
1024「喜楽はん、1025うち、1026ええこと聞いたえ」
1027「どうせろくなこっちゃないやろ。1028なんやね」
1029「養子に行かはって、1030ちょうど百日で追ん出されちゃったんやてなあ。1031ほんまかいさ」
1032「ちぇっ、1033もう中村まで聞こえとるのこ。1034まあ、1035いまは正真正銘の男寡夫や」
1036「いやそう、1037ほなうちと同じや。1038うちはド甲斐性なしの婿はん、1039追ん出した方やけど……」
1040 琴は嬉しげにコロコロ笑った。
1041 明治二十六(一八九三)年十二月に加佐郡余内村字清道の某が婿養子として多田家に入籍、1042一年足らずで離婚。1043二十二歳の現在、1044琴は独り身であった。
1045 夕方、1046琴は前触れもなく喜楽亭を訪ねて来た。
1047「あれ、1048きたない部屋やわあ。1049男やもめに蛆が湧くってほんまやなあ。1050今日からは掃除洗濯はうちの役や」
1051 喜三郎の答えも待たずに、1052琴は乱雑きわまる館を、1053といっても一部屋こっきりだが、1054てきぱき片付け出した。1055大柄な彼女が忙しく動きまわると、1056マッチ箱ほどの家がなお小さく見える。
1057 喜三郎は片隅に引き直された蒲団に寝そべり、1058しげのと違ってこまめに走る琴の白い指を、1059珍しげに眺めていた。
1060 がたんと戸が鳴る。1061騒がしい人の気配に外を見ると、1062次々に若者が集まってきて人垣をつくり、1063屋内をのぞきこんでいる。
1064「こりゃかなわぬ」と喜三郎は夜具をひきかぶる。1065多田琴は涼しい顔で門口を引きあけ、1066
1067「皆さん、1068なに見てはんのん。1069なんぞ珍しいことおますか」
1070 こそこそと隠れかかる若衆に、1071琴は一段と声をはり上げた。
1072「そんなに見たかったら、1073中へ入ってゆっくり見よし」
1074 顔見合わせていた若者たちは、1075どっと門口につめかけた。1076押すな押すなと乱れ入ると、1077部屋は大入り満員となり、1078頓狂な奴は喜三郎の蒲団の中にまでもぐり込む。
1079「こりゃ助平、1080何さらすねん」
1081 喜三郎、1082はね上がってわめいた。1083一同手を叩いて笑いこけ、1084
1085「こりゃ喜楽、1086馬鹿にするな。1087わしらに内緒で別嬪引きずりこみくさって……」
1088「白状さらせ。1089こら一体どういうわけじゃい」
1090「内緒もくそもあるけえ。1091わしかて面くろとるとこや。1092まだその……何じゃい……これからええとこやのに邪魔さらすな。1093友達甲斐のない奴ちゃ」と喜三郎はふくれるが、1094琴は愛嬌がよい。
1095「まあ、1096そう言わんといたげていさ。1097うちかて、1098これからお友達にしてもらわんなりまへん。1099うち、1100お琴です。1101今日から喜楽はんのお世話さしてもらいます。1102言うたら押しかけ女房やけど、1103どうぞよろしゅう」
1104 一同、1105奇声を上げて冷やかす。
1106「女房もろて何くわぬ顔とは、1107こら喜楽、1108なんとか言えやい」
1109「披露せぬなら祝うてやるわい」
1110 誰かが柄杓の水を頭からふりかけた。
1111「さ、1112さかり犬じゃあるまいし、1113つ、1114冷たいわい」と喜三郎が悲鳴を上げると、1115琴は世話女房よろしく手拭いをとり、1116はた目もかまわず喜三郎の顔を拭く。1117やんやの騒ぎの中で、1118喜三郎は破れかぶれで宣言した。
1119「どうなっとしやがれ。1120おい、1121誰ぞ酒と雑魚買うてこい。1122雑魚鍋、1123振舞うたる。1124ここは狭いさけ、1125牧場へ行って宴会や」
1126 若衆たちはてんでに走りまわって買物をする。1127牧場の牛の餌を炊く大釜を火にかけ、1128雑魚と米をぶちこんで炊く。1129牛肉を買って来た奴があり、1130ついでにそれもぶちこむ。1131おいおい酒がまわってくると、1132怒る奴、1133笑う奴、1134泣く奴、1135雑魚飯をたらふく詰めこみすぎて苦しがってうめく奴、1136果ては殴り合いまで始まって牧場は大乱痴気。1137それを多田琴が仲に入って、1138円滑にさばいていく。1139いつしか真夏の短か夜も明けてしまった。
1140 がらりと戸が開いて入ってきた村上信太郎、1141あきれはてて立往生。1142わっと若者たちは逃げていく。
1143「喜楽はん、1144こらどうしたわけでござんす」と信太郎が開き直った。
1145「そ、1146その……なんせお目出度い出来事が降って湧いたさけ、1147それで友達が、1148その……」
1149 ろれつのまわらぬ舌で、1150喜三郎がしどろもどろに弁解する。1151琴は、1152すまして頭を下げる。
1153「昨夜は、1154うちと喜楽はんの祝言の披露させてもらいました。1155何せ急でしたもんで、1156お招きもようせんと……」
1157「お、1158お目出度くないわい……ば、1159馬鹿めが。1160次ぎ次ぎに、1161騙す気いか、1162騙される気か。1163ちぇっ、1164何のざまじゃい」
1165 信太郎はぶすぶす怒りつつ、1166大鍋をのぞいていっそう真っ赤になった。
1167「こらどもならん、1168牛の餌煮る鍋で牛煮るとは……」
1169「こら親爺、1170目出度い祝いにかもうてくれな」
1171 照れくささに、1172喜三郎は薪ふりあげて鍋をどやしつける。1173と、1174叩いたはずみに鉄鍋の耳が落ちて転がった。1175信太郎、1176あまりのことに怒る気にもならぬのか、1177いまいましげに舌打ちする。
1178「か、1179門口から小便はこく、1180鍋は割る。1181えーえ、1182餓鬼やのう」
1183 腹をすかせた牛が啼きだす。1184あわてて大鍋をそのまま牛の餌を煮てあてがえば、1185フンフン鼻をならしてかぐばかり。1186止むを得ず川水に鍋を洗い清めて煮てやったが、1187牛はそっぽを向いて食おうともせぬ。1188半泣きになって再び川端へつっ走り、1189今度は軽石で鍋をみがき上げ、1190ようやく牛に食ってもらった。
1191 その夜ふけ、1192喜三郎は多田琴を送って中村の彼女の家を訪ねた。
1193「父ちゃん見ても驚かんといてや、1194ちょっと手荒いかも知れんえ」
1195「なに、1196わしにまかしとき」
1197 夜風が涼しく青田を吹きぬけてくる。1198うどん屋の店は閉まっていた。1199裏口からぬっと顔を出すと、1200鬼にでも組みつきそうな大男多田亀吉が、1201一人で黙々と酒を呑んでいる。
1202「父ちゃん、1203ただいま」
1204「へい、1205今晩は。1206お邪魔します」
1207 二人はかまわず中に入った。1208亀吉は驚いて杯を置き、1209うなった。
1210「どこの馬の骨や、1211おい。1212手前、1213こんな夜ふけ娘と連れどうてのこのこ帰ってくるとは……昨夜、1214娘をどこでどうした。1215太え野郎が」
1216 亀吉は返事も待たずに躍りかかって、1217喜三郎を締め上げる。
1218「おればかり責めんといて。1219お前の娘とお互いさまじゃ」
1220「こ、1221こいつ、1222どついたろか」
1223 亀吉が拳骨を振り上げる。
1224「待ちいな、1225父ちゃん」
1226 琴が亀の腕にかじりつく。1227亀吉の拳骨の下で、1228喜三郎はにやりとした。
1229「その拳骨、1230どないしやはるねん。1231わしは多田亀親分の一人娘の可愛い色男やで。1232なぐって済むかどうか、1233娘に聞いてみな」
1234 亀吉はぷっと吹き出して、1235手を放した。
1236「よし、1237お前は度胸が太そうじゃ。1238俺の養子になる気なら、1239こいつをやらんこともない」
1240「百日で養家を追い出された上田喜楽や。1241それでも気にいるなら、1242来てやらんこともないで」
1243 琴が両手をついて、1244涙声で言った。
1245「父さん、1246お願い、1247この人もろていさ」
1248「ちぇっ、1249猫の子もらうみたいにぬかすな。1250あきたから言うて、1251また追い出すなよ」
1252 老侠客多田亀吉は、1253二年前、1254女房たみに先立たれてから、1255娘と二人きりの淋しい暮らしであった。1256杯を片手に、1257多田亀は喜三郎を穴のあくほど見つめた。
1258「うーむ。1259琴が見込んだ男だけあるわい。1260いやに色が生っ白いのは気に食わんとこじゃが……なかなか気の利いた男らしいのう。1261わしの跡継いで侠客の修業に身をいれたら、1262名を挙げるやろ」
1263 琴がいそいそと喜三郎に酒をつぐ。1264上機嫌で親子の杯を酌み交わし、1265とろけそうな笑顔を娘に向けて、1266多田亀は言った。
1267「おう、1268もう夜があける。1269今度はお前が婿はんを穴太まで送ってやりな」
1270 琴の肩にすがりながら、1271喜三郎は強くもない酒に足をとられてひょろりひょろり、1272明け方の霧の中を歩く。1273幡随院長兵衛・国定忠治・大前田英五郎・清水次郎長……有名な侠客の名が浮かぶ。1274強きをくじき弱気を助ける侠客も悪くない。1275上田の家名をあげるためなら、1276牧場よりも手っ取り早い。
1277 それにしても眠い。1278考えてみれば、1279一昨夜も昨夜もまったく眠っていないのだ。1280うとうとして青田の中に転げ込んだ。
1281 琴は悲鳴を上げ、1282力まかせに抱き起こした。
1283「眠いわい、1284もう一歩も歩けぬ。1285負うてくれい」と駄々をこねる。
1286 琴は広い背を向けてかるがると喜三郎を負い、1287朝陽の昇る野地を行く。1288霧の向こうから現れた農夫がぐうぐうと大女の背で鼾をかいている男をのぞきこみ、1289魂消た顔してすれちがう。
1290「喜楽はん、1291もう下りてえさ。1292人が見ると恥ずかしい」とさすがに琴が赤くなって頼む。
1293「亭主をおぶって恥ずかしがるようで、1294神聖な恋ができるかい」と喜三郎が無茶を言う。
1295「どうなっと勝手におしよ、1296うちもう帰ります」
1297 琴がすとんと手を放して落っことす。
1298「さようなら、1299ほな一人で行くわ」
1300 喜三郎、1301裸足のまま下駄を手に野道を一散に走り出した。1302冗談やない、1303牛が待っとったと気がついたからだ。1304走りつつ振り向いてみると、1305琴も裸足になって裾ふり乱して追ってくる。
1306「可愛い、1307可愛い、1308可愛い奴……」と喜三郎は走りつつ独りごちた。
1309 牧場にとび込んでみれば、1310時すでに遅かった。1311村上信太郎がすごい顔つきでにらんだ。1312搾乳の済んだ乳を煮て消毒しているのだ。
1313「これからは心得ます」と頭掻くと、1314ついてきた多田琴も泣き笑いして頭を下げた。
1315 琴は喜楽亭に三、1316四日居続けたあと、1317上田家まで訪ねていった。1318世祢は琴を好感を持って迎えたらしい。1319喜三郎は、1320歌で記録する。
1321   お母さん私は喜楽の妻ですと
1322    初めて逢うた人にかたる彼女
1323   ああさよかお前が伜の女かと
1324    すましがおなる気楽な母上
1325   女房になるのはよいが我が伜
1326    騙す注意と母いらぬこと言う
1327   喜楽さんにだまされましても満足と
1328    彼女も気楽なことを言ってる
1329   白梅の花から桃へ桜へと
1330    蝶のごとくにうつろう若き日
1331   吾がもゆる心も雲雀は白雲の
1332    空からしきりにぞよいでいやがる
1333   夜な夜なに我が見し夢は花のゆめ
1334    紫のゆめ桃色のゆめ
1335 多田琴は、1336上田家に居ついたように吉松の世話から末の妹君の面倒までみた。1337姿が見えぬと思えば、1338夕方山から薪を背負って帰ってくる。1339男勝りの女丈夫ながら、1340琴は気のやさしい働き者であった。1341病身の吉松はじめ母世祢、1342末の妹君は、1343暗黙のうちに琴を頼り始めていた。1344が、1345肝心の喜三郎は、1346琴がおろうがおかまいなしで、1347仕事が終われば気ままに遊びあるく。
1348 喜三郎の歩く所、1349女難は尽きぬ。1350新田の地蔵をまつる後家のところに牛乳を配達に行った。1351中年の後家は、1352何を思ったのか喜三郎をつかまえて離さず、1353色っぽい目で顔を眺める。
1354「あんたはん、1355夢にまで見とった生仏さま、1356地蔵さまに生き写し。1357あれ、1358地蔵眉までそっくりそのままや。1359牛乳を配って子供らを守ってくれはるやさしい地蔵さま、1360孤独なうちの連れ合いにと、1361地蔵さまが寄こしてくれはったんやなあ。1362ああ、1363ありがとうございます」と涙をこぼさんばかりに拝み始めた。
1364「こ、1365こらえてくれい。1366わしゃまだ地蔵にはなりとうないわい」
1367 逃げ出す後から後家は抱きついて、1368「地蔵さま地蔵さま、1369どうぞうちの願い、1370聞いて下はれ。1371これ逃げるなぞあんまりじゃ」と追ってくる。1372もうあの色後家には乳などやらぬと、1373やっとの思いで逃げ帰るのだった。
1374 牛の草刈りを終え、1375小作田の除草も済まして、1376夕方搾乳へ牧場に戻る。1377それから大きな南瓜となんば(玉蜀黍)をかかえて夕方の牛乳配達に出向きがてら、1378家に寄った。
1379「お君、1380お琴やんに、1381なんば焼いてもらえよ。1382兄やんが作ったさけ、1383うまいじょ」
1384 嬉しそうに出迎える琴にさっと手渡す。
1385「兄やん、1386おっきに」と言いながら、1387君は琴の大きな腰にまつわりついている。1388喜三郎は、1389真っ直ぐ父の枕元に行った。
1390「父さん、1391やっぱり一口ずつでも牛乳飲んだ方がよいで。1392力がつくさけのう」
1393 吉松は笑って、1394
1395「いや、1396臭うてかなん。1397なんぼお前の牛の乳かて、1398気味わるいさけ、1399こらえてくれや」
1400 そして真顔になって息子を見上げた。
1401「それよりのう、1402喜三や。1403わしももう長いことはないやろさけ、1404どれなっと早よう女房に決めて、1405わしを安心さしてくれやい」
1406 弱々しい息づかいの下から、1407吉松が言った。1408喜三郎は涙ぐみ、1409黙ってうつむいた。1410やがて吐息と共に低くつぶやく。
1411「内縁の妻はあるけどのう、1412侠客の跡つぎで一生を終える決心はまだつかへんのや。1413わしには他に大望がある……それを思えば、1414生涯の妻は見あたらん……」
1415 不意に泣き声が起こった。
1416「しもた……お琴やん」
1417 喜三郎が次の間をのぞく。1418琴は見えぬ。1419裏口の戸をひき開けると、1420母が泣きじゃくる琴の袖を引き止めている。1421 
1422「喜楽はんの心の底、1423見えたもん……うちがいたら邪魔やし……」
1424 身をひるがえしていく琴を庭の外まで追って出ながら、1425喜三郎は一人で戻ってきた。
1426「よい娘やったのに……」
1427 母が袖口で涙をぬぐっている。1428母子は目をそらし合って何も言わなかった。
   
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