たまの礎
明治三十六年十月一日
裏の神諭
(一)大功は細瑾を顧みずとは、古諺の教ふる所なり。然れどもいと些さき悪なりとも、之を軽視して改めざる時は、大なる善を行ふこと能はざるべし。蟻の穴より千丈の堤も崩るるとかや。世の大立替なぞと唱ふる人が、日常の些事にも心を砕くを見て、若し傍より之を嗤ふものあらば、其人は決して高天原に到ること能はざるべし。
(二)神に供物を為すに当りては、先づ心を清らかにするを要す。親子兄弟姉妹等睦じからずして供物を為すなかれ。不和なる家庭の供物は、神之を受けんとはし給はず。神は最も人の赤心を歓び給へばなり。
(三)姦淫は慎まざる可からず。万の罪皆色を慎まざるより起る。肉体にては慎みて姦淫せざるものあれど、心に姦淫せざるは甚だ尠し。心に姦淫したる者は肉体にて姦淫したると其罪決して異ることなし。早く改めざれば、高天原に到ること能はざるのみならず、根底の国に落さるる也。
(四)人に見られむが為に善を為すことなかれ。貧民に衣類食物を施すに当りても、其事実が世に拡がりなば、そは既に世界より酬いられたるなり。故に真の報酬を神より受くること能はざるなり。隠れたる徳は神之を酬い給ひ、現れたる徳は、人之を酬ゆるものなり。
(五)天は高きものとのみ思ふことなかれ。誠のある所、正しき神の坐ます所は皆天なり。竜宮館の下津岩根も亦天なり。
(六)二個の眼を失ひたる人は、この世の光明を見ること能はず。心の眼を失ひたる者は、その暗きこと一しほなるべし。心の眼なき者は、神に見ゆる事能はざるべし。高天原を見る事能はざるべし。
(七)東の君主に仕へ、同時に西の君主に仕へ難きと同じく、人若し財宝に仕へんとする時は、同時に神に仕ふること能はざるべし。金銭を使ひて国の為め道の為めに尽すは良し。金銭に使はるるものは、神の光を知らざるに至るべし。
(八)今日畑に在りて、明日は釜に煮らるるものなりとて、神は其刹那まで守護を与へ給ふ。神の教を守る人の身の、何ぞ神の守護なかるべき。之に反して信仰なき者の心は、恰かも薄氷を踏むが如く、到底安息の遑なかるべし。
(九)日本神国の人よ、一切を神に任せよ。食ふもの、飲むもの、着るものに心を煩はすことなかれ。今日の事は今日に為すべし。明日の事を今日より思ひ煩ふことなかれ。人の欲するがままに、明日の天候を雨となし、又晴れとなす事さへ許されざればなり。されば何事も其日の事のみ神に祈りて、其日の罪を恕されんことを求むべし。
(十)罪深き者よ、爾の眼には棒の横はるを知らずして、人の眼に在る針を見んとす。先づ自己の眼の棒を抜き取りて後、人の眼に在る針を抜き取ることを努むべし。罪深き間は、自己の履物を棚に直し置きて、人の履物の置所を罵るものなり。心せよ。神は何処にも坐まさぬといふことなし。
(十一)細き道を歩むべし。広き道を歩むものは、末必らず亡ぶることあらん。今の世の人、大方は広き道を取りて行けり。長く栄ゆる道は旧くして且狭きが如し。
(十二)今の世の教会の教師は、表面の姿は誠に優さしく、忠実に見えて、神の教の取次らしく思はるれど、其心の内は狼なり、山狗なり、蛇なり。この世の罪といふ罪は、彼等の心に山と積れり。人なるものよ、猛き獣に襲はるることなかれ。
(十三)今の教会は桜の花なり。一時は人歓びて其下に集まるといへども、其実を結ばざれば、須臾の夢の花なり。実の結らざるは仇花にひとし。爾等早く桜を棄て、松の下に集まれ。幾千代も変らぬ緑は生命の証なり。
(十四)桜の花を棄てて梅の花を尊とめ。梅は万の花に魁けて清香を放つものなれば、世の人之を兄の花と崇め居るにあらずや。積雪の中を耐へ忍びて咲き匂ひ、後には珍しき実を結ぶを見るべし。
(十五)薊の花を愛することなかれ。茨牡丹に近寄るを慎むべし。すべて外形麗はしきものは皆刺あり、針あり。近づくものは必ず其身を害ひ傷ることあるべし。