(百十二)稚比売岐美命の霊魂の罪は、いと深くして、今に至るも、心に限りなき苦しみを蔵し、絶えず吾児の身の上に就きて、心を砕き給ふ。天の規則を破りたる霊魂は、その罪の消ゆること容易にあらざればなり。素盞嗚命は、世界の為めに悪となり給へるなれば、直に其罪を宥されて、月の神となり給ひ、今や二度目の岩戸を開かんが為めに、瑞の御魂として再びこの世ヘ降り給ひても、厳の御魂に比ぶれば、心の苦しみはいと軽く、胸の中は常にすずやかなり。
(百十三)瑞の御魂の御霊は、依まざる者の病をも癒やし、頼まざる者の濁りをも清め、頼まざる者の曇りをも払ひ給ふ。罪は海山ありとても、人々は此御霊の幸によりて救はれ、神の御許に至ることを得む。同じく世を救ひ、人を救ふにも、頼まば聴く神と、頼まずとても聴く神との間には、大いなる区別あることを暁るべし。
(百十四)暗き世を照らして、日の出の光を現し給ふは、日之出之神なり。日之出之神は、男の身によりて、弥仙の御山へ現れ給ひ、弥高き稜威を表はし給へど、灯台下暗くして、瑞の御魂より外に知る者はなし。神の大御心は心の中清まらざれば、覚ること能はじ。
(百十五)「死んで居らぬ」言ひやうと、聴きやうに依りて、生身ともなり、死身ともなるべし。日之出之神は瑞の御魂に引添ひて、高天原に現れ給へども、誰も知るものなし。生身と生魂の区別をよく弁へて、不覚を取るなかれ。肉体そのままにて神に使はるる者は生身なり。肉体を替へて神に使はるる者は生魂なり。生魂の働きある者はその者の肉体生きたると同じきなり。
(百十六)金銭衣類を盗人に盗まるるとも、心の宝を盗まるることなかれ。身の内の宝は、他より盗まるる虞なしと思はんは僻事なり。身の内の宝とは、霊魂に具はる直霊の御魂なり。此御魂を盗む者は悪魔なり。悪魔は直霊の魂を抜き取りて、己れ其後に潜み、飽まで善の仮面を被りて、人を畏るべき魔道に陥るるものなり。
(百十七)日頃思想の堅固して、行為の正直なる人が、稀に悪魔に誘はるることあり、かかる人の魔道に陥りたるは、悔ひ改むることなきが故に、最も憐れむべし。思想の堅固は可し、行為の正直なるは嘉すべき限りなり。只かかる人の常として吾は善きものぞ、罪なきものぞと一図に思ひ極め、ややもすれば、省るといふことを怠る傾きあるが危きなり。一つの省るといふことを忘れむか、百の善言嘉行も、砂上に築きたる楼閣の如く、一時に土崩瓦解するとこあるべし。
(百十八)口と心と行との一致は、容易く常人の達し得るべきにあらずとするも、少くとも口と行と伴ふにあらずんば、斯道に入りたる信徒とは言ひ難かるべし。常に言葉を後にして、行を先きにせよ。自身労役に服して後勤勉を説き、自身危険を冒して後献身をすすめ、自身人を教え導きて後宣教を言へ。中身空虚なる太鼓の、徒らに鳴るにも似たる大言壮語は、神に対して畏れ多きのみならず、天下に対しても、大いなる詐欺者たるの譏を免れ難かるべし。
(百十九)昔も今も神憑者、偽予言者の類続出して、枯木に花が咲くやうなる偽を述べ数多のひとびとの心を惑はさんとす。心せよ。真正の神は、二つの身魂の外には、決して懸り給ふことなし。されど凡人は、往く所まで往かねば、到底悟り得ざるものにて、説けば説くほど惑ひを増し、言へば言ふほど疑ひを深くす。天の時節に、何事も打ち任すより外に途はなきものか、嗟乎。