維新以来、我国家は長足の進歩をなし、我国勢は年と共に開展し、日清・日露の両戦を経て既に韓満を奄有し、更に今次の世界争乱に際会するや、一躍東洋の霸権を把握するに至れるも、内に国民の精神状態を顧みれば、其志漸く荒廃し苟安小成を希い、国家の偉大国民の縮小とは、正に反比例を為すものの如し。
現代の国民は国家をして、今日の偉大を為さしめん為め、維新の先輩が如何に苦辛を嘗め、如何に犠牲を払いしかを忘却するものの如し。表面には其功勲を賞し崇仰の形を示すも、其精神は日々益々之に遠ざからんとするに似たり。勲章・年金・爵位・恩賜を目標として活動する処の現代人士が、到底当時の誠忠にして犠牲的なる崇高雄大の精神を、・理解し得べきよう無ければなり。
而して犠牲献身の気魂なく、崇高雄大の精神なき、今日の縮小せる国民にして、果して無難に先輩の遺業を継承して行くことを得べきや否や、是れ実に現代の有司・軍人・政客・学者・教育家・宗教家輩の、正に自反再思して、、深く憂慮すべき処に非ずや。試みに一例を以て之を云わんに、茲に徒手一代にして、数百万の身代を作れる人ありと仮定せよ。彼若しその貧賤に生立ちしを恥じ、其子女をして華奢の生活に慣れしめば、一朝不諱の事あらんには、果して其不肖児の代に至り其家依然として繁昌するを得べきか。今代の我邦人は、之を維新前後の日本人に比較して、果して不肖児に非らずと云うことを得べきや否や。而して今に於て、速に自反覚醒することなしとせば、遂に能く維新の大業を継承進展し得べきや否や、深く関心憂慮せざるを得ざるなり。
今や我文部当局は学制問題の解決に没頭するものの如く、吾人は其労を多とせざるに非らずと雖も、学制の改革は、必ずしも今の教育界を刷新すベき根本的手段に非らず。学制の改革、素より必要なり。
然れども教育方針の改革・学風の一新は、寧ろ学制問題以上に重要なりと云わざるべからず。従来の注入教育に代うるに啓発教育を以てし、良民教育に代ゆるに偉大国民教育を以てし、自由雄渾の思想を鼓吹して、以て下劣俗悪なる利己的観念により靡爛せる我国民の心腸を一洗するは、実に今日焦眉の急ならずや。然れども凡庸なる当局に対して、吾人は望みを嘱するの愚を演ぜざる可し。
天もし我邦に幸せば、必ず近き将来に於て第二の森子を出だし、巨人の手腕を借りて、我学界の宿弊を一掃せしむることあらん。
転じて我宗教界を観るに、名僧名識と称せらるるもの少からずと雖も、教界の寂寞未だ曾て今日の如きはあらず。今の俗化し腐敗せる人心に向い、一人の新鮮なる福音恵報を伝うるを聞かざるは何故ぞ。
我邦幾万の教師・僧侶中、豈に一人自己の使命を自覚するものなきか。前古未曾有なる世界の大乱は、彼等の道念に何等の刺激を与うることなきか。我国民の危機は、未だ彼等の麻酔せる眼瞼を開かしむるに足らざるか。近頃宗教的有志の会合なる帰一会に於て、目下の我国民の精神状態に対し、之を指導すべき宣言を発するの議ありと聞けるは、聊か空谷の跫音たるの感あり。帰一会員諸氏は、流石に、今の時勢を以て太平無事、憂慮を要せずとは思惟せざるものに似たり。
然れども、果して幾許の徹底したる考えを以て、世間を観察し居れるや。吾人その宣言に接して、之を推測せんとする。興味ある問題なり。
但し天下の革新は、委員会の決議を以て成遂げ得べきものに非ずとは、ガーデナル・ニウマンの名言として世に伝えらるる処、帰一会の宣言可ならざるに非ずと雖も、之に多くを依頼せば恐らく失望に終らん。
大凡革新運動は、徹底せる見識に基き、確実なる一大人物の心腸より湧出する唱説に由ることを要す。我邦に於ても、法然あり親鸞ありて真宗の運動起り、日蓮出でて法華の宣伝となり、仁斎・東涯ありて儒教の徳育起り、又海外に於てもルーテル、カンウインあって新教的革新は開始せられ、朱晦庵・王陽明ありて、死せる儒教に両派の新生面を開きしが如し。吾人は帰一会の宣言以上、精神界の刷新運動を期待するの情に堪えず。想うに、天下蒼生亦た、大早の雲霓を望むが如きものあらん。
我政治界に対する皇道維新の運動、即ち憲政擁護運動は、吾人が嘗て屡々論じたるが如く、全然失敗に帰したり。而して政界は全く中心力を失い、混沌として其紛擾日に益々甚しからんとす。
故に政界の刷新は、有識者の最も心を労すべき問題たるは論を待たず。然し吾人亦た、機に触れ折に接して論説を怠らざるべし。然れども政界根本の刷新は、国民の精神状態を一新するより起らざるべからずして、一種新清にして偉大なる理想の発現して、我精神界を刷新するに至らば、政界の事、蓋し亦た見るに足るものあるに至らん。
殊に多年独逸流の国家主義を実施したる結果、国民を軍隊視するの傾ありて、個人の自然的発育を害する事少からず。想うに或る意味に於て、独逸流の応用は、富国強兵の政策を行うに頗る便利なることあるは否定す可からず。現に独逸の今日ある、又我邦が近年長足の進歩を成せる、組織的国家主義に負う所甚だ多きは、睹易き道理なり。然れども現在の国難に際し、英仏両国民が能く発憤興起し、克く其智力を尽して倦まざる状態を見れば、個人主義亦た実に侮る可らざるを知らん。
而して戦後の国情を予想せば、吾人は勝敗の如何に関わらず、英仏の状態が必ず大に独逸に優るものあるべきを信じて疑わず。真に偉大なる国家は、個人の上に於ても、亦た絶大なる国民たらざる可らず。是れ吾人が、国家として絶大にして国民として縮少せる我国の現状に対し、一大革新必要を唱説する所以なり。
(「敷島新報」第二十一号、大正五年一月二十日)