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(B)
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ぼっかぶりの夫婦
インフォメーション
題名:
ぼっかぶりの夫婦
著者:
出口澄子
ページ:
概要:
備考:
タグ:
データ凡例:
データ最終更新日:
OBC :
B124900c41
001
未決では洗面も排便も監房の中ですますことになっています。
002
狭い監房の部屋のすみに水道のセンをひねって水を出し、
003
暗い光の中で朝の顔を洗うのです。
004
それは、
005
しばらく経ってからのある朝、
006
顔を洗うところに、
007
黒いものがチョロチョロと動いているのに気がつきました。
008
黒い虫が二匹遊んでいるのであります。
009
「まあ、
010
有りがたい、
011
虫がいるわ」と思って近よると二匹の“ぼっかぶり”でした。
012
「まあ、
013
お前どこから来たんじゃ、
014
こんなところへ。
015
ここはな、
016
虫一匹来るところじゃないのに……お前何しに来たんじゃ」
017
私は喜びのあまり思わず、
018
大きな声で話しかけますと、
019
ボッカブリは両手をひざの上に置くような格好をして、
020
首を傾けて、
021
私の顔をじっと見ていました。
022
それから決って朝の八時になると、
023
毎日洗面のところに来てチョロチョロと遊んでゆきました。
024
それで私も毎日々々の弁当のご馳走をとっておき、
025
ボッカブリにもやることにしました。
026
ボッカブリは私のやるご馳走を嬉しそうに二匹並んで食べてゆきました。
027
初めのうちは、
028
はにかんでいましたが、
029
だんだん私に馴れなじんで、
030
ご馳走がすんでも私の坐っている周囲をぐるぐる廻ったり、
031
膝の上に
上
(
のぼ
)
ってきたりしました。
032
ボッカブリは大へん行儀作法のよいもので、
033
私がポッカプリに話しかけると、
034
いつもきちんと前足をそろえて、
035
首をちょっとかたむけて、
036
私の話を聞きます。
037
ボッカブリのその格好はいまだに忘れることのできん印象の深い懐かしいものです。
038
今でも時々思い出しては、
039
あの時のボッカブリはどうしているやろう、
040
いちど訪ねてみたいものだと思うのです。
041
ボッカブリは又、
042
頭の上に登ったりします。
043
壁を自由自在に走り歩き天井をはいまわり、
044
時には空中で遊んだり自由自在の虫です。
045
私は毎日ボッカブリと遊んでいるうちにボッカブリの芸のうまさに感心させられました。
046
ボッカブリは得意になって演じてくれるので、
047
048
「おゝ、
049
お前はえらいのう、
050
そんなことも出来るのか」と
賞
(
ほ
)
めてやると、
051
意気ようようと、
052
また私の
膝
(
ひざ
)
の上に来て、
053
二人で一服しています。
054
しばらくすると又、
055
変わった曲芸をして見せてくれます。
056
虫も人も心の通じ合うことでは同じです。
057
ある時、
058
私は二人のボッカブリが夫婦であることを知りました。
059
二匹は天井に
上
(
あが
)
って交わっていました。
060
それが長い時間でありました。
061
二十分間もつるんでいたと思います。
062
私はちょっと見た時つるんでいるので、
063
待っていてやりましたが、
064
いつまでも上を見るたび同じところにじっとしていました。
065
しばらくして二匹が酔うたようになって、
066
ぽろりんと落ちてきて、
067
まだ酔うたようになって、
068
落ちたまま動きもしません。
069
しんどうてかなわんようにじっとしています。
070
それは面白いものです。
071
初め、
072
顔を洗うところの
水溜
(
みずたま
)
りに遊んでいるのを私が、
073
074
「こっちへ来い、
075
こっちへ来て遊べ」と頭をなぜてやったので、
076
ちょいちょいと近寄って来たボッカブリは今はすっかり馴れて、
077
私の部屋に私の同居人のようでありました。
078
ボッカブリはことさらに果物が好きで、
079
私も、
080
果物をご馳走して話をするのが楽しみでした。
081
私が、
082
083
「ボッカブリ、
084
ボッカブリ」と呼ぶと、
085
いつでも私の顔をのぞきに来ました。
086
私はボッカブリに唄を歌ってきかせました。
087
歌を唄ってやると、
088
ボッカブリは
何時
(
いつ
)
でもキチンと両手をそろえて、
089
つつましげに、
090
いっかどスマシこんで聴いてくれました。
091
その生真面目な様子がおかしくて、
092
私は笑いこけたことがあります。
093
ボッカブリは行儀のよいものでした。
094
規則正しく、
095
毎日やって来る時間もきまっていました。
096
「人間はなあ、
097
お前たちを馬鹿にしているが、
098
お前はなかなか偉いのう」といってやると、
099
ちょっと恥ずかしげにうつむいていましたが、
100
また得意になって、
101
元気よう部屋中を走りまわって遊びました。
102
感心なことに、
103
まことに夫婦仲のよいもので、
104
いつも一しょにつれだっています。
105
食べものなども、
106
競
(
せ
)
り合って食べることがなく、
107
いつも上品に楽しんで食べているのは、
108
見ていて気持ちのよいものでありました。
109
ところが或る日、
110
いつも夫婦で元気よくでかけてくるのに、
111
一匹だけ来て、
112
いかにもションボリとしています。
113
いっこう後の一匹が来る様子がありません。
114
どこを
探
(
さ
)
がしてもおりません。
115
私は、
116
117
「お前は、
118
今日は一匹だけか、
119
どうかしたのか、
120
えらい元気がないやないか」と言うと、
121
ちょろちょろと私の前に歩みよって来ました。
122
見ると
婿
(
むこ
)
さんのボッカブリです。
123
「お前の嫁さんは今日はどうしたのや」と聞いてみましたが、
124
しょぼしょぼとしているばかりです。
125
いつも二匹で遊びに来ていたので、
126
後の一匹を連れずに一匹だけが、
127
しょぼしょぼとしているのを見ると、
128
私も淋しくてなりません。
129
それにボッカブリにとっては嫁さんのことですから、
130
私は心配になりました。
131
「どうしたんやいな、
132
ほんまに」と、
133
いくら尋ねてみても、
134
こういう時には不自由なものでハッキリしたことは分かりません。
135
また次の日もボッカブリは一匹だけで、
136
元気なげにやってきました。
137
これは今でも目に浮かびますが、
138
見ておられるものではありません。
139
二、
140
三日して担当の看守が廻ってきました時、
141
142
「担当さん、
143
おかしいこと言いますがよう、
144
もうずっと、
145
私のところへ二匹の虫が遊びにきますのやが、
146
この二、
147
三日はどうしたわけか、
148
一匹より来まへんが、
149
あんたご存じやありまへんか」と聞いてみました。
150
看守は私の質問にびっくりした顔付きでいましたが、
151
152
「虫ってどんな虫ですか」
153
「黒い虫ですがな、
154
綾部の方では“ぼっかぶり”といっていますが、
155
この
辺
(
へん
)
ではなんと言います。
156
黒い小さいこがね虫のようなのです」というと担当は、
157
158
「なんという虫か知りませんが、
159
二、
160
三日前黒い小さい虫がこの部屋の前を二匹通るのを、
161
一匹私が知らずに靴の先で踏み殺してしまいました」といいました。
162
仕方ありません。
163
交通事故で亡くしたことが判りました。
164
一匹のヤモメのボッカブリは、
165
毎日訪ねてきました。
166
相変わらずションボリとしています。
167
こういう虫でも夫婦の
情
(
じょう
)
というものは変わらないようです。
168
「ボッカブリ、
169
お前の嫁さんは、
170
人間の靴で踏まれて死んだというが、
171
かわいそうなことやった。
172
嫁さんに死なれて淋しいことやろう。
173
しかし、
174
お前は虫やでな、
175
ちょっとも遠慮はいらんで、
176
早う
後添
(
のちぞ
)
えをもろうて連れてきて見せてくれ」と言うてやりました。
177
ところが、
178
次の日も次の日もボッカブリは一匹でやって来ました。
179
私は、
180
これは私のいうことが聞こえて居らんのだろうと思って、
181
同じことをくり返しいってすすめてやりましたが、
182
どう言うても、
183
一匹で訪ねてきて、
184
私の廻りを歩いたり、
185
膝の上に登ってきたりして遊んでゆきました。
186
私もそれ以上は無理にすすめませんでした。
187
そうして、
188
こういう淋しいボッカブリとの交遊は八カ月以上も続きました。
189
あるいは九カ月か、
190
十カ月も続いたかも知れません。
191
その或る日、
192
いつも来る時刻になってもボッカブリは現われません。
193
もう来るか、
194
もう来るかと思って待っていると、
195
しゅっしゅっと、
196
いつにない威勢のよい歩きぶりでボッカブリが現われました。
197
ああ来た来たと思ってみると、
198
どうです、
199
嫁さんを連れて来ています。
200
ボッカブリが嫁さんをつれて威張って来ています。
201
私の方を見上げて、
202
──嫁さんをもらいました──というような顔で、
203
そうして
側
(
そば
)
の嫁さんをちょっと見よがしに首を動かしてみせます。
204
「お前さんカカアもらったのかい、
205
よかったなあ、
206
ハハハハ」とお祝いをいうてやりましたが、
207
私はその時ボッカブリに感心してしまいました。
208
「お前はえらいのう、
209
……人間はのう、
210
万物の霊長とかいうて、
211
口先きでは偉そうにいうておるけれども、
212
嫁はんに死なれたら一人でよう居らん。
213
嫁はんが死んだ時はわしは一生、
214
一人で暮らすというているが、
215
言うている舌のかわかぬうちに
直
(
す
)
ぐに
他
(
ほか
)
の女を入れるが、
216
お前は人間から、
217
虫けら、
218
虫けらとさげすまれていてもお前の方がよっぽど立派やのう。
219
今日までよう辛棒して来たな」というと、
220
婿のボッカブリだけは前のように、
221
私の体に登ったりして遊ぶが、
222
一匹はちょんとしたような顔をして、
223
こちらを見ているばかりではにかんでいます。
224
私が、
225
226
「お前さん、
227
よう来てくれたな、
228
仲よう遊びなよ、
229
早うこっちへおいで」といって呼んでやると、
230
だんだん私の方に近づいてきて婿さんと同じように、
231
私のまわりでちょろちょろと遊びはじめました。
232
ボッカブリは、
233
朝の八時に来て、
234
昼間を遊んで、
235
夕暮れ早いうちに、
236
どこかへ帰ってゆきましたのに、
237
夜になっても帰ろうとせず、
238
夜通し遊びました。
239
私が寝てしまうと夜具の中にもぐりこんで来たりするようになりました。
240
ボッカブリに、
241
こういう変化が来たのは私に近く、
242
ここを出ることが起こっているのではないかと想われてなりませんでした。
243
いつも夕暮れには──さよなら──をして帰ってゆくボッカブリが夜になっても私のそばを離れません。
244
私は、
245
246
「お前も、
247
夜はねるのやろう。
248
わしと一しょに寝てもよいけど、
249
わしが夜中に寝返りして、
250
お前を
圧
(
お
)
し殺すとこまるから、
251
お前は、
252
わしが
睡
(
ねむ
)
ったら、
253
どっか、
254
あっちの方に離れておれよ」と言うてやりましたが、
255
終日、
256
どこもゆかず、
257
私の部屋の中で暮らしておりました。
258
ボッカブリには私と離れともない心がありましたので、
259
夜も私のところに来て、
260
別れを惜しんでくれました。
261
私はボッカブリの予想通り、
262
しばらくして弁護士が来てくれました。
263
「あなたは保釈で、
264
出ることになりました」
265
「ああ、
266
嬉しいことじゃ」私はそう思った次のしゅんかん、
267
この虫を置いて出てゆくのはカナワンことやと思いました。
268
そこでボッカブリにいいました。
269
「お前ら、
270
こうして
永
(
なご
)
う仲よく遊んで一しょに暮してきたけれど、
271
わしは二、
272
三日のうちに帰るさかい、
273
わしがここを出ると、
274
また別の人が来るやろうし、
275
どんな人が来るか知らんが、
276
後から来る人にも可愛がってもらいなよ」
277
しかし保釈は、
278
ある事情で、
279
急に取り止めということに変わってしまいました。
280
私は再び同じ監房に戻ってきて、
281
ボッカブリとずっと暮らすことになりました。
282
こうして京都では四年もの監房生活の間、
283
ボッカブリと私は非常に因縁の深いものがありました。
284
これは神様が私を慰めて下さるために
遣
(
つか
)
わされたものと今でも思って居ります。
285
私は今でも一度、
286
ボッカブリを訪ねて、
287
懐かしい当時の思い出ばなしを交わしたいものとよく思うのであります。
288
四年
(
よそとせ
)
を馴れなじんざるぼっかぶり
289
妻はまめなか
子等
(
こら
)
は増えたか
290
別れてから十年も経って、
291
この
間
(
あいだ
)
もこういう歌を詠んで、
292
獄中の友、
293
ぼっかぶりを懐かしんだのであります。
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