『必然の世界から、自由の王国へ』闘争なく、戦争なき地上永遠の平和世界を実現することが、共産主義者の最高理想である。闘争はこの最高目標に到達する間の過渡的段階における手段であり、方法に過ぎない。共産主義者を目して、単なる暴力主義者、破壊主義者、闘争主義者と観ることは、その手段のみをみて、彼等の最高理想を解せざる偏見というべきである。法律と軍隊と警察力とを以て利己的、階級的、不正不義な欲望を充しつつある支配階級は最も悪辣な、最も陰険な、暴力主義者であり、破壊主義者であり、闘争挑発者といわねばならない。
闘争は起るべくして起るのである。そのよって来る原因を探究せず、己れの捨身的活躍によってその起り来る原因を除去する努力をなさず、坐して戦争や革命を罪悪なりと吹聴している道学者や宗教家の如きは、三文の価値なき有害無益な人類社会の寄生虫である。
また、闘争のみを以て人生最高の理想なりとし、目的を忘れて手段にのみ執着し、美わしい人間霊性の陶冶を忘れた共産主義者がありとすれば、彼等は真正マルキシストではなくて動物であり、野獣である。野獣の群れによっては絶対に文化の薫り高い、闘争なく戦争なき地上永遠の理想社会は実現しないのである。
さて、しからば共産主義は、戦争と平和の問題をどう観ているのかを検討しよう。彼等は人類の発達史を唯物史観的見地に立って観察し、戦争の類型、根因を探究して、二つの種類に大別する。即ち進歩的解放戦争と、反動的侵略戦争とがこれである。
進歩的解放戦争とは、例えば、英帝国の植民地であったアメリカ十三州が、本国政府の植民地搾取政策に反抗して、一七七五年義勇兵を募って本国に対し独立戦争を起した如きであり、またフランス大革命当時における諸戦争は、封建絶対主義に立脚するヨーロッパ諸国の反動的連合攻撃に対抗するフランス国民の進歩的、解放的、国民革命的、防御戦の古典的好例であるというのである。
現代における民族解放戦は主として世界各地の植民地、半植民地において起り得るし、現に起りつつある。中国、印度及びビルマ、安南、ジャワ等西南アジヤ諸国、南アメリカ、アフリカ等は経済的後進国であり、植民地又は半植民地である。これらの諸国が、欧米帝国主義国家の搾取束縛から起ち上ることは、植民地独立の進歩的民族開放戦として、是認すべきであり、奨励すべきであるとする。
成程、地球上の土地資源等が一部の強大な国民国家によって、独占、壟断され他の弱小国家や、民族が強大国家の支配下に文化的進歩発達を阻害され、経済的侵略搾取を受けている世界の現状が根本的に革められないならば、共産主義者のかかる観察は正しいし、その主張は妥当である。
そこでわれわれは考える。これらの武力的、経済的後進諸民族は、自己の独立解放を図る場合、どうしても、民族解放の武力的独立戦争を起す以外に方法はないものかということをだ。地球上における経済源の所有状態が、今日の如く不合理であり、不平等であるならば戦争は当分止むべくもなく、世界平和等は永遠の夢物語りに過ぎないかも知れない。
戦争絶滅を呼号し、地上永遠の平和を念願する全世界の連邦主義者は、マルキシストの指摘するこの客観的現実をどう解決せんとするのか。
連邦主義者が一九五〇年の世界大会において検討するであろう世界憲法の一試案、シカゴ憲法草案の如きは、強大国家が既得権益を固執し、且つ独占、壟断することを否定し、全世界の土地資源等は人間生活の基本的要素であり、全人類の共有財産として解放すべきであると主張しているのである。
こうした連邦主義者の主張が、もし平和的手段方法によって実現するとするならば、共産主義者のいう植民地諸民族の解放独立のための武力戦争は起らなくてすむのである。
こうした種類の戦争を防止するか、否かということは、一にかかって連邦主義者の世界的団結と、その実践的熱意によって決せられる重大問題であるといい得よう。
次に共産主義者の指摘する反動的侵略戦争とは、どういう性質のものであるのか。レーニンは、第一次世界大戦を次の如く説明した。曰く
『その発展の初期に於ては進歩的であった資本主義的=国民国家樹立のための戦争も、資本主義の最高歴史段階になると、その全般的危機を孕み、世界支配分割の不均衡がもたらす植民地再分割のための戦争、金融資本の「熱力圏」のための戦争に変化してしまった』と。(レーニン著資本主義の最後の段階としての帝国主義)
また、一九四六年二月九日スターリンは、モスクワ大劇場において演説して曰く
『第二次世界大戦が、偶然的に、もしくは二・三国家の指導者の犯した誤謬の結果─よしんばその誤謬が犯されたことが確かであるとしても─起ったと考えることは果して正しいであろうか。実際には戦争は現下の独占資本主義に基礎を置く世界の、経済的ならびに政治的諸力の発展がもたらした不可避的結果として勃発したのである。
マルクス主義者達は、世界経済における資本主義体制が、全般的危機と戦争とを勃発せしめる要因を内包して居り、現下の世界資本主義が均衡をとって発展するものではなく、恐慌と破局とを通して発展するものであることを、繰返し指摘して来た。問題は次の点にある。すなわち資本主義諸国間の発達の不均衡は、通常一定の時期を経て、世界資本主義体制の内部的安定に烈しい撹乱を生ぜしめ、資本に恵れず、市場の獲得により困難を感ずることを不満とする資本主義の一群は、一般に武力に訴えて、自己に有利に現状を変更せんと企図している。
この結果、資本主義世界は、相対立する二つの陣営に分裂し、この両陣営の間に戦争が勃発する。その場合、もしも各国間において、互いに一致せる平和的取極めにより各国の経済力に照して、資源及び市場を再び分割することが可能ならば、あるいは戦争の惨禍を回避しうるかも知れない。しかしながら世界経済における現下の資本主義的発展の条件下では、実現は不可能である』と。
以上の如き、レーニン及びスターリンの所説は、われわれが、第一次世界大戦及び第二次世界大戦を仔細に検討する場合、少くとも戦争の重大なる原因であった事を肯定せざるを得ないのである。要するに彼等は、資本主義的生産方法における、生産力の増大と、販売市場との矛盾衝突から、自然、必然的に侵略的帝国主義戦争は起るのだと断定するのである。しかるが故にレーニンはいう。
「戦争に対する吾人の態度はブルジョア的平和の友(平和主義者)とは原則的に別なものである。
われわれは、階級社会の撤廃と社会主義の勝利なくして戦争に終結をあたえることは不可能であることを理解している」と。(レーニン、社会主義と戦争)
かかるレーニンの所説を今日の共産主義者は固持して譲らない。故に社会革命運動は一面戦争絶滅への実践的平和運動であると彼等は理解し、信じているのである。
従って、リーヴスが平和の解剖において説明するが如き
「工業はその活動範囲として全地球を包容しなければ止まないのである。近代工業の大量生産は全世界からの原料を必要とし、世界の隅々に至るまで市場を求める。それは政治的、地理的、人種的、宗教的、言語的、民族的のいかなる境界をも突破してその目的を達せんとするのである。しかるに他方において民族主義は、世界をますます小さい室に仕切らんとし、人類民族をますます小さい集団に分裂させようとするのである。この相反する二つの流れは、大体一世紀の間、平行して流れることが出来た。十八世紀の政治制度たる民族国家機構は、工業を発達せしめるには、ある程度の広さをもっていたのである。しかるに二十世紀の初めからは、この二つの力は猛烈に衝突出した。われわれの政治的生活と経済的工業的生活との間に起きたこの衝突こそ、実に二十世紀の危機の原因であってこれに対しわれわれは、一九一四年以来、無力なもがきを続けて来たのである。
この激動の意味は明かである。七十または八十の主権民族国家からなる現世界の政治機構は、工業の自由なる発達、個人の自由、社会の安全にとっては拭ゆべからざる障碍物である。………………………………………はっきりいえば民族国家の理想は破産したのである。それは外国の侵略を予防する力なく国民を戦争のもたらす悲惨と不幸から保護する最高の制度となり得ないのである」(平和の解剖一四七頁─一五八頁)しかるが故に民族国家主権の一部を世界政府に委譲し、政治的世界統一主権の下、経済的自由主義の大量生産を繁栄せしめると主張する議論及びその支持者を目して彼等は旧套陳腐なプチブル的、反動平和主義と攻撃し(平館利雄、昭和二十一年中央公論十二月号)、人類平和世界主義の美名の下に、自国及びその人民を国際独占資本に売り渡さんとする売国運動であると痛論する(淡徳三郎、昭和二十四年周報一二九号売国か独立か)のである。勿論この点は、私が前節においても触れた処であり、連邦主義者の重大欠陥である。
現在の如き資本主義制度がそのまま維持され、国際独占資本の経済的侵略主義が自由に許されるならば、如何に世界政府が樹立され、武力的戦争が絶滅され得るとしても、経済的後進民族の自由と幸福とは来ないであろう。
連邦主義者は、独占資本主義制度にかわるべき、優れた社会経済制度の具体案を提示し、且つそれを実践に移す熱意を持たないならば、経済的後進民族の全面的支持を得ることは困難である。戦争の起る原因は、リーヴスのいう如き、政治的なものが全てではなく、共産主義者の説く如き経済的な面も多分にあるからである。
さてしからば、レーニンの言う如く、階級社会の撤廃と社会主義の勝利が来れば、戦争は終結し人類の世界に永遠の平和と幸福とが来るであろうか。甚だ疑問といわねばならぬ。
第一の疑問は、共産主義者が連邦主義者を攻撃する論法は皮肉にもまた、共産主義者自身にも当はまるものではないか。今仮りに全世界が社会主義国家になったとしよう。その場合、先進社会主義国家の大工業主義は、後進社会主義国家の農業主義を圧迫するのではないか。共産主義者の主張する如く社会主義革命の結果仮りに国家なるものが消滅し階級対立がなくなったとしても、工業生産者対農業生産者の矛盾対立関係をどうするのか、いいかえれば、都会対農村の根本的対立関係をどう解決するかという事である。
戦争平和及び全人類の幸不幸の問題は、資本主義対社会主義の問題ではなく、大工業至上主義か、それとも農本的農工一体主義かの問題ではないか。資本主義も社会主義も倶に大工業生産主義である。大工業生産の独占される処、よし戦争は起らずとするも、後進民族及び農村農民の経済的充実と幸福とは、来ないと観る事は誤謬であるか?この点共産主義者と連邦主義者との忌憚なき批判を待つものである。
第二の疑問は、共産主義者の『国家権力』枯死消滅論である。彼等は国家を目して、支配階級が被支配階級を搾取する権力であり、道具であるとする。
従って社会革命の結果階級対立がなくなる時が来れば、国家は廃止せずして自ら枯死するのであると主張する。この主張は、マルクス、エンゲルスからレーニン、スターリン等の共産主義の巨匠達から、全世界の群小共産主義に至る迄、一貫した持論であり国家観である。果して社会主義革命が成功すれば、彼等のいう如く、国家権力なるものは消えて無くなるであろうか。
マルキシストは、国家発生の原因を経済的階級搾取にありとする。即ち一種族が他種族を征服した場合、征服種族が、被征服種族を経済的に搾取するために作った権力機関が国家であるというのである。成程国家成立の重大契機が、種族相互間の征服、被征服過程にあったことは、多くの学者の説く処である。しかし国家の本質が、凡て階級搾取にありとし、階級対立の解消と同時に国家もまた枯死すると考えることは、早計であり、観察が余りにも単純浅薄ではないか。国家の本質は搾取が全てではなく、支配統制がその本領である。支配統制機能は、人間の社会生活より発生した自然必然的支配機能であって、階級搾取に先行する人類社会の本能的自衛機関である。
経済的階級搾取が消滅すれば、人間の本性は突然変異的に、神の如く至粋至純な美わしい性格に変るであろうか、共産主義者が空想するような、自由の王国、社会主義の最高理想はそう簡単には来そうにない。勿論彼等は、資本主義社会から共産主義社会に到達する迄の過渡的段階において、半国家即ちプロレタリヤの独裁する国家権力を認めている。その独裁国家は、反対者の存在を聊かも許さない陰惨極まる警察国家である。人間は豚ではない。食いさえすれば、それで満足する動物でもない。人間は限りなき霊性の創造と自由を求めてやまない。人間のかかる霊性自由の欲求は、必然の結果として、機械的警察国家の支配者に反抗して起つであろう。かくして権力を有するプロレタリヤ独裁者の血の粛正は続いて行く。階級搾取消滅後の過渡的段階は、いわゆる半国家は、反革命弾圧の名に於て殆ど半永久的に存続すると見ねばならない。国家は経済的階級搾取を本質とするものではなく、原始的な人類の社会生活における支配統制機能の表現だからである。絶対主権を主張する民族国家の権力は、共産主義者のいう如く自然必然的に消滅枯死するものではなく、人類自らの自覚と不断の努力に依って、より高次の世界統一主権に止揚帰一せしむべきものである。
第三の疑問は、共産主義者の革命運動が成功して、全世界の資本主義国家が悉く、社会主義国家になった場合を仮定してみよう。
即ち、階級社会の撤廃と社会主義の勝利は、果して大地の上から、戦争と闘争とを永久に絶滅し得るであろうか。
資本主義的独占支配が戦争の起る唯一の原因なりと観るマルクス、レーニン主義の論理からすればその時以後、人類の社会には戦争と革命とは起らぬ筈である。
われわれは現実の世界を科学的に観察せねばならない。そもそもロシヤ革命が成功し、鉄の指導者ニコライ・レーニンが死去して後に、ロシヤ共産党は方法論において分裂した筈である。即ち一国社会主義を主張するスターリン一派と世界革命論を固執するトロツキー一派とがこれであり、激烈な闘争の結果前者は後者を打倒駆逐して現在のソヴエト連邦を育成したのである。
爾来スターリン政権は、資本主義世界各国の囲繞下において社会主義的建設を強行するために、マルキシズムの世界主義と相反するスラヴ民族主義を強調したのである。労働者に国籍なしとする共産党宣言の名文句は、事実において否定され、ソヴエトの労働者はスラヴ民族の一員として訓練され、社会主義的スラヴ民族国家の人民として祖国を持つに至ったのである。
スラヴ民族国家防衛のために、ソヴエトの労働者達は、幾度となく資本主義諸国家の労働者と戦って来たではないか。
独り資本主義国家の労働者とのみでなく、多年苦惨を倶にした革命の同志たるユーゴーのチトー政権に対してさえ、現にソヴエトの労働者達は攻撃を加え戦端を開かんとしているではないか。
今仮りに、毛沢東支配下の中共政権が、スラヴ民族主義に相反した政策を採ったとすれば、スターリン政権は直ちに革命の裏切者として、反逆者として中共政権を攻撃するであろう。
現在世界各国の共産党は、民主民族戦線の旗の下に幾多の同志を糾合しつつある。
民族戦線は共産党の一時的偽瞞であり、革命のための謀略であるとするも、民主民族戦線のスローガンを目指して集りつつある多くの党員の中には、マルクス、レーニン主義の正解者よりも、むしろ民族独立への熱情を持つ人々の方が多いのではないか。
かくして全世界に共産革命が起り、社会主義的民族国家が幾十となく成立したとしたらどうであろう。これら幾多の社会主義民族国家は、易々諾々として、ソヴエトのスラヴ民族主義に屈従するであろうか。私はしかく簡単には行かぬと思うのである。必ずや、これらの社会主義民族国家相互の間に対立と闘争は起るであろう。
階級社会の撤廃と社会主義の勝利は直ちに世界的戦争の終結に続くとする共産主義の戦争観は、非科学的なユートピアであり、余りにも単純簡単な機械的な人間観であり、国家観であり、戦争観であるといわねばならない。
果してしからばわれわれは、民族国家の自然的消滅枯死を待たずして連邦主義者の主張する如く、民族国家の絶対主権を剥奪し、より高次の超民族主義的、世界政府樹立の全人類的大運動を起すことが、戦争絶滅への絶対条件であることを肯定せざるを得ないのである。