宗教は芸術を生み、芸術はまた宗教を生む。芸術は人生の花である。人生に宗教および芸術なき時は、世の中は実に寂寥な、そして無味乾燥なものである。そして、変愛と信仰とは人生に欠くべからざる真実の果実である。
神仏やその他の宗教を信仰するというのも、要するに恋愛を拡大したものであって、宇宙の元霊たる独一真神を親愛するのを信仰といい、個人を愛するを恋愛という。ゆえに、恋愛と信仰とはその根底を同じうし、ただ大小の区別があるのみである。いずれの宗教も、社会人心の改良とか人類愛の実行とか、霊肉の救治とか、天国の楽園を地上に建設するとかいう趣旨の他に出づるものでない。ゆえに古往今来、いくたの宗教が現われても、人生に光明を与うるをもって目的とせないものはない。期する所は、同一の目的に向かって流れているものである。
あめあられ雪や氷と隔つれど解くればおなじ谷川の水
と古人が歌ったのは至言だと思う。いずれかの宗教を信じ、一つの信仰をもっている人は、どこともなく物優しく懐しみがあり、そして一種の光明に包まれているような感じがするものである。
それゆえ自分は、宗教の宣伝使をもって自認しているが、同じ宇宙唯一の大神霊に向かって、同じ神霊の愛に浴せんとする目的をもっている宗教である以上は、眼目点さえ同じければ、枝葉にわたる宗教的儀式や説き方などはつぎのつぎである。宗派および信仰を異にする人々と対立した場合の自分の心もちは、春の花見に行った時、一方には上戸がおって酒に浸り、「酒なくばなんのおのれがさくらかな」というて一日の歓楽をつくす人と、竹の皮の握り飯を開いて食つている人や、芸者などの手を引いて花の下で他愛なくたわむれている人があるように、いずれも目的は花見にあるのである。その人々の嗜好によって、千種万様の自由自在の歓楽をつくしているようなもので、その目的さえ一つであれば、別にいやな感じもせず、春風駘蕩として面をやわらかに吹くような感じがする。
また同じ共同風呂にはいって、温かなゆったりとした気分にひたり、一人は詩吟をやり、一人は浪花節をうなり、一人は浄瑠璃をかたり、一人は端唄をうたっている。いずれも同じ風呂のなかでありながら、思い思いのことをいっている。しかし人々の嗜好は変わっておっても、温かい風呂に浴し、身体の垢を落とし、爽快の気分をあじわう点においては一つである。また詩吟、浪花節、浄瑠璃、端唄などなにを聞いても、あまり気分の悪いものでない。そのときのような感じを自分はいつももっている。
宗教ももたず、信仰のない人に接したときは、たとえ自分の兄弟であろうが、親であろうが、妻であろうが、また、子であろうが、なんともいえぬ淋しみがあり、また自分との間に薄い幕が張られているような気分のするものである。
(「神の国」大正14年5月25日)