喜三郎は、搾乳の仕事のかたわら、俳句・和歌などの文芸をはじめ、絵画・書道にも趣味をもっていたから、その研鑽にもはげんだ。絵画はおもに墨絵だったらしいが、その時代の作品と思われるものが、いまもいくつか残っている。技法は、南陽寺の天井絵を描いた画家春嶺について習ったという説もあるが、その天井画の竜の筆法には、後年の聖師の筆法と類似している部分があるようである。また喜三郎の従兄の田村月樵(画家)に習ったとの説もあって、習いはじめの師匠については、さだかでない。書道については、師匠についたという記録がなく、自習にこれつとめたようである。
ある日喜三郎はひどく歯が痛んだので、当時この地方にかなり流行していた妙霊教会の船岡教会で祈願をしてもらったところ、歯の痛みがおさまった。神は存在するのかしないのか、次第に懐疑的になりかけていた喜三郎は、それを契機として妙霊教会の信者となった。叔父の佐野清六は、この教会の布教師をしていたので、叔父に誘われ、兵庫県春日江村の本部に参詣した。一二才の時にも叔父につれられて参詣したことがあり、本部へ行ったのは二度目であった。山内教祖や叔父の佐野清六から布教師になれとすすめられたが、教会の教導職のいずれをみても時代ばなれしているのをいやがってことわった。
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○喜三郎の習画(上)電車内風景─明治28年京都で日本最初の市街電車が開通した(下)人情の風刺画 p133