園部から穴太に帰った喜三郎は、獣医試験を受けるよう井上にしきりにすすめられ、農商務省の第一九回獣医学試験を京都府庁で受けた。受験生は五四人であったが、そのうち学術試験合格者は五人で、喜三郎は二番の成績で合格した。ところが、蹄鉄術を習っていなかったので、蹄鉄術の実地試験には及第できなかった。つぎに、京都府の巡査採用試験を受け、京都監獄署の看守の試験もつづけて受けた。両方とも合格通知がきたが、気がすすまず、病気届けをだしてことわってしまった。
このほかに、獣医を断念してからはじめたものに、園部での清涼飲料水ラムネの製造販売がある。製造技術は、獣医の書生時代に学んだ化学知識を応用してすぐ覚えこみ、二四才で園水社という会社をおこしたが、後年聖師は〝二百円出した機械を見たほされ、三十五円で人に売りたり〟と、この当時を回想している。算盤のうえでは利益がありながら、飲み倒しが多かったので、「働いて損するような事業なら、しない方がましだ」と考え、一夏で廃業してしまった。
喜三郎はまたマンガン鉱を探すため、南桑田郡と船井郡の山々をかけめぐった。村上信夫も一しょに行こうといい出したので、二人であたりの山々を探し歩いたが見当たらない。船岡にマンガン鉱がでると聞いて、当時、叔父佐野清六が主管していた船岡の妙霊教会でうらなってもらったところ、「マンガンがでる」との神示があった。二人はこれに元気づけられ、ふたたび山をかけめぐった。二人は、足をふみはずして谷底に落ちて怪我をしながらも、一攫千金を夢みていたが、ついに教会の神示もあたらず、失敗におわった。村上は「お前は狐がド狸か。年寄りのわしをだました」と怒ってしまった。マンガンの失敗談が村中にひろまり、一時は村人から「マンさん」「マンさん」と、あだ名され笑われたという。どんよくなまでの仕事への情熱は、その後もおとろえなかった。
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○妙霊教会本部(兵庫県春日江) p134