つぎには、喜三郎は船井郡桐の庄村垣内の上仲儀太郎の宅で搾乳販売業をいとなむ計画をたて、資本調達のため有志に説いてまわったところ、意外にはやく賛同者をうることができた。しかし、父母のすすめもあり、桐の庄の方は、上仲にまかせることにして、一八九六(明治二九)年一月一日、穴太の生家の近くに牛乳処理と牧畜をかねた精乳館を設立することになった。
この事業には、喜三郎のほか村上信太郎と上田正定(小幡神社宮司)の二人が参加し、三人の社員で規約を定め組織を整えた。資金は上田正定所有の田を担保として借りた。喜三郎は、牛を飼うことから搾乳・配達・経営などのほか、小作としてはたらくなど、ほとんど一手でやったので、実に多忙な毎日であった。
当時の牛乳の需要は虚弱な子供・成人・母乳不足の母親ぐらいで、その消費量はきわめて少量だった。価格は一合(〇・一八リットル)三銭で、当時の米八合(一四四リットル)に相当したというから、非常に高価なものであった。
農村での搾乳業が、当時においては、とびきり新しい事業であったことはいうまでもない。そのころの綾部でも、牛乳は病弱の旦那衆でさえ手に入らぬほどであったという。綾部における当時の状況をみると、医師から牛乳を飲んで栄養を摂れとすすめられた綾部の金持が、牛乳を求める方法がないので、乳の出る和牛を買い求めた。ところが、どういう風にして乳を搾るのかわからなくて、大変困ったという話がつたえられている。これは一八九一、二(明治二四、五)年ごろの話であるが、事実、綾部地方においてもまだ搾乳業はほとんどなかった。
一九〇二(明治三五)年一二月現在の何鹿郡の畜産統計によると、郡内の牛の頭数は内国産三二八五頭(うち牝一九八一頭、牡一三〇四頭)、外国種牝六頭で、以上のうち乳用一〇頭、耕作用三〇七八頭、運搬用一七六頭、その他三一となっている。この統計によれば、郡内の搾乳用牝牛は、わずか一〇頭にすぎず、この時期になっても搾乳業はほとんど普及していなかったことがわかる。
このような状況にあったので、時代に先んじた喜三郎の搾乳事業は、成功をおさめた。最初はごく少なかった牛乳の需要者も、だんだんと増加し、精乳館は一時繁昌した。こうして、喜三郎も、どうにか一身をさせうる糸口をつかむことができた。
青年期の喜三郎は、恋愛も体験し、ときには失恋もしたが、二五才のころ、斎藤家から懇望されて養子となり、その一人娘と結婚した。この婿入りは、ちょうど百日で離縁となり生家に帰った。このころは浄瑠璃に熱中し、長唄・端歌・おどり等のけいこをして、お茶屋にかよい芸者あそびもした。その後ふとした機会から、地もとの侠客の娘と内縁関係をもったが、いくばくもなく別れた。こういうなかでも牧畜・搾乳・販売の日常の仕事は一日も欠かさなかった。恋に生き、仕事に生きる青年喜三郎の日々は、きわめて多様であり、波瀾にみちみちていた。
〔写真〕
○精乳館経営のころの喜三郎 p136
○精乳館(穴太宮垣内第20番地)勘定帖の一部 p137
○左より村上信太郎、2人おいて上田正定 p137