おおがかりな家宅捜査と、王仁三郎ら幹部の検挙は、大本教団にとっては、やはり痛手であった。しかし、捜査が一段落した後における本部は、驚くべき平静さにもどり、いささかな動揺もおこらなかった。それは、大正七年旧一二月二二日の神諭において、すでに
大正八年の節分が過ぎたら、変性女子を神が御用に連れ参るから、微躯ともせずに平常の通り、大本の中の御用を役員は勤めて居りて下されよ。今迄は誠の役員が揃はなんだから、女子の御用を命す所へは行かなんだので、神界の経綸の御用が後れて居りたなれど……弥々女子の身魂を経綸の場所へ連れ参るぞよ。女子の誠実地の御用は是からが初まりであるぞよ。何時まで神が経綸の所へ連れ行きても、跡には禁闕要の大神、木花咲耶姫命、彦火々出見命の身魂が守護遊ばすから、暫らくの間位は、別条はないから安心致して留守を為てをりて下されよ。一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ御用に立てるは、変性女子の身魂の御用であるぞよ。
と予告されていたし、さらに具体的には「三年さきになりたら余程気を附けて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は、変性女子に取りては、後にも前にもないやうな変りた事が出来て来るから、前に気を付けて置くぞよ」(大正7・12・22)という神諭が、大正八年の一月号に幹部や信者にたいして発表されていたからである。また、辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」(大正8・1・27)という神諭もだされていた。変性女子とは王仁三郎のことで、「辛の酉の年」は大正一〇年にあたっている。事件の検挙は、神諭に示してあった辛の酉の紀元節の翌日であった。したがって教団本部も信者も、すべてこれは予言が適中したものであって、「変性女子を神が御用に連れ参る」ことは、「神界の経綸のご用」であるとして、むしろ仕組がいっそう進展したことにほかならないと解釈したのである。
開祖の神諭には、つぎのようにものべられていた。
艮の金神の教が拡まるだけ、世界は騒ぎ出すぞよ。何も訳も知らずに方々の新聞が悪く申して、体主霊従の行り方で邪魔を致すやうに成るから、其覚悟で胴を据へて居らんと、一寸の事に心配いたすと云ふ様な人民で在りたら、肝心のご用がつとめ上らんから、此の大本は世間から悪く言はれて、後で良くなる神界の経綸であるぞよ(明治33・旧1・7)
「恐く言はれて良くなる経綸」という神諭の言葉は、かなり早くから知られていたので、事件がおきると、「いよいよそのときがきた」と信者にはうけとられたのである。だから事件直後にあっても、教団の活動は事件前と大差なく継続された。
一九二一(大正一〇)年の一月には、一万部以上発刊されていた「神霊界」は、さすがに一時は六〇〇〇余部に減少こそしたが、従来とかわりなく発行はつづけられた。みろく殿の修業者の数も、常時五、六〇人から一〇〇人におよび、朝夕のみろく殿での礼拝は二〇〇人内外の信者によっておこなわれている。事件がおきた翌月の三月二一日の春季大祭は、王仁三郎が収監中であったにもかかわらず、二〇〇〇人以上の参拝者があって、例年のようににぎわった。また五月一五日の弥仙山参拝・六月一三日の沓島・冠島参拝なども例年のごとくおこなわれ、大本事件関係の新聞記事掲載差止めが解除された直後であったにもかかわらず、二、三〇〇〇人の参拝者であった。
さらに、大正八年以来着手されていた本宮山神殿造営工事は、依然としてすすめられていたし、出版局印刷部では、社屋の増改築をおこない、八頁刷りの印刷機四台のほかに、一六頁刷り印刷機二台を増設し、紙型や活字の鋳造設備を有するようになった。また四月には、信者の努力によって「北国夕刊新聞」が金沢で創刊されている。このように事件後かえって、教団内部には、充実した部分すらあった。
三月一五日から京都地方裁判所の予審廷に、役員・信者五〇余人、その他二〇余人が参考人・証人として出頭を命じられ、事件の中心が、神諭の解釈とくに伏字の箇所にむけられていることが推測されるようになったために、修斎会副会長小牧斧助を中心に役員があつまり、きたるべき公判にそなえて対策がねられていた。役員らは刑事の尾行がつき、強力な監視のもとで行動せざるをえなかったが、役員の人々はそれに屈しなかった。
「神霊界」は三月号以降、明治三〇年ごろからの筆先を抜粋して、事件にたいする信者のこころがまえにふさわしいものを連載し、「筆先の裏まで眼を徹す様でないと中々判りは致さんぞよ。世界の大峠が来るまでに、この大本に大峠があるぞよ。大本の事は神界の仕組であるから、世界中へ写るぞよ。世界の事は又大本へ写るなり……」と、まず大本に大峠があることの神諭を発表して、それとなく信者に注意をあたえた。そして、大本の第一線として活動していた「大正日日新聞」も、従前どおり、大本の主張をまげることなく、事件の真相を訴える準備をすすめて、事件による動揺のすがたはここにもみられなかった。
一方、京都では収監されている王仁三郎が、羽二重の紋付羽織をきて、深編笠に顔をつつみ、予審廷へ出廷する姿を、一目でもみんものと、二条城の堀のあたりに信者があつまり、黙礼するものや、差し入れする熱心な信者が毎日のようにあった。
〔写真〕
○三五明月 第一次大本事件直後の王仁三郎の揮毫 p578
○弥仙山参拝(中央右)二代すみ子(左)三代直日 p579
○創刊時の北国夕刊新聞社 金沢市 p580
○京都・二条城の北堀のあたり p581