新聞の誇大な事実無根の報道を、真実と信じた一般社会は、信者にたいしても非難と迫害をくわえた。なかでももっとも苦しい立場においこまれたのは軍人の信者であった。
当時全国に散在する軍人信者は約五〇〇人に及ぶと当局は推定していた。そこで憲兵隊では、はやくも第二回警告の直前(大正九年七月)に、全国の軍人信者の調査を開始し、一〇月にはそのリストの作製をおわっていたが、事件が発生すると、ことが不敬問題であるだけに厳重な監査をはじめた。大正一〇年の五月一三日には、福知山憲兵隊が調査にのりだし、それと前後して、大阪憲兵隊が活動しだしたために、「不敬罪の判決が下れば軍人信者は相当の処分される」(「大阪朝日」大正10・5・15)という報道がおこなわれた。
軍人信者で、教団本部の役職についていたものには、将校では浅野正恭(中将)をはじめ、板橋(少将)・小牧(大佐)・石井(大佐)・東島(大佐)・羽藤(大佐)・矢野(大佐)・池中(中佐)・馬場(中佐)・外山(少佐)・篠原(大尉)・江上(大尉)などがあり、下士官クラスにもかなり多数あった。大阪の騎兵四連隊長川崎中佐が、大本信者であるという理由から待命になったのをてはじめとして、現役の軍人信者にはきびしい迫害がくわえられだした。長崎憲兵司令官が突然大阪に出張してきたと同時に、陸・海軍大臣は「不敬思想を持つ大本信者は軍隊内から一掃する」と声明し、各師団・各艦船の長官に厳重な示達をだした。京都憲兵隊長中村中佐は談話の形式で、「……この判決が不敬罪といふことになった時は、是等軍人も処分されることになるだらう」と新聞に発表した。ついで、「陸海軍当局も当初の声明通り、軍人の信者に対し相当の処置をとるべく目下調査中」(「大阪朝日」)などと新聞記事にもおおきくとりあつかわれている。それらが軍人信者にあたえた心理的影響と苦痛は想像にかたくない。第一回からの公判には、京都憲兵隊長が特別傍聴席について熱心にメモをとっており、そのことが、陸軍大臣の命を帯びて、大本公判の傍聴」と特別の見出しをつけて新聞に報道されたほどであって、軍人信者にたいする対策措置がおおいに重視されていたのである。じっさいに、軍人信者のなかには厳重なとりしらべをうけたものがあり、訓戒や異動させられた人々もあった。それは現役にのみとどまらないで、在郷軍人にまで波及している。その結果役職からおわれ、除籍されたものすらある。
つぎに官公吏の場合はどうであったか。官公吏であった信者の数は不明であるが、彼らのなかにも軍人と同じように、退職や左遷させられたものがあり、逆にいたたまらずしてみずから職をしりぞいたものも相当にあった。東京の確信会長であった長屋修吉(鉄道省技師)は、「不敬事件である以上、我々官職に在るものは、何等かの方法によって謹慎の意を表さねばならぬ。自分としては取敢へず、確信会長辞任の申出を為したが、何れ上官より糺される事と思ふ。……若し此の信仰に就て、彼是圧迫的な態度に出づるやうなれば、潔よく官職を辞する」(「東京日日新聞」)とのべているが、この言葉はおおくの信者の官公吏に共通する覚悟でもあった。
一般の信者についてはどうであったか。大本七十年史編纂にあたって、当時の迫害をうけた現存せる人々にアンケー卜をもとめたが、その回答一五一通についてみると、親族や隣人からの迫害がもっともおおく、一五一人中約半数がその当時の苦痛を記している。しかもこれは全国的な状況であって、異端者や狂人あつかいされ、敬遠され、邪教徒とののしられた。その内訳をみると(1)信仰の中止または転向を強要されたもの、(2)絶交や勘当されたもの、(3)いたたまらず家出をしたもの、(4)村八分にされ、商品の取引をたたれ、転宅をよぎなくされたもの、(5)家主より立退きを強制されたものなどが多数をしめる。とくに北陸や愛知などのように仏教の浸透している地方では、親族や隣人からの迫害と、警察および寺院からの圧迫がはげしかった。
信者の子弟が迫害された例は、千葉・愛知・福井・京都・鳥取・岡山・山口各県などにおいてとくにめだっており、教師や生徒から邪教の子としてののしられ、侮辱をくわえられ、投石されたり、児童仲間からのけものにされていたものも相当ある。そのために登校することに危険を感じたり、侮辱にたえかねて休校したり、転校したものもでている。
警察の干渉圧迫については、すべての回答が共通に記入している。しかも北海道・宮城・山形・茨城・静岡・愛知・富山・福井・京都・大阪・兵庫・和歌山・鳥取・島根・広島・福岡・大分の各府県の場合がはげしかった。家宅捜査をうけ文献を押収されたり、なんども刑事に訪問されたり、尾行の信者や看視をうけたり、直接転向を強要されたりしている。なかには、くりかえし執助に家族にまでいやがらせをするために、家庭内のいざこざがおき、またそれらによって縁談がこわれたり、就職ができなくなった例など、その精神的な苦痛ははなはだしかった。当時の信者室田が、「当局ガ迫害スル模様ヲ書キ遺シテ置ク」として日記に記述しているところをみても、特高が信者の宅にきて、「王仁三郎・浅野の入獄をどう思ふか」などと、ひとつひとつ尋問していることがわかる。その尋問にたいして、この信者は、「何トモ思ヒマセヌ、人間的ニハ御気毒デハアリマスガ、御神諭ニハ明治卅四年ト大正八年ノ二回モ、其事アルヲ示サレテ有リマス」と堂々と応対している。たしかにおおくの地方信者も、前述の室田の日記にみられるように、この事件は「神示による経綸」・「予言の適中」・「立替え立直しの雛型が本部より始まった」・「法難で政府の誤解」などとうけとめて、いずれ大本の正しさが明らかになるものと確信し、信仰を持続していったのである。
〔写真〕
○軍人信者への迫害はきびしかった p612
○大本七十年史編纂会によせられた第一次大本事件に関するアンケート p613
○地方信者への迫害 信者の日記 p614