大本事件についての記事が解禁となって、各新聞が報道した記事は、前にもふれたようにほとんど友清のいう大本攻撃や、中村古峡の『大本教の解剖』、さらに加藤確治の「大本教の真相」などを面白くかきなおしたものであった。「戦燥すべき大陰謀を企てた大本教は奇怪な正体を暴露した」とか、「命懸で地下の秘密室を探る、動かぬ黒い影は死人か? 咄怪物!」(大阪朝日)とかという論調や、竹槍十万本の陰謀団」、「十人生き埋めの秘密あばかれる」、「伏魔殿の正体暴露」などという一連の報道も、不敬事件の核心にはふれておらず、怪奇にみちみちた捏造の記事でうずめていた。それらの記事の根拠は、当局が家宅捜査にあたって、武器の有無をしらべたり、錦の御旗や爆弾のあり場所をさがしたり、あるいは、生き埋め説の黄金閣の下を狂気じみて捜査したことからうまれたものであった。しかもそれらは当局が事前調査にあたって、確証をにぎりえなかったものであり、調査後も証拠のないものばかりであった。したがって、治安をみだし、内乱の準備行為を企図したということが、みこみちがいとなった当局は、その威信を維持するために、あくまで大本を不逞怪奇な集団と印象づけるために、あらゆる圧迫の手段を劃策することが、より必要であったのである。そのことは、当時大本を批判した論陣の内部にもはしなくも見出される。文学博士姉崎正治は、「亡国と神政を確信する危険性」と題して、「……果して大本教に是程の予備行為があるか否か、私は速かに断ずる訳にはゆかぬ。要するに大本教に類似したものは幾らも存在しているが、大体から云へば世間でも少し大袈裟に騒ぎ立てた傾向はなからうか。併し今度幹部が投獄されても、信者の中に綾部が神聖地であることを承認している連中は、恐らく斯うなることも神意に依るものとして存外平気で信仰を棄てぬかも知れない」(「大阪朝日」大正10・5・14)とのべ、文学博士藤井健治郎も、「昨今の新聞紙は大本教に関する種々の事実を報道しているけれど、検挙の原因が不敬の文字を機関誌に記載したといふこと以外は一向漠として分らない。……多くの日本刀を集めていたとか、金貨を数万円貯蔵していたとかいふことは、果して内乱の準備行為であるか否か確実に判断しにくい。司法当局の談として彼等は共産主義を喧伝するもので、由々しき大事件であるといふやうであったが、宗教と共産主義といふことは、単り大本教にのみあるものでなく、世界の宗教中、ある時期、ある時代に、共産主義といふものでないにしても、共産的生活を唱導したり、実行したりしているものは尠からずある。……共産的生活をすることが悪ければ、『新らしい村』の人々にも制裁を加ふる必要があることになりはしないか。……ヨーロッパに於ては国家と教会とは其主権問題に関し、常に意見の一致していたものでなく、ある時は一致し、他の場合には衝突が起り紛争したことがある。大本教が日本国家に対して如何なる態度を取っているか……国家の存在を脅威しているやうに見えているが……報道が漫然として判然しない。……故に大本教なるものは凡ての点に疑問であるといふより他に言葉はない。……藤沼部長の談として、双葉の中に刈り取ったとあるが、果して大本教が双葉にして刈取られるか否やは事実の問題で、愈蓋を取って見ねば分らぬ。多くの宗教が踏んできた跡を見ると、迫害を受くる毎に信者の信念は益々固くなる。大本教の将来も亦それ等と似た道を歩まないとも限らぬ」(「大阪朝日」)とかたっている。
けれどもすべてがそうであったのではない。たとえば、高野山大学教授であった長谷部隆諦は、「大本教は勿論宗教で無い。その教と実修の根底が催眠術の一流に立脚しているといはるる限り、それは人格を無視し、個性を没却した人工的探み合ひの混濁思想である。絶対人格教であろ仏教から考へると、頗る危険なる思想と実行を伴ふべき恐れさがあると同時に、正当にいふ組織になって居らぬ。……事荷くも不敬問題に渉るならば、大本の将来の運命は確かに一大悲惨事たるに相違ない」。と記し、文学博士榊亮三郎は、「皇室中心主義を標傍して、却って不敬の言動を敢てし、宗教の美名の下に国家の憲章に牴牾することをしたといふに至つては、近来稀に見る社会現象の一である。……その長髪から連想したからでもあらうが、一時清朝の根基を顛覆せしめんとした長髪賊のことや、哥老会のこと、さては大明律や大清会典などで厳禁している光明教、白雲教乃至白蓮教や弥勒教などに想到して、ひそかに日本としては珍らしい教団であるといふ感じが湧起して来た。……何とか取調べておかないと、将来は蔓延して手もつけられぬやうになりはせぬかと思ふたこともあったが……果せるかな……」という。文学博士内藤湖南は、「思想上の病的傾向はいつの世にも在る……大本教の如き迷信の出現するのは別に不思議ではない。……今日大本教が出現するのは、矢張り日本の社会も支那の如く老衰の傾向を呈して、思想が著しく病的になってきたことを示している」と世の衰退をなげき、文学博士松本文三郎は、「人には総て迷信に囚はれる弱点がある。……大本教の如きも亦人間の弱点を巧く捉まへたものではあるまいか」と説き、文学博士野上俊夫は、「大本教が本当に荒唐無稽の迷信を説き、それが広く人心を迷はすことのできたのは、一方に迷信を求むる民衆の心理状態に投じたためであらう……」(「大阪朝日」)と批判している。
ところが阿部次郎の場合は注意をうながすものがある。すなわち彼は『北郊雑記』のなかで、「大本教も遂に馬脚を露してしまったやうに見える……予審調書の一部と称するものが発表されたのを見ると、正にこの致命的な欠点が証明されたやうに思はれる。王仁三郎が所謂『大化物』としての、この口述を再び覆すときがきたら格別だが、今日のところ大本教は彼の陳述によって、すっかり根底から覆されてしまった……」と批判したが、「大正日日新聞」でそれらを反駁されると、「世間の噂は当てにならない。新聞の記事には随分嘘が多い。単に誤聞からくる嘘だけでなくて、たちの悪い新聞になると故意に捏造する記事さへあると見えて……」と新聞のデタラメ記事を信じたことを反省し、「……前に大本教について言ったことに過ちがあったことが、大正日日新聞で明かにされた。……兎も角誤解であったことを悟った以上、その点を訂正して謝意を致すことは私の義務でなければならない」として、率直に誤解していた点を弁明した。当局の弾圧や、マスコミの攻撃を無定見にうけとめた人々と、そうでない人々の間に、当時の真相がいったいどとにあるかを、興味ぶかくよみとることができるのである。
大正一〇年の七月、大阪で発行された雑誌「新天地」は、「大本教及び大本事件批判」号として、各界の有識者に、一、大本教を如何に観らるるや、二、大本教事件が国民に与へし影響、三、大本教の将来などについてのアンケートをもとめている。その回答をみると、ますますそのことがあきらかとなる。井上哲次郎博士は、「一、大本教は邪教なり。二、大本教の国民に与へし影響は悪影響のみ。三、大本教は次第に衰微すべし。又衰微せしめざるべからず」といっているが、そのように大本を邪教視したるものが約三分の一。尾崎行雄や神戸正雄博士ら十数人は、「大本教を十分正確に承知せざるにより質問には答えいたしかね候」と中立的態度をとって回答をさけているが、大阪市民館長志賀品人の意見は、「一、現在の日本には、在りさうな教で、在って差支ないものであります。殊にその出方の大きいのに感心しています。二、何の影響もないと思ひます。もしあの様な事が一々国民精神に影響する様であったら、日本の国民精神はもっと悪くか、良くなっているはずです。三、真底から予言の自覚を有った人々は皆あんな目にあひました。予言者はすべて未来に生きました。大本教の予言者達が、自己を偽っていなかったら、大丈夫でせう」のように、類似の回答をなしたものが比較的におおいことが注目される。右丸梧平は、「……凡て古来の新宗教が受ける運命は型通り受けているといふだけで、新宗教にとっては一度は是非通らなければならぬ関所でせう。キリスト然り、日蓮然り、法然又然りです。国民に対して、どんな影響を与へたかといふと、それは新聞の記事が、あまりおもしろさうに書いたから、一般の読者はおもしろいものだなと思ったのでせう。随って大本教が減びることはありますまい」と記しているのもそのたぐいである。
こうした批判と同情のなかで、外字新聞「ジャパン・クロニクル」(大正10・5・22)の論調は特異なものがある。外人の眼に映じた大本事件のうけとめ方についても参考になるばかりでなく、かえって、客観的であるのが皮肉である。すなわち「ジャパン・クロニクル」は「政府と大本教」と題する社説において、つぎのような独自の批判をくわえている。その要旨は、
大本の唱導者らが、猶太神政の場合と同じく、一種の神政観念を築き上げるに当って、余りに不当の崇高さを神職に与ふるに至ったと説明してよい。決定書引用中『現界の事物は、何れも神界が主で原動力云々、皆皇道大本の認可を受けて始めて地球上に存在を許さるるのが正式なのであります云々』と主張しているのが、天皇統治権を無視せるものと解釈されているが、これは凡ての神政論に共通する神職に重きを置く傾向あることを指示したものである。此の傾向は猶太教に於けると等しく基督教の歴史に於ても明瞭であって、主権が神職の下に置かるは両者共に同一である。ただ帝王が両者を兼ねる時に於てのみ、両者の一致を見る所である。大本教はその基調を十八世紀の神道主唱者の要求に置いているが、凡ての神政主義に於けるが如く、神職の崇高を計るの念が余りに強きに過ぎて、却って論理的堅実さを欠いたと思惟される。……大本教が当局の忌憚に触れたのは、同教の神諭に繰り返し日本上流社会を厳責したのに由る。例へば教祖の神諭中『今の世界の上に立つ人は、一つも誠の善のことは致して居らんぞよ』と宣言し、『是からは何事も上から露見れて来るぞよ』と予言し、『今の世界の落ちている人民は高い処に土持ばかり致して、年が年中苦しみているなり、上に立ちている人は悪の守護であるから、気まま放題好きすっぽう、強い者勝ちの世の中でありたなれど、見てござれよ、是から従来の行方を根本から改正さして了ふて、刷新の世の治方に致すから、今まで上に立ちて居りた人は大分辛ふなりてくる云々』とある。これが所謂危険思想で、その信徒に『世界は今や四つ足の守護である』その四つ足共は間もなく辛い目に会ふのだと教ふる宗教は、取りも直さず当局者の頭に経愕の念を与へたのも無理からぬことである。併し此等の言は余りに正漠として迫害を加ふる材料にならざるが故に、不敬罪としての行動をとるを便利としたものではあるまいか」というものであった。
〔写真〕
○記事掲載禁止の通達文 p603
○記事解禁 号外と本紙第一面は大本事件の報道記事 怪奇と捏造でぬりつぶされていた p604-p605
○知識階層の大本批判 p606
○雑誌新天地に掲載された大本幹部および知識人の事件観 p609