五月一日の午前九時、予審の終結と同時に、大本事件の記事掲載の禁がとかれた。そこで全国の各新聞は、四頁ないし二頁大の号外を発行して、大本は表面皇室中心主義標傍しているが、その正体は、国家転覆の意図をいだいた団体であり、内乱を準備し、反逆と僭上の大陰謀団であるという記事をかきたてた。ついで翌月の一一日午前八時には、京都地方裁判所が「予審決定」の全文を発表した。こうして大本教団は悪罵の渦中にまきこまれてゆくのである。
予審の決定内容は、およそ左のとおりである。
主文
本件ヲ京都地方裁判所ノ公判ニ附ス
理由
被告王仁三郎和三郎ハ京都府何鹿郡綾部町出口直(天保七年生大正七年十一月死亡)ヲ開祖トセル皇道大本ノ首脳者ニシテ直ハ明治二十五年以来神懸ナリ卜称シ平仮名ヲ用ヒテ神人ノ関係霊主体従主義(排物質主義)ノ警告教訓及予言ヲ内容卜セル多数ノ筆先(大本神諭卜称ス)ヲ作成シ艮ノ金神其他ノ神ヲ祭祀シ居タル処王仁三郎ハ明治三十二年直ノ末女すみノ婿養子ト為リ爾来多少ノ変遷アリタルモ直ノ筆先及自己ノ修得セル霊学ヲ骨子トシ大本言霊学(杉庵志道著水穂伝七十一号証ト同一内容)及大石凝真素美ノ言霊学ニ依リ解釈セル古事記ノ趣旨ヲ加味シテ教義ヲ組織シ之ヲ皇道大本ト名付ケ然シテ其ノ教義ハ直ニ憑依セル艮ノ金神国常立尊ノ神勅ニ依リ政治宗教実業其他人生ノ経綸一切ヲ実行セントスルニ在リテ治教ノ一種ナリト称シ幽顕両界ニ立替立直ヲシ将来我
天皇ノ治下ニ世界ヲ統一シ綾部ニ帝都ヲ遷シ出口家ガ祭祀長トナリテ神勅ヲ受ケ之ヲ
天皇ニ奏上シ
天皇ハ之ニ依リ政務ヲ親裁セラルベキ趣旨ノ祭政一致「ミロク」ノ世ノ出現スベキモノナルコトヲ説キ神風純愛教ノ信条ヲ模倣シテ大本信条ヲ作成シ信者吸集ノ手段トシテ水谷清著大日本神典釈義、雑誌国華教育、異風教育其他教義ニ関スル記事ヲ恰モ自己ノ著作セルモノノ如ク装ヒ大本宣伝ノ機関雑誌等ニ発表シテ大本ノ教義ノ深遠ナルコトヲ誇称シ且信者ヲシテ自己ヲ崇敬セシメンガ為メ自己ヲ「キリスト」ノ再現「ミロク」ノ出現ナリ卜鼓吹シテ右教義ノ宣伝ニ努メ居タル折柄被告和三郎ハ直ノ筆先及右教義ニ対シ大イニ共鳴シ海軍機関学校ノ職ヲ辞シ大正五年十二月綾部ニ移住シ爾后王仁三郎ト共ニ皇道大本ノ首脳者トナリテ口ニ筆ニ最モ熱烈ニ之ガ宣伝ヲ為シタル結果従来微少ナリシ信者ノ集団ハ俄ニ信者ヲ徴増シ一大集団ヲ形成スルニ至レリ而シテ被告王仁三郎、和三郎ハ其ノ主義宣伝ノ機関トシテ綾部町ニ於テ大正六年一月ヨリ新聞紙法ニ依リ定期発刊ノ神霊界ト題スル雑誌ヲ発行シ之ニ主トシテ大本神諭(直ノ筆先及王仁三郎ノ神諭)ヲ掲載センコ卜ヲ諜リ王仁三郎ハ大正六年一月ヨリ同年十二月迄其ノ発行編輯兼印刷人ト為リ尚同人ハ其後大正十年二月迄和三郎ハ大正六年一月ヨリ大正九年八月頃迄各編輯人以外ニ於テ同雑誌の実際ノ編輯ヲ担当シタル処被告王仁三郎、和三郎ハ表面皇室中心主義ヲ標榜シ乍ラ直ニ憑依セル神ノ威厳及右教義ノ崇高ナルコトヲ誇示宣伝セントスル目的ヲ以テ
両陛下ニ対スル不敬ノ記事ヲ神霊界ニ掲載センコトヲ共謀シテ犯意ヲ継続シ
一、大正六年十月一日発行神霊界第五十二号十九、二十頁ニ明治三十一年十一月三十日附神諭トシテ上カラ云々現代ノ大将迄モ云々ナル
天皇陛下ノ御行動ヲ妄評セル記事
二、大正七年三月一日発行同雑誌第五十七号二、三頁ニ大正六年旧十一月二十三日附神諭トシテ大将マデガ云々ナル
天皇陛下ノ御威徳ヲ干犯セル趣旨ノ記事
三、大正七年三月十五日発行同雑誌第五十八号六頁ニ大正六年十一月二十三日附ノ神諭トシテ日本ノ○ニ解リテ居ルカ云々ナル
天皇陛下ノ御威徳ヲ冒涜セル記事
四、大正七年五月一日発行同雑誌第六十一号十、十一頁ニ浅野和邇三郎(被告和三郎ノ別名)ト署名シ「地ノ高天原」ナル題下ニ現世界ノ事物ハ何レモ神界ガ主デ原動力デ云々皆皇道大本ノ認可ヲ受ケテ始メテ地球上ニ存在ヲ許サルルノガ正式ナノデアリマス云々ナル
天皇陛下ノ統治権ヲ無視セル趣旨ノ記事
五、同年十二月一日発行同雑誌第七十五号八、九頁ニ明治四十三年十一月一日旧九月二十八日附ノ神諭トシテ元ノ国常立尊ノ御魂ト稚日女君命ノ二ツノ身魂ガ一ツニ成リテ出口ノ神トナリ地ノ世界ノ大神ト現ハレルノデアルゾヨ神ニモ人民ニモ知リタ事デナイゾヨモウ天ト地ト揃フタカラ是カラ斯世ヲ自由ニ致スト申シテ口デ言ハシテ在ルコトモ手デ書シテアルコトモ皆出テ来ルカラ違フヤウナ気遣ヒハナイゾヨ出口ハ世ノ元尊イ云々ナル
天皇陛下ノ統治権ヲ無視セル趣旨ノ記事(第四号証ノ六神字記入ノ原稿同日附ノ筆先参照)
六、同号雑誌十頁ニ神諭トシテ日本ノ結構ナ○○○云々今ノ世ノ持方ハ薩張リ畜類ノ行リ方デアルカラ云々ナル
天皇陛下ノ御威徳ヲ冒涜セル記事(第四号証ノ六神字記入ノ原稿参照)
七、大正八年一月一日発行同雑誌第七十七号十五、十六頁ニ大正七年十二月二十四日陰暦十一月二十二日附神諭トシテ大出口ノ神現レテ天カラ斯世ヲ見渡セバ何処モ同シ秋ノ夕暮霜先ノ烈シキ状態口デ言フ様ナ事デナイゾヨ○○○今ノ○○○云々ナル
両陛下ノ御行動ヲ妄評セル記事(第四号証ノ七神字記入ノ原稿参照)
八、大正八年八月一日発行同雑誌第九十一号十頁ニ大正六年旧閏二月二十二日ノ神諭トシテ日本ノ国ハ日本ノ行リ方デ行カネバナラヌノニ云々ナル
天皇陛下ノ御行動ヲ妄評セル記事ヲ掲載シテ
両陛下ノ御尊厳ヲ甚シク冒涜シ不敬ノ行為ヲ為シタルモノニシテ和三郎ハ右四ノ記事王仁三郎ハ其他ノ記事ノ原稿ヲ作成シ王仁三郎ハ右一乃至三、五、六、八ノ原稿ヲ作成スルニ当リ直ノ平仮名ニテ記載セル筆先ニ本ヅキソノ意味ヲ了解シ易カラシムル為メ重複セル記事ヲ省略シ其ノ趣旨ヲ取リテ漢字交リノ文章ヲ編綴シタルモノナリ
被告祐定ハ大正七年一月一日ヨリ大正十年二月迄右神霊界ノ編輯兼発行兼印刷人ニシテ犯意ヲ継続シ前記一乃至八ノ事実ノ如ク
両陛下ノ御尊厳ヲ冒涜セル記事ヲ神霊界ニ掲載シタルモノナリ
前掲事実ハ其ノ証憑十分ニシテ被告王仁三郎、和三郎ノ行為ハ各刑法第七十四条第一項新聞紙法第四十二条第九項刑法第五十四条第一項前段第十条第五十五条ニ該当シ被告祐定ノ行為ハ新聞紙法第四十二条刑法第五十五条ニ該当スル犯罪ナリト思料ス仍テ刑事訴訟法第百六十七条第一項ニ則リ主文ノ如ク決定ス
大正十年五月十日 京都地方裁判所予審判事 加藤健一
このように予審の決定は、第一に大本教義が模倣か剽窃であると断定し、第二に神諭中の「大将」とか○○の箇所を皇室の尊厳を冒涜するものと解釈して、八項目の不敬事実をあげ、公判に附するものとするのである。
その全文を引用することは、いたずらに引用がながくなるので、とくに不敬とみなされた部分を付記しておこう。たとえば、第一項の「上カラ云々現代ノ大将迄モ云々」というのは
世界の大洗濯が初まると、上ミが一旦は破れるし、下モも砕げて了ふぞよ。上から汚れて来て居るから、下の制統は出来は致さんぞよ。斯う成る事は前の世から能く判りて居る、元からの活神で無いと、三千世界の世を持つのは、自己よしの行り方では斯世は持てんぞよ。上への大将を致すものが、自分から好くして置いて、人を後廻しといふ如うな精神で在りたら、斯世が治まると云ふ事は何時になりても無いぞよ。下夕方を上に立ちて居るものが愛護て遣らねば、斯世に苦舌は絶えは致さんぞよ。是迄の世は強いもの勝と申すのは、我好かれの行り方で在りたから、世界が如此困難な事が出て来たので在るぞよ。上の一番大将が悪いので無い、一の番頭の政事が悪き故であるぞよ。……。
外国の教が善いと申して、現代の大将までも洋服を着て、沓を履く如うな時節に成りて了ふて、上下は全然破れて、間に合はん事になりて居りたなれど、矢張り日本は上下が揃はんと口舌が絶えんから……
という「強いもの勝」の社会を批判する神諭の傍点の箇所が、天皇の行動を妄評するものと解されたのである。
また、第七項の「……○○○今ノ○○○云々」というのは、「……○○○の行状を見れば、奥山の谷の奥深き人民の能ふ行かぬ所で、四ツ足と一つに成りてジヤレテ居りて、国が立うが立つまいが、チットも念頭に無いと云ふ様な事で、ドウして此の神国は治まりて行くと思ふか、神は残念なぞよ」とつづくものであるが、この欠字の部分が天皇を意味するとみなされたのであった。
残りの被疑事実も大同小異である。注意すべきは、この決定では検挙の最大の理由と考えられるところの、立替え立直しの主張が、国家の安寧秩序をみだすおそれがあるという点には、まったくふれられていないことである。そして被疑事実が不敬罪にのみしぼられ、しかも神諭中の片言隻句をもって、それが不敬にあたると断じていることである。
不敬罪のみを問題にしているのは、それが大本を社会的に糾弾するのには、もっとも好都合な罪名であり、また治安の妨害をとりしまるために当時、適当な法令がまだ用意されていなかったことにもとづくが、それにしても右に引用した部分にかぎってみても、決定のように、「上から」や「大将」が、天皇を指していると解釈されるのには相当に無理があった。たとえば、「上から汚れて来て居るから下の制統は……」などのように、上と下が対句になっている文章を、全体として支配者と被支配者と考えることはできるにしても、「上から」だけを抽出して、それを天皇と解釈する根拠はない。またかりに「大将」が天皇を意味するとしても、同一の神諭で、「上の一番大将が悪いので無い、一の番頭の政事が悪き故である」と、明らかに大将の責任を否定している部分を無視して、この神諭が天皇を妄評していると断定することには問題が残されている。
それでは予審の決定が、大本教義を剽窃と断じ、神諭の特定の部分を不敬と解釈した根拠はどこにあったか。その根拠は予審廷におけるとりしらべの結果に求められていた。大本教義が剽窃であるといって、最初に攻撃をこころみたのは友清九吾であったが、この主張は中村古峡の『大本教批判』に採録されて、事件前からかなり流布されていた。当局は、三月一一日に友清を召喚して、彼の主張を聴取したが、名古屋へ捜査の手をのばしたのも、その裏づけのためであった。しかしこの問題は、大本の社会的信用を下落させるのにはひとつの効果をあげるものではあったにしても、その事実はなかったから、起訴の材料にはなりえなかった。したがってとりしらべの核心は、王仁三郎らの不敬と解される言動と、神諭の解釈にのみしぼられた。
第四項にあげられている「地の高天原」の、「現世界の事物は何れも神界が主で原動であります。ですから一官省は無論の事、政府でも、○○でも国家でも、神界の認許を受けて初めて存在を許されるので、神界で一旦つぶすと決められた上は皆つぶされます」という文章の伏字については、執筆者であった浅野は、第九回予審調書で「特に日本の天皇陛下又は皇室を指した訳ではありませぬが、その内には天皇陛下又は皇室を含まれて居り、日本の天皇陛下、皇室に於かせられでも、神界の御神勅を御尊重にならねばならぬものと信じて居ります」とのべ、さらに、「筆先が国常立尊の神勅であると云ふことが相違なければ、不敬にはならないと思ひますが、若し其筆先が神勅でないとすれば不敬になります」といっている。王仁三郎は第一五回調書で、「○○は如何なることか分らぬが、君主ではないかと想像する」といい、吉田も第五回調書で、皇室のことを指すとのべた。
残りの神諭に関する七項について、王仁三郎は伏字の解釈に、不敬の意味は全然無いと極力主張したが、四月九日になって、その態度をあらため、予審判事の予断にもとづくいい分を認めるにいたって、四月一四日の第二四回の調書でつぎのように陳述した。
……私が是迄で御訊きによりて御答した第一、第二、第五の事実、
第四事実の続にある浅野に関する筆先に関する事、其他の事実に付て曲解して申上て居ますから訂正を致します。
第一事実の現代の大将迄も洋服を着て靴を穿く様な時になりて云々は、私の事を書いた筆先だと訂正して申上げました。それは私の間違で、其大将は全く日本の天皇陛下を指したものであります。
第二事実は、秋山(真之)中将や私の事を書いたものと申上げましたが、能く考へるとそれは矢張り日本の天皇陛下の事を書いたもので畏多い事であります……。
これらの調書が、真実を明らかにせんとする態度で記述されていたかどうかは問題であって、そこには多分に強要にもとづくものが介在していた。浅野の「陳弁書」によると、神諭の解釈は王仁三郎のみが神からその資格をあたえられているのであって、信者は不明の点について暗中模索式のあて推量をところみることは許されない。ことに○○を附した謎の箇所の真の意義はわからないと解釈を拒否したところ、予審判事は強硬な態度でその解釈をせまったと、つぎのようにのべている。
……○○箇所、又不可解の箇所に達すると、神諭の原稿を見せたり、神字解を差突けたり、暗示を与へたりして、極力誘導されたのであります。……詰り予審判事の頭には、此等の記事の解釈に就きて、既に確定した予断があり、被告の申立を其予断に一致せしむべく努められたと考へるより外致し方がないのであります。
大正一〇年三月一五日、証人として喚問された栗原七蔵も、同月一八日にみずから記した「淬砺録」のなかで、「此時検事は一時訊問を中止して、そして書記に命じて、これまで訊問した事柄を検事自身が覚書として手控しであった鉛筆書の、極めて覚束なげなる摘録をたどって其要点を『検事聴取書』として録せしむるのであった」と、そのとりしらべの状況をのべている。また「聴取書」のことにふれて、「どうもその聴取書なるものの、記述の仕方が私には首肯できません。……第一被訊問者の利益となるべき点が多く省かれて、しかも一面に於ては検事が動もすると、この被告の犯罪を予断せんとする如き、用語を使用せられますやうに存ぜられてなりません……」と、検事に抗議の申し入れをしたと記している。さらに他の検事が、取調室にはいってきて栗原の答弁を威喝したり、手段をつくして「予断」に合致させようと強要につとめたことを暴露している。
四月一九日には、吉田祐定が保釈出獄してきた。信者はやがて王仁三郎や浅野も姿をみせるだろうと期待し、事件解決の日が近づいたものと信じて、そのなりゆきをみまもっていた。
本部では予審決定が発表されると、ただちに一一~一二日の二日間にわたって役員会をひらき
一、神霊界誌上に筆先を掲載しないこと。
一、変性男子、変性女子の語を使用しないこと。
一、敬神尊皇愛国の主旨を掲載すること。
などの方針を決定して、大本が不敬の団体でないことを宣伝する体制をとった。
〔写真〕
○予審決定の写本と報道記事 p582
○検事取調べ状況 栗原白嶺の記録 淬砺録 p590