一、祭 惟神の大道
一、教 天授の真理
一、慣 天人道の常
一、造 適宜の事務
[#次は『王仁文庫』第五篇「道の大原」p2~17より引用]
四大綱領は、大本において神懸修業の際、神界より直示されたもので、これが皇道大本の教への由つて出づる源泉であります。決して本田翁の所説を採録したといふ様な訳ではないのであります。
政──政は万世一系なり。天照大神の神勅を奉じて、天上より下土に降臨し給ひ、主、師、親の三徳を具備して、全世界を平らけく安らけく知召し給ふ、天津日嗣天皇の御天職であります。(中略)まつりごと五言霊の活用を拝し奉れば、世界の治平は、どうしても神選の地上唯一の君主政治でなければ、真の平和と、万民の幸福とを招来することは、絶対に不可能なることが明らかである。かの代議政体や、共和政治や、合衆制度や、専制政治の、到底物にならぬことは、当然のことであります。故に皇道大本にては、綱領として、政は万世一系、天津日嗣天皇の御天職なりと、強唱する所以であります。
教──教とは天授の真理なり。すべて教なるものは、今日の人智を以て測り知ることの出来ぬもので、智徳円満豊備なる神の直々の教へでなければ、教といふ資格は無いのであります。(中略)人は省みる、恥る、悔る、畏る、覚るの五情の戒律を、霊魂中に天賦的に付与されてをるにおいておや。盗むなかれ、殺すなかれ、姦淫するなかれ、等の戒めは、人類自然に知悉しておる筈であります。(中略)要するに教へなるものは、過去、現在、未来に通じ、かつ実地に神明、人に憑りて、善悪邪正の模範を示し、世界の現状をつぶさに顕示し玉ふが故に、一として違ふことなし。神諭に誠の神の教へは、毛筋の横巾ほども違はぬぞよ、と現はれある所以であります。
慣──慣は天人道の常なり。山野に樹木の発生し、かつその幹の丸く成長するは、これ天道である。これを人あり、伐採して或ひは四角の柱と造り替へ、或ひは平たき板となし、或ひは諸道具を作製するは、これ即ち人道である。人に五倫、五情の心得あるは、人類自然の慣性にして、神または人の教導を待つて知るべきものではありませぬ。
造──造は適宜の事務なり。世の中には、神聖な神様を信仰する以上は今までの様な賤しき商法は止めねばならぬとか、下駄屋をしてゐて、神様に奉仕しては勿体ないとか、不敬だとか言つて止める人が間々あるが、これは誤解である。人は天地経綸の司宰たる以上、いやしくも利用厚生の道のためなら、何の事業も神界、現世のために結構なことである。神様にも天神、地祇、八百万の神様が御在り遊ばして、上は神界統御の神役を遊ばす、掛巻も畏き天照大御神様もあれば、一家の守神もあり、雪隠の神様もありますが、その御役目に高下は有つても、天地守護の職掌には貴賤尊卑の別は無いのと同様に、いかなる事務に従事するも、社会のためになることなら、決して尊卑の区別はありませぬ。