大本教の活歴史
百済博士稿
大日本修斎会が宣教する皇道大本教は、大正維新の聖代に最も適当したる真の宗教である。同教の開祖は出口直子と謂つて当年取つて七十八歳の高齢であるが、尚生々として壮年者も及ば無い程の元気で日月の如き教理を日夜諄々として倦まず屈せず国家社会の為に唱導して居らるるのである。開祖は元来の無学で眼に一丁字も無かつたのであるが、去る明治二十五年に突然と神人感合の妙境に入り給ふて以来、僅に平仮名を解さるる事と成つた。而て社会の出来事は何時も前日否な数年前に惟神の筆を揮つて予言し百発百中毫も誤られた事は無ひのである。
開祖は慈悲の権化とも謂ふべき御方であつて又如何なる艱苦にも忍耐し得る特性を備へて居らるるのである。何れも一つの宗教を興す位な人は異常の精神を持つて居るものである。創開以来日猶ほ浅きにも拘はらず今日既に数百の教弟と数万の信徒を数ふるに至つたのは全く開祖の荘厳なる人格の力と言はねばならぬ。開祖の無限の大慈悲心は今日の国家社会に必要欠く可からざる真の宗教を造るに至つた事を思へば、至誠の力は実に不可思議な程伸張発揮するものと感歎せざるを得無いのである。
開祖の慈愛と一定不変公明正大の行為と神力とは、斯る大宗教を創立すべき充分の価値がある。宗教は理屈や学文では無いのだから宗教の事柄に詳しひ学者が必ずしも宗教家では無ひ。表面のみの宗教家やうそつきの神道家は今日は余り沢山に有り過ぎて困るのである。
抑も宗教の本領は洋の東西を問はず人種の異同を論ぜず、地球上在りと所在国土の人類は貴賎貧富男女老幼を問はず如何んな悲惨な状態に陥つて居る者でも之を救ひ上げて安心せしめ立命せしめ如何なる者に就ても総ての方面に力を与へ、社会の幸福生ける人民総ての幸福を進め、国家の実力を進めて種々天地に代るの効用を顕はさねばならぬ。此の功用を顕はすべき神変不測の惟神の道は、天地宇宙到る所に充満てあるのである。
道とは『天地に充ち』という意義で、吾人の力即ち真心が天地に充ちて天地の神と一致すれば絶対広遠な働きが出来て大活動者となるのである。即ち生乍ら神と為れるのである。西洋の誰やらが言つたやうに何事も自己の脈搏の上に試みられたもので無くては千百の知解と雖も屁一つの役にも立たぬ。大本教はどうだの開祖はどうだのと一回の研究も仕ないものが到底大本教の真諦を明らむる事は出来ぬのである。