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開祖は八人の児の教養を、婦人の身の殊に貧困なる家庭の如何ともする事が出来なかつたのである。然れど男々しき気性の開祖は、親族や村内の厄介になつては将来八人の児の頭が上らぬといふて、健気にも金竜餅屋を片手に小商ひを営み、星を戴いて家を出で月を践んで家に帰り、一刻の間も安楽といふことが無かつたのである。開祖の勤勉に由つて僅に其日の煙を細々乍ら立てゐられた。災厄は飽く迄も開祖の家を呪ふて、遂に最愛の長女ヨネ子は、大槻鹿蔵という西町の白浪男に奪取されて仕まつた。力と頼む娘は斯の通りに為つても親族や近隣も之を引戻す挨拶をするものが無い。何れも大槻の怒りに触れて後難を招く事を怖れたからである。大槻は強力無法の博徒の無頼漢で手の附け様の無い人間、一方の開祖は弱き婦人の身の如何ともする事は出来ぬ。搗てて加へて生活の困難は日に夜に襲ふて来るのみである。止むを得ず涙を呑んで大槻の為すが隨に任された。
大槻は更に開祖に迫つて三男の伝吉氏を、自分に児のなきを口実とし養子と為さんことを頻りに強請して止ま無い。開祖は是も彼の言ふが儘に任されたのである。
其頃長男の竹造氏は大工を修業の為に沖村の吉之助といふ棟梁の家に弟子として住み込んで居たが、我家の貧困を苦にして、不覚にも髪剃を持て咽喉部を突切り自殺を計つた。折宜くも傷は急所を外れて漸く九死の中に一生を採り留める事を得た。又一つは大工職が嫌ひで在つた。慈愛深き開祖は竹造氏の小心なるを憂ひ、任意の行動を取るべく許された。竹造氏は法被姿に頬冠り草鞋履きのまま恋しき我家を後にして何処を当とも無く出て行かれたきり、十七年の間一回の音信も無く生死の程さへ不分明であつた。弟妹の心配は一方ならず折々竹造氏の身の上を思ひ浮べては涙に日を送る而已であつた。然れど雄々しき開祖は一回の愚痴も漏されたことはなかつた。開祖は斯道に熱心の為に平素最愛の我児の上を忘却してゐられたからである。開祖は余り社会公共の為に心を注がれ一点の私情をも持たれなかつた。到底凡俗の企及し得ざる宗教界の英傑である。
竹造氏は明治三十六年の五月五日の早朝瓢然として元の如く法被姿で帰つて来た。社会の激風怒涛に悩まされたる面影を残してゐた。開祖を始め家族一同は無事の帰国を非常に喜び、祝宴を開いて大神に感謝したのであつた。
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開祖は次男の清吉氏と細々ながら製紙業を営み僅に其日の煙を立て居られた。間もなく清吉氏は適齢に達し撰まれて近衛隊に入営した。開祖は恰も盲人の杖を落した思ひで止むなく又元の金竜餅を売る事とせられた。次女の琴子は亀岡へ奉公に出で、次で王子の栗山家に嫁し、三女の久子も同じく八木へ奉公に出で、同地の福島氏の室と成つた。跡には四女の竜子と末子の純子と三人暮しである。開祖は小商に出らるる朝毎に両女に向つて機嫌能く留守をせよ、必ず人の物に目を掛けて呉れるな。欲しひ物あらば何なりと母が金を儲けて買つて上げるからしと日々勤務の如くに訓戒された。家庭教育には充分の注以を払はれたのである。時に姉は十才、妹は七才。
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明治二十四年の春、福島家に嫁した久子は精神病を発し遂に全狂乱となつたのみならず、大槻家へ行つた米子も又発狂して乱暴をすると、大槻鹿造は気狂は入らぬ受取つと呉れよとせまり来る。開祖の身は千百の禍津見に包囲攻撃さるる事となつた。大抵の婦人ならば或は天を恨み地に怒り、嗚呼天道は是か非か神や仏は無きもの乎と失望落胆遂に自暴自棄するに至るのであるが、変性男子の霊能を有する開祖は泰然自若屈するの色無く、「憂き事の猶ほ此上に積れかし限りある身の力試めしに」の態度を以て貧困をも苦にせず、天神地祇に祈願を籠められたが、其の熱心と其の至誠の天地に通じけん、忽ち久子は全癒する事と成つた。
開祖は茲に益々神祇の大恩洪徳を感じ、自分一家の為のみならず斯かる尊き神の洪恩を普く社会の病苦に悩める人にも告げ諭し、以て寄る辺無き人々を救ふ可く決心された。破家の神床に形計りの祭壇を設けて一心不乱に信仰を励まれた。毎朝未明に起き出て大江山下ろしの寒風を犯して水行を為し、正午に一回夕刻に一同と毎日三回宛の水行は寒暑に拘はらず満二十年の問一回も欠された事は無かつたが、昨明治四十五年の三月八日伊勢国香良洲神社へ参詣を期とし、神意の随に水行を廃さるるに至つたのである。
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開祖神人感合の妙境に入る
明治二十五年の正月元日の夜、開祖は夢に神境に入りしに、宮殿廊廓重々として幾層とも知れず、大小の間取り連々相連なり、以て縦横陣布の形あり。其荘厳美麗なること誓ふるに物なきを視る。
開祖は先づ其表門より入りて窺はれしに其中央に神あり、御容貌尊く麗はしく御身は大きく肥満し給ひ、御鬚は多く長く八束にましませり。開祖は恐る恐るも宮殿の余りに荘厳にして美麗なるに心魂を奪はれ、知らず識らず歩を進めたりしを、其大神御座を立ち玉ひ開祖を顧みて其手を取り他の奥の御殿に進みて開祖を階下に待たせ、大神は昇段ありて何事か奏上し玉ふ如く、暫くありて御退出御帰座の際、開祖は急ぎ御門外に出で、東北方と思しき方に廻れば又一つの大門あり。其門を入りて拝観すれば、其の美麗なる事之を最前拝観せし処に比較すれば幾倍か雄大荘厳なるを知らざるの観あり。其中最も荘厳なる御殿に於ては金銀珠玉を以て造り成し光々相映じ明々相照らし、目も当られぬ程なるに、其の中に大神あり、御衣総て宝玉を以て飾り成し、玉輝金色玲々瓏々として御面相の高貴優美に座しますこと只畏こき斗りなりしが、時に大神は優然玉座を離れさせ玉ひ、開祖の間近く進み玉ひて開祖を熟視し御顔容微笑を含み玉ひ御言葉は発し給はず其儘御復席ありしは、今尚開祖の眼前に髣髴として身の毛も慄然たる斗りなりしと聞く。
茲に開祖は斯る畏こき御場所に進入せし事の或は御譴責あらん事を恐れ、急ぎ御門を出んと欲すれば御門は已に閉鎖されあり。是に恐怖の心弥々切迫し最早前後を顧みるに遑あらず、急突門関を解き門外に出て遁走する事凡そ四五丁もあらんと思しき所に足を止め息を継ぎ居たりしに、不図見れば其所にも亦た麗はしき殿舎あり、恐る恐る其内を窺へば豈計らん哉、先年帰幽せられし夫の政五郎氏欣然として其中に在るを見る。即ち相逢ひ相喜び、手の舞ひ足の踏む所を知らざるの思あり。互に既往を語り将来を談じ時の移るを知らず。猶又た神国の神民たるものの死後の安住所は正しく斯る尊き楽しき聖所に定まりあることを愛児等にも告為らさん者と思ひて其場を去ると見しは全く一夜の霊夢にてありける。爾来数回の霊夢を得、一回は一回より敬神の心を増し、終には仮令老女の身たりとも精神一到何事か成らざらん、空しく家政の一小事に拘泥せんよりは、寧ろ信教自由の教権に依り皇道の正面に向ひ進取せんものと雄々しくも決意したるは婦人の身として天下無比なる可し。是れ必竟諸々の災禍不運に逢遇して人世復た望みも頼みも無きより、一心不乱に撓まず屈せず敬神の誠を発したるものなれば、政五郎氏の死も貧困家庭の災厄も偶然にあらず、慈愛甚深なる大神の大御心に出でし事判然として実に有難きことなりけり。
然るに一日俄然惣身震動して神気来格の徴あり、其如何なる理由あるものとも知らず且疑ひ且恐れつつありしが、其翌日復々同様の徴あり。此時開祖自ら問ひけらく、是れ神の御心ならんか、或は人の霊ならんか、抑も又物の気ならんか、明らかに其名を語り玉へと云へば、唯此者は艮の金神、元の国常立の尊、汝の身体を守るぞよと宣り玉へり。尚再三再四其御名を問へば、名は申すに及ばずと宣り給へり。依て想ふに畏けれども是れ或は天照大御神の御心ならんかと思惟し、其次回霊神来格に際し試みに伺ひ奉れば、果して尊き大御神にて座座しとは畏しとも有難しとも言語の名状す可き無く、唯感泣の外なし。
是れ開祖帰神の最初にして年齢正に五十七歳なり。爾来毎度の神懸ありて漸く種々の御訓示出づるに至れり。而て其御示しに依れば、嚢日夢裡幽境中拝観し奉りし大神は畏くも天照大御神、若日婁女神、大国主大神、玉依姫之神、須勢理姫の神等に座まし、其場所は地質学上世界の大中心地なる綾部の本宮の神境にてありしと云ふ。
王仁三郎は先年来その霊異を聞き、事実如何なるものなるかを霊学上より深く探査を試みんと欲し、自ら審神者と為り平素傍ら近く侍したりしに、奇異百端驚く可く恐る可く疑ふべく信ずベく容易にその真相を断定し能はず。半信半疑の聞に彷徨せし事前後十五年なりき。
然るに開祖の為人たるや生得正直謹厳にして自ら虚偽を為し得る人にあらず。且つ其必要を視ざれば、虚偽に非ざるは信じて疑ふべき無く、又仮令虚偽人を欺かんと欲する共、元来無学無識の人にして吟詠なり教訓なり社会の予言なり、物に随ひ時に応じ自由自在なる事彼が如きものは自ら企及するも能はざるや、弁を俟たずして明らかなり。況んや其の意味趣向の深遠微妙なるに至りては人間の能く及ぶ所に非ず。
於是か王仁が如き頑固者も自ら信従せざらんと欲するも能はざるのみならず、真偽は渠に在り研究は我に在り、而して我心は狐狸にあらず唯神明の御名と其真理とに在るものなれば、果して偽ならば偽出づベし、果して真なれば真顕はるべし。徒らに擯斥して顧みざるは幽理を知得せんと欲する者の本意に非ざるなりと断然決意し、翻然として悵ひ改め茲に開祖の真教理に心服し、国家社会の為に宣教の労を取る事と成りぬ。嗚呼世の神道の深奥玄機を知らんと欲する者は今に於て之を研究すべし。時や得難し人や求め難し。謹で開祖霊威の荘厳なる由来を略記し以て斯道研究の小補たらしめんとす。