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開祖は頭髪純白にして容顔麗美恰も玉の如く、口を閉づれば威儀高く英姿自ら備り、口を発けば温柔の相貌愛らしく善言美辞一言一句粗野の趣き無く、其の眼元口元ヨリ溢るる斗りの愛嬌を湛え以て不知不知の間に世人を引付ける技倆が備つて居る。何人でも一度面談したものは終身その温容を忘るる事が出来ぬのである。之れ全く開祖の大慈大悲の真心が人を心底より感動せしむる故である。
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開祖は天保七年十二月十六日を以て丹波国福知山町一宮神社の氏子として降誕されたのである。同地の士族桐村五郎三郎の長女で家兄を清兵衛と云ひ、桐村家を相続せられた。開祖は二十歳の花も恥ろうと云ふ妙齢の春は弥生の十五日、綾部町字本宮の坪の内なる出口政五郎と云ふ大匠に嫁し、一家極めて睦まじく三男五女を挙げられた。長男竹造、二男を清吉、三男を伝吉と云ひ、亦た長女をヨネ、二女をコト、三女をヒサ、四女を竜、五女をスミと云ふ。新斎主は末子の此のスミ子が継承して居るのである。
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政五郎は建築術に達した人で何時も鑿と鉄槌と鋸と丁能とを手拭に搏り付けて作事場へ行くので、その外には道具一切所持せなかつたと云ふ気楽な大工であつた。元来滑稽洒脱にして家事には少しも頓著無く、金銭は得るに従つて酒食に費消する而己ならず、祖先伝来の田畑も全部売払つて飲ん仕まつた。
或時破屋の改築して之に住む事となつた。一切紅柄染の瓦ぶきであつた。政五郎落成祝ひに戯れて曰く「稲荷の様な家建てて鈴は無けれど内はガラガラ」。貧困一家を襲ふも少しも意に介せず、常に奇声を放つては大笑し、怪姿を弄んでは顛倒し、人の腮を解き、諧謔剽軽限り無く、酒の為に遂には紅柄の新宅まで瞬たく間に呑んで仕まつた。政五郎亦た戯れて曰く『借金の尻ほど恐きものは無し、家打ち込めど穴は塞がず』。或る時また『隣家には餅搗く音の聞ゆれど我は青息つく斗りなり』。大酒はその身に祟りして明治十八年の二月八日、六十一歳を一期として冥土黄泉の旅に趣いた。開祖は時に五十二歳、八人の男女を教養すべき大責任は婦人の一身に懸つて来たのである。
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政五郎氏は酒毒の為に終に中風症に悩まされ、身体手足の自由を失ひ横臥すること三年、開祖は毫も倦怠の色無く、忠実に懇切に看護到らざる無く郷里の模範と賞されて居られた。政五郎氏は開祖の小商売に出らるる後姿を寝床より見送り、常に涙を流し合掌して、現在の女房を神の如く其の美はしき貞操を感謝された。帰幽の当日、開祖及び八人の児を枕頭に呼集め、永年間開祖の厚き看護と親切と貞操とを呉々も感謝し、且又我死せる後の開祖の心労の一層加はる可きを思ひては涙に戸を曇らせ、又八人の愛児に対しては勤勉正直を以て其身を立て家を起し、独立独歩必ず人の救助を受くること勿れ。父は誤つて一生を酔生夢死の境に過したりと雖も、汝等は必ず父の素行を見習ふこと無き様呉々も頼みおく。我亡き后は母も嘸々心細く世を送るならん。汝等父の今の言を肝に銘じて母に孝養を尽し家名を汚さぬ様にせよと訓ふる声も次第々々に細り行きて、眠るが如く上天せり。