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物質的文明の壮年時代たる大正の今日に於て惟神の大道幽界の真理を説く皇道の大本霊学を以て、世人稍もすれば世にありふれたる催眠術、幻術、妖術、稲荷降しの類のものと誤認して省みず、神聖不可犯の神術を以て却つて淫祠邪教と罵るに至る。是れ幽顕二界確立の真理を解する者無き所以なればなり。廿世紀は文明極致の世なりと思惟するもの多しと雖も今の所謂文明なるものは片輪の文明なり。今の哲学は偏狭の哲学なり。何ぞ無限絶対無始無終の宇宙の大真理を解するを得ん哉。王仁元来浅学非才至愚至痴何等学術の造詣無しと雖も斯道の為に黙視するに忍びず、帰神に関する略解並に本教創立の経路を筆にし以て開祖の帰神の神聖無比一点の迷妄無く、宇宙の真理大本に合致せしものたるを普く教信徒及び社会達識の士に知悉せしめんとする所以なり。
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霊学の先覚者研究家として有名なる、本田親徳翁あり、伯爵副島種臣翁あり、長沢雄楯翁あり。王仁三郎は以上三翁の懇篤なる直接間接の教授を得、又親しく開祖の教を永年実地に目撃し修練し、終に審神者得業を許さるるに至れり。抑も帰神は往古禁廷の神伝秘法として、国政の大事を神界へ奉伺したるものにして、其実例は往々にして古事記、日本書紀其他の古史に散見するを得ベし。「天の窟戸の段」に於ける天之宇受売之命の神懸したるが如き、仲哀天皇の朝に於ける三韓征伐に際し神功皇后を神主とし武内宿爾の沙廷に居て神勅を請ひ奉りしが如き、文徳天皇の斉衡三年(ユリウス暦856年)常陸国大洗磯崎に於ける塩焚の翁に神懸ありしが如き、和気清麿が宇佐八幡の神宣を奏したるが如きは著しき例証なり。王仁が先師長沢雄楯翁は霊学の研究家として世に知らるるの人なり。翁が霊学の研究に腐心せるもの実に二十有余年、その抱負や遠大当に国家社会の為に多謝すべきなり。茲に長沢翁の人と為を略叙せんとす。
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往年徳川氏の駿河に移るや当時聖堂に在り碩学鴻儒随つて此地に来集せしを以て、静岡藩にては私学校を興し専ら育英の事に従へり。翁は十二歳にして始めて藩立学校に入り漢籍を研究し五ケ年にして広く経史に通ずるに至る。後明治五年教部省を置かれ神官僧侶を以て教導職に補任せらるる事となり、神仏連合にて静岡市浅間神社内に中教院を設けられしより翁は同院に入り専ら国学を渉猟し普く本邦の典籍を研鑽し、続いて明治七年皇学漢学の教授となれり。当時翁は本居平田の書を渉猟し傍ら理学、科学、地学等を研究せしより本居平田の説の十中七八は泰西の学理と矛盾せることを発見し、今日に在りては普く泰西の学術を究め、以て本居平田の説の当訂正すべきものあることを確信し、爾後此思想は絶へず翁の胸中に往来せり。
○長沢翁の奮起 翁は神道の萎微不振を慨歎し明治十年八月、一の論文を起稿し、東京開智新聞に投書せり。同新聞は是を歓迎して其社説に掲げたるより天下の志士其説を賛成せしもの多く、千葉県の沢田総平、岐阜県の鍵谷竜雄等を始めとして奮然一躍起するもの四方に現はれ、翌明治十一年三月、皇道振興の為め全国有志大会を東京に開く事となり、会場は神道事務局を以て之に充て、翁は会幹として専ら枢務に鞅掌せり。
○撰抜生渡欧の議 翁は其蓄積せる平素の抱負を発表し宿志を貫徹するは此機会を逸して他に求むべからずとなし、常に皇道に志厚き学術に素養あるの士を選びて欧洲に留学せしめ専ら泰西の学術を研鏡せんことを熱心に主張せしかば、幸に同会の議長たりし平山省斎氏の深く容るる所となり議員の賛同を得て忽ち評議一決し、続で神道事務局の裁許する所となり、当時英国に公使たりし森有礼氏は幸に中教正鴻雪瓜氏知友なるの縁故を以て、氏の尽力により神道事務局より一名の留学生を渡英せしめ、留学緋は駐英公使館に於て賄ひ方を引受くる事を快諾されたるを以て、神道事務局にては当時同局の生徒寮に在りし黒山久雄なるものを留学生に撰定し、留資金三千円を供給し出発せしめしが、黒山は如何なる訳か横浜に於て行衛不明となり折角の美挙も中止の止むを得ざるに至れり。当時の開智新聞紙上には長沢翁と鍵谷竜雄氏の二名を以て更に留学生となすの急務なることを熱心に主張せしが、学資供給の道なきより遺憾ながら実行する事能はずして事止となりたり。
○長沢翁の霊学研究の動機 翁は如何にもして其宿志を貫徹せんとし職務の余暇を以て英学を修め、又深く宇宙の原理を研究せんと欲せしより哲学史を読みて哲学の一斑を知り、茲に希臘のアイラニック派のテールスより今日に至る上下二千年の間、有神説と無神説との争論ありて何れとも決定する能はざるは学術隆昌の現世紀に於て遺憾の極なれば、何れかの方法を以て此決定を与へんことに苦心せしもの多年、斯て翁の研究は六箇年を経過せり。恰も明治十八年旧薩藩の士、奈良原繁氏静岡県に知事となり同藩士の碩学本田九郎親徳翁を招聘して青年及び有志を薫養せられたり。其時翁は両三回親徳翁に面会の後、一昼夜に渉りて古事記、日本書紀等の難題疑問を攻究激論し、竟に親徳翁に抵抗する能はず深く其卓見博識に畏敬して其門下生と成るに至れり。
○故本田翁の人と為り 翁は鹿児島に生れ幼時漢学と撃剣とを学び十九歳にして藩を脱し水戸に至り、会沢正志翁の門に入り学ぶこと三年、爾後専ら漢皇の学を研鑽し、其他翁の学術としては百科に渉れり。翁は古事記、日本書紀及び経書等に就ては多く古人の説を採らず講説の七八分は自説なりしが、其説の卓抜にして識見の崇高なる天下並ぶ者なし。嘗て故副島種臣伯の深く志を皇道に抱きしものは全く本田翁の説に服従せしに因る。伯は常に翁を偉人として尊仰し厚く敬意を払ひつつあり。翁と伯との真道問対なるものありて、幽玄なる真理を推究断案したる卓論高説なり。然れども翁の在世中之を公にするに至らざりしを以て、此書を知るもの尠なきなり。
○本田翁が霊学研究の動機 翁は学術深遠にして玄妙を極めし力より必ず宇宙は霊的の作用に依るものならんと推測せしに、恰も翁が齢二十二歳にして京都に在るの時、市中説をなす者あり。十三歳の少女に狐の憑依し克く和歌を詠ずと。翁思へらく斯の如き事あるべき道理なし。然れ共百聞は一見に如かずと往てその少女を見る折りしも、晩秋の候時雨の降る頃なりき。翁は少女に向ひ聞く、汝には狐が憑依して和歌を詠ずと、果たして然るかと。少女は忽ち相貌変り曰く、如何なる題にても出せと。翁は此庭前紅葉の散り居る模様を詠ぜよと云ひたるに、少女は立ちどころに筆を執りて、
庭も世に散るさへ惜しきもみぢ葉を打ちも果てよと降る時雨かな
と手跡も見事に一片の短冊に書き終りしかば、少女の相貌は直ちに元の如くなれり。此実験に翁は深く感嘆し、他の霊の人に憑依すること有るものなることを知れり。翁は爾後之れ等霊的作用の研究に従事せしもの実に二十五年間にして始めて神人感合即ち神懸の術を研究し得たり。其間翁の苦心焦慮は実に名状すべからず、或は深山に入り或は名祠に参籠する等千辛万苦、竟に神懸の術を知得せり。
○鎮魂帰神の二法 神懸には正神と邪神とありて其階級数百段なることを発見し、更に之を区別すべき審神者の法を発明し深く其原理を究極せり。又自己の霊魂を運転活動自在ならしむべき鎮魂の法を発明せり。翁の学術の深遠洪博なるは謂ふも更なるが、神懸鎮魂の二法は千有余年間廃絶せしを再興せしものにて、実に当時学者として天下並ぶべき人物なかりしなり。惜い哉、翁は深く期する所あり、秘して此二術を伝へざる中故人となりたるを以て、天下之を知る者嘗てなく、王仁は幸に其端緒を修得するに至れり。
○王仁三郎は本田翁死後の門弟となり又長沢翁の門に入りしより、主として幽玄なる学理の研精に努め、傍ら神懸鎮魂の術を学び、粗ぼ了得する所ありたるを以て積年の大志たりし哲学の疑問に解決を与ふるは此二法ならざるべからざるを知り、彼の理学、科学の実物を以て学理を解釈するが如く、此神懸鎮魂の二術を以て古今哲学の疑問を解釈し得る者なることを発見し、爾後専ら二術の研鑽に努むる者茲に十有余年、今や粗ぼ其説も成りたるを以て、学説として之を著述し天下に公けにせんことを欲し、目下着手中なるも、如何せん引用の学術百科に渉ることなれば容易に成功し難きものあり。或は王仁が終生の大事業ならんか。