霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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1-4

インフォメーション
題名:1-4 著者:出口王仁三郎
ページ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2024-11-01 03:15:00 OBC :B113800c05
 物質的文明の壮年時代たる大正の今日に於て惟神(ゐしん)大道(だいどう)幽界の真理を説く皇道の大本(たいほん)霊学を以て、世人(せじん)(やや)もすれば世にありふれたる催眠術、幻術(げんじゆつ)、妖術、稲荷(をろ)しの(るい)のものと誤認して省みず、神聖不可犯の神術を以て(かへ)つて淫祠邪教と(ののし)るに至る。是れ幽顕二界確立の真理を解する者無き所以(ゆえん)なればなり。廿世紀は文明極致の世なりと思惟するもの多しと(いへど)も今の所謂(いわゆる)文明なるものは片輪(かたわ)の文明なり。今の哲学は偏狭の哲学なり。何ぞ無限絶対無始無終の宇宙の大真理を解するを得ん()王仁(わに)元来(がんらい)浅学(せんがく)非才(ひさい)至愚(しぐ)至痴(しち)何等(なんら)学術の造詣(ぞうけい)無しと(いへど)斯道(しだおう)の為に黙視するに忍びず、帰神(かんがかり)に関する略解(ならび)に本教創立の経路を筆にし以て開祖の帰神(きしん)の神聖無比一点の迷妄(めいぼう)無く、宇宙の真理大本(たいほん)に合致せしものたるを(あまね)く教信徒及び社会達識(たつしき)の士に知悉(ちかい)せしめんとする所以(ゆえん)なり。
 霊学の先覚者(せんかくしや)研究家として有名なる、本田(ほんだ)親徳(ちかあつ)(をう)あり、伯爵副島(そへじま)種臣(たねをみ)翁あり、長沢(ながさわ)雄楯(かつたて)翁あり。王仁(わに)三郎は以上三翁(さんをう)の懇篤なる直接間接の教授を得、又親しく開祖の(をしへ)永年(えいねん)実地に目撃し修練し、(つい)審神者(さにわ)得業(とくぎやう)を許さるるに至れり。(そもそ)帰神(かんがかり)は往古禁廷(きんてい)の神伝秘法として、国政の大事(だいじ)を神界へ奉伺(ほうし)したるものにして、(その)実例は往々にして古事記、日本書紀其他(そのた)古史(こし)に散見するを()ベし。「天の窟戸(いわと)の段」に於ける天之宇受売之命の神懸(かむがかり)したるが如き、仲哀天皇の(てう)に於ける三韓征伐に際し神功皇后を神主とし武内(たけのうち)宿爾(すくね)沙廷(さには)()て神勅を請ひ(まつ)りしが如き、文徳(もんとく)天皇の斉衡(さいこう)三年(ユリウス暦856年)常陸国大洗(おほあらひ)磯崎(いそざき)に於ける塩焚(しをたき)(をう)神懸(かむがかり)ありしが如き、和気(わけの)清麿(きよまろ)が宇佐八幡の神宣を奏したるが如きは(いちじる)しき例証なり。王仁(わに)先師(せんし)長沢雄楯翁は霊学の研究家として世に知らるるの人なり。(をう)が霊学の研究に腐心せるもの実に二十有余年、その抱負や遠大(まさ)に国家社会の為に多謝すべきなり。茲に長沢翁の人と(なり)を略叙せんとす。
 往年徳川氏の駿河に移るや当時聖堂に在り著作集では「し」を補って「在りし」にしている。碩学(せきがく)鴻儒(こうじゆ)(したが)つて此地に来集せしを以て、静岡藩にては私学校を興し専ら育英の事に従へり。(をう)は十二歳にして始めて藩立学校に()り漢籍を研究し五ケ年にして広く経史(けいし)に通ずるに至る。(のち)明治五年教部省を置かれ神官僧侶を以て教導職に補任せらるる事となり、神仏連合にて静岡市浅間(あさま)神社内に中教院(ちうけふいん)を設けられしより翁は同院に()り専ら国学を渉猟(せうりよう)し普く本邦の典籍を研鑽し、続いて明治七年皇学(こうがく)漢学の教授となれり。当時翁は本居(もとおり)平田(ひらた)の書を渉猟(せうりよう)(かたわ)ら理学、科学、地学(とう)を研究せしより本居平田の説の十(ちう)七八は泰西(たいさい)の学理と矛盾せることを発見し、今日に在りては普く泰西(たいせい)の学術を究め、以て本居平田の説の(まさ)訂正すべきものあることを確信し、爾後(ぢご)此思想は絶へず翁の胸中に往来せり。
○長沢翁の奮起  翁は神道の萎微(いび)不振を慨歎(がいたん)し明治十年八月、(ひとつ)の論文を起稿し、東京開智(かいち)新聞に投書せり。同新聞は是を歓迎して(その)社説に掲げたるより天下の志士(その)説を賛成せしもの多く、千葉県の沢田(さわた)総平(そうへい)、岐阜県の鍵谷(かぎたに)竜雄(たつを)()を始めとして奮然一躍起するもの四方(よも)に現はれ、翌明治十一年三月、皇道振興の為め全国有志大会を東京に開く事となり、会場は神道事務局を以て之に充て、翁は会幹(かいかん)として専ら枢務に鞅掌(あうせう)せり。
○撰抜生渡欧の議  翁は(その)蓄積せる平素の抱負を発表し宿志を貫徹するは此機会を逸して()に求むべからずとなし、常に皇道に志厚き学術に素養あるの士を選びて欧洲に留学せしめ専ら泰西(たいせい)の学術を研鏡せんことを熱心に主張せしかば、(さいわひ)に同会の議長たりし平山(ひらやま)省斎(しようさい)氏の深く()るる所となり議員の賛同を得て忽ち評議一決し、(つい)で神道事務局の裁許する所となり、当時英国に公使たりし(もり)有礼(ゆうれい)氏は(さいわひ)中教正(ちうけふせい)(をほとり)雪瓜(せつそう)鴻雪瓜(おおとり・せっそう、1814~1904年)は広島県因島出身で僧侶となるが、明治維新後は神道家となる。御岳教の第二代管長。氏知友なるの縁故を以て、氏の尽力により神道事務局より一名の留学生を渡英せしめ、留学緋は駐英公使館に於て(まかな)(かた)を引受くる事を快諾されたるを以て、神道事務局にては当時同局の生徒寮に在りし黒山(くろやま)久雄(ひさを)なるものを留学生に撰定し、(りう)資金留学資金三千円を供給し出発せしめしが、黒山は如何(いか)なる訳か横浜に於て行衛不明となり折角の美挙(びきよ)も中止の()むを得ざるに至れり。当時の開智(かいち)新聞紙上には長沢翁と鍵谷(かぎや)竜雄(たつを)氏の二名を以て更に留学生となすの急務なることを熱心に主張せしが、学資供給の道なきより遺憾ながら実行する事(あた)はずして事止(ことやみ)となりたり。
○長沢翁の霊学研究の動機  (をう)如何(いか)にもして(その)宿志(しゆくし)を貫徹せんとし職務の余暇を以て英学を修め、又深く宇宙の原理を研究せんと欲せしより哲学史を読みて哲学の一斑を知り、(ここ)希臘(ぎりしや)のアイラニック派のテールスより今日に至る上下二千年の間、有神説と無神説との争論ありて(いづ)れとも決定する(あた)はざるは学術隆昌の現世紀に於て遺憾の(きわみ)なれば、(いづ)れかの方法を以て此決定を与へんことに苦心せしもの多年、(かく)て翁の研究は六箇年を経過せり。(あだか)も明治十八年旧薩藩の士、奈良原(ならはら)(しげる)氏静岡県に知事となり同藩士の碩学(せきがく)本田(ほんだ)九郎(くろう)親徳(ちかあつ)翁を招聘(せうへい)して青年及び有志を薫養(くんよう)せられたり。其時(そのとき)翁は両三回親徳(ちかあつ)翁に面会の()、一昼夜に渉りて古事記、日本書紀(とう)の難題疑問を攻究激論し、(つい)親徳(ちかあつ)翁に抵抗する能はず深く其卓見(たくけん)博識に畏敬して其門下生と成るに至れり。
○故本田(ほんだ)(をう)の人と()り  翁は鹿児島に(うま)れ幼時漢学と撃剣とを学び十九歳にして藩を脱し水戸に至り、会沢(ゑさわ)正志(まさし)翁の門に()り学ぶこと三年、爾後(ぢご)専ら漢皇(かんこう)の学を研鑽し、其他翁の学術としては百科に(わた)れり。翁は古事記、日本書紀及び経書(けいしよ)(とう)(つい)ては多く古人(こじん)の説を採らず講説の七八分は自説なりしが、其説の卓抜にして識見の崇高なる天下並ぶ者なし。(かつ)て故副島(ふくしま)種臣(たねをみ)(はく)の深く()を皇道に(いだ)きしものは全く本田翁の説に服従せしに()る。(はく)は常に翁を偉人として尊仰し厚く敬意を払ひつつあり。翁と伯との真道(しんどう)問対(もんたい)なるものありて、幽玄なる真理を推究断案したる卓論高説なり。(しか)れども翁の在世中(これ)(おほやけ)にするに至らざりしを以て、此書(がいしよ)を知るもの(すくな)なきなり。
○本田翁が霊学研究の動機  翁は学術深遠にして玄妙を極めし(ちから)より必ず宇宙は霊的の作用に依るものならんと推測せしに、(あだか)も翁が(とし)二十二歳にして京都に在るの時、市中(しちう)(せつ)をなす者あり。十三歳の少女に狐の憑依し()く和歌を詠ずと。(をう)(おも)へらく(かく)の如き事あるべき道理なし。(しか)(ども)百聞は一見に()かずと(いつ)てその少女を見る折りしも、晩秋の候時雨(しぐれ)の降る頃なりき。翁は少女に(むか)ひ聞く、汝には狐が憑依して和歌を詠ずと、果たして(しか)るかと。少女は(たちま)ち相貌(かわ)り曰く、如何なる題にても出せと。翁は此庭前(ていぜん)紅葉(もみぢ)の散り()る模様を詠ぜよと云ひたるに、少女は立ちどころに筆を執りて、
 庭も世に散るさへ惜しきもみぢ()を打ちも果てよと()時雨(しぐれ)かな
手跡(てあと)も見事に一片の短冊に書き(おわ)りしかば、少女の相貌は直ちに元の如くなれり。此実験に翁は深く感嘆し、他の霊の人に憑依すること有るものなることを知れり。翁は爾後(じご)()()霊的作用の研究に従事せしもの実に二十五年間にして始めて神人感合即ち神懸(かんがかり)の術を研究し得たり。其(あひだ)翁の苦心焦慮は実に名状すべからず、(あるひ)深山(みやま)()(あるひ)名祠(めいし)参籠(さんろう)する(とう)千辛万苦、(つい)神懸(かんがかり)の術を知得せり。
○鎮魂帰神の二法  神懸(かんがかり)には正神と邪神とありて其階級数百段なることを発見し、更に之を区別すべき審神者(さには)の法を発明し深く其原理を究極せり。又自己の霊魂を運転活動自在ならしむべき鎮魂の法を発明せり。(をう)の学術の深遠洪博(こうはく)なるは()ふも(さら)なるが、神懸(かんがかり)鎮魂の二法は千有余年間廃絶せしを再興せしものにて、実に当時学者として天下並ぶべき人物なかりしなり。(おし)(かな)、翁は深く期する所あり、()して此二術を伝へざる(うち)故人となりたるを以て、天下(これ)を知る者(かつ)てなく、王仁(をに)(さいわひ)に其端緒を修得するに至れり。
○王仁三郎は本田翁死後の門弟となり又長沢翁の門に()りしより、主として幽玄なる学理の研精(けんせい)に努め、(かたわ)神懸(かんがかり)鎮魂の術を学び、()ぼ了得する所ありたるを以て積年の大志たりし哲学の疑問に解決を与ふるは此二法ならざるべからざるを知り、()の理学、科学の実物を以て学理を解釈するが如く、此神懸(かんがかり)鎮魂の二術を以て古今哲学の疑問を解釈し得る者なることを発見し、爾後(じご)専ら二術の研鑽に努むる者(ここ)に十有余年、今や()ぼ其説も成りたるを以て、学説として之を著述し天下に(おほや)けにせんことを欲し、目下(もくか)着手中なるも、如何(いか)せん引用の学術百科に(わた)ることなれば容易に成功し難きものあり。(あるひ)王仁(をに)終生(しふせい)の大事業ならんか。
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