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三五の明月は晶然として万界を照らし星光微なるの夜半、二人の姉妹は今宵こそ母上の出獄せむと仰せられたる吉日なり、有明の月を相図に出獄との御言なれど外部より応援する者無くば婦女の一人如何ともするに由なけんと小供心に深くも決心の臍を固め互に時の到るを心窃かに待ち居たりしに、彼大槻は両女に斯る企てありとは神ならぬ身の知る由無ければ、両女に交る交る肩を打たせ足を揉せながら心地宜げに熟眠したり。天の与へと両女は甲斐甲斐しく足音忍ばせ素足のまま走り、許にありし出刃包丁二丁と古鎌一丁を探り出し裏口より忍び出たりしが、南西町を東へ上本町に来る際、恐ろしき狂犬に吠え立られ一歩も進み得ず途方に暮れ居たりしに天の恵みか偶然か、横筋より黒き男の影見えて犬を追ひ遣り途を開きて両女を安く通はせたりしが、両女は地獄で神に逢へるが如く喜び勇みて忽ち我家の門口に差掛りたり。然るに戸前固くして入る事能はず、我家なれば誰に憚ることや在らむ、戸を破らむと、姉の言に妹も賛し庖丁を以て戸をこぢ明け直ちに開祖の獄前に忍び寄りしが、嬉しさと恐さ一時に発して妹は茲に気絶したりぬ。姉は只々狼狽為す所を知らず只呆然として泣く斗りなり。開祖は此の悲劇を眼前に眺めて可愛さの余り思はず逆上せむと給ひしが、今が大事の時なりと我と我心を励まし給ひ、姉に向つて水を汲み来らせ面部に吹き付けしめたるに妹は漸やく正気に復せり。姉は思はず嬉し泣に泣くばかりなり。
月は皎々として天空に懸り昼を欺く斗りなれども屋内は却て暗さを増すものと思慮したる姉は蝋燭とマッチを持出来たりて開祖に細き穴より相渡したるに、子供乍らも細かき処にまで心付きしと賞し給ひつつ直ちに点火し玉へば、親子の面影は歴然として視る事を得たりしが、開祖は忽ち両女の痩せ衰えたるを見て不便さ身に迫り、アア汝等は彼れ大槻の傍に居る事ならば飲食の度にも嘸々気兼なしつらん、辛からん其の痩せ倒けし状は何事ぞ、と流石強気の女丈夫も思はず声を曇らせ玉へば両女は答へて曰へる様、必らず必らず心痛なし玉はるな。大槻の伯父さんは極親切にして世話して呉れます。この痩せたるは癇の病の起りし故ぞ。最早病も両女とも全快したれば日ならず元の如くに肥満すべし、と開祖に辛き思ひを為せまじと事実を隠す不便さ悼はしさ、身も世もあられぬ憂き思ひ、心の底に泣く泣くも八千八声の郭公、血を吐く斗りの悲惨さを無心の月は皎々明々、この一家の活劇を見下するにぞありける。
両女は不図顔を上げ獄柱の際間より御顔を熟視すれば四十余日の入獄に飲食絶たれしこととて身体骨立殆んど現世の人とも思はれぬ程に甚たく変らせ給へば、此の御姿は何事ぞ。御悼はしや情なや、せめて兄上なりと坐まさば斯る憂目も見給はざらんものを、と声を放ちて泣き伏しぬ。
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此時開祖は如何思召されけん、彼の大神より賜はりし神剣を取出し末子の純子に授けて、此神剣こそは先夜大神より不思議に賜はりし神宝也。今改めて汝に預け置かむ。抑この神剣は汝が母の意志を継ぎて本教に仕ふる時の肝要の具なり。母が肌身に着け居らむには、或は汚贖の恐れあり、此御剣を母の記念と思ひて大切に保護し奉れ、また姉の竜女は母の従来営みし金竜餅を売りて世を渡るべし、我在りては却つて汝等の苦悩を増む、親は無くても児は育つといふ、此世は神の世界なり、神明に預け奉らん二人の身体、と曰ひつつ涙に呉れ給へば、二女は其の御言葉の何処やらに腑に落ちぬ節ありと小供心にも不安の念慮制し難く、何故ならば斯る悲しき言を曰まふか、其理由聞かまほし、頼みも力も無き二人の姉妹、ただ母上のみが杖柱、何卒思ひ止まつて給はれ、と紅葉の如き手を合せ拝む心の意地らしさ、思ひやられて憐れなり。
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開祖の決心動かすべくもあらず、忽ち立上りて腰に纏ひし細帯を解き手早く梁に打懸け玉へば二人は吃驚仰天、殆んど方行に迷ひ、兎やせん角や詮術も泣きつ止めつつ狂気の如く周章廻れど獄柱に隔てられたる籠の鳥。押せども引けども動かばこそ、姉は柱に攀じ上り上りては落ち堕ては上り止むる由もないじやくり、折柄開祖に神懸あり戒め教へ覚し給はく、汝は何に血迷ひしか、果た何に狼狽たるか、心を鎮めて自省せよ、人には持身の責任あり、我心の儘に処決せんとするは神祇に対して不忠不義たるべし、斯道の為には飽までも神勅を遵奉せざるべからず、汝小心にも死して現場の苦痛を免れむとするは実に薄志弱行の徒なり、未だ一つの社会に功をも立ず暗々帰幽せば、之れ神界に対し奉りて此上の大罪は無し、且又死後幼女の困苦薄命を熟慮せざる乎、と自ら開祖の口を通じて厳訓し給ひしかば、開祖は夢の醒めたるが如く釈然として悟り、アア妾は過ちたり、小心なる女心の一筋に思ひ詰ては気も狂乱せし乎、術無き事に神慮を煩はし奉り、可憐の幼女の心を苦しめたることの愚かさよ、と自ら神直日大直日に見直し聞直し給へば、両女は恰も枯木に花の咲けるが如く天を仰ぎ地に伏して歓び拝む其様は筆紙言語の知る由もなかりき。
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母子破獄を企だつ
開祖は運命を天に任せ給へば獄中生活の苦痛をも少しも意に介し給はざれども今面のあたり二女子の可憐なる姿を熟視し玉ひては子を思ふ親の心の矢も楯も堪まらず遂に獄を破りて母子三人、八木村の福島家へ逃げ行かむと決意され直ちに開祖は内より古鎌を以て、二女は外より古庖刀を以て切破らんとすれども、疲れ果たる開祖に力無き幼女の事とて堅牢なる獄舎の如何ともするに由なく、神明佑けたまへと声を忍ばせ泣きつつも、大槻の追手の来らざるかと恐はさ悲しさ一時に発し手足震るひて一入困難するのみ。切れど毀でど少女の身の非力、容易に目的を達すること能はざりしも母を救はむとの孝の一念や貫徹しけむ。
漸く一尺斗りの空孔の明きたれば之ぞ全く神の賜と喜び勇み、今や開祖の潜り出んとなし玉へる折しも、大槻は二女の我家に影無きに打驚き、血相変えて韋駄天走りに馳来り、此体を見るや否や開祖を力任せに土足のまま蹴り込み、外より固く戸を閉ぢ乍ら両女を眼下に睨み付け怒声を張上げ言葉も荒々しく、汝等二人子供の分際として我に一言の答も無く鎌や庖丁の如き刃物を持出で無断に夜中遁走するのみ乎、殊更斯る全狂乱を勝手に逃がさんとする図太き小女郎の謀計、小供なりとて中々油断は成難し、弥々明日より摂州へ奉公に遣はさむ、母子の別れと互に好く顔を覚え置く可し、狂母は到底全快覚束なし、死後は余が好き様に取扱ふ、心残さずサア来れ、と泣叫ぶ二女を無理に引立て帰り行く。四鳥の別れ釣魚の悲しみ衷別離苦の真情は無心の月も感じけん。
俄に一天搔き曇り雨さへ混りて物凌き光景に酒呑童子と異名取たる強欲非道の大槻も暫し思案に暮れ居たりしが、開祖は獄中より言葉静かに大槻に向ひ、鹿造暫らく待たれよ、妾は決して狂人にあらず、天下公共の為に神命を奉じて皇道の大本を宣伝せんと欲する而己。世俗は幽玄微妙の神理を解する能力無ければ妾が言行を奇怪視し誤つて狂人と貶するなり。今夜幸に出獄するとも毫も世人に迷惑を掛る事断じて無し、安心せよ、と御言も半ばに大槻は、エエ八釜敷い狂婆奴、神の為世の為など申す言葉が気に喰はぬ、其れが全狂人と云ふものなり、弥々以て出獄は許されず、去れど狂人とは謂、幾分かは我言を聞分くるならん、心鎮めて宜く聞くべし、今日この大槻の家の苦境を如何に見るか、妻の米は昨年来の大狂乱、一時の目放しならぬ厄介者、搗て加へて狂母までも看護せねばならぬ我が困難、其上二人の幼女まで親族の因果で面倒乍らも養はねばならぬ、厄介斗り重なりて最早我家も破産の悲運に会ふは面のあたりなり、総領の竹造は今に行方不明なり、弟の清吉は入営の身、二女のお琴に三女のお久は相当に生活し乍らも母子の窮状を余所に看過す薄情もの、今に一円の金も贈らばこそ、揃ひも揃ひし結構な児を持ちし因果婆さんの全狂人、その中に我一人は実に馬鹿らしき苦労、縁の下の力持もどこで此の鹿造が立行くと思ふぞ。攻ては狂婆なりと一日も早く死んで呉なば今日の苦心の幾部分なりとも免れんものを、エエ死下手のクソ婆と、さも憎らし気に罵りつつ、坊主憎けりや袈裟まで憎ひと理不尽にも二女を力任せに拳を固めて打撲する痛ましさ。人の皮被る鬼畜とは斯る無情漢をや謂ふならむ乎。三五の玉兎再び天に西渡、国家興々と鶏は鳴く。