楠田敏郎
出口王仁三郎氏を、私は歌人としてだけ見て来てゐる。氏は歌をほんの遊びとして作つて居られるには違ひないが、私にとつて、氏がどれほどの偉人であらうとも、神に近き存在であらうとも、それは、遠いところのものである。私は、常に歌よみとしての氏をのみ頭に置いて近づいてゐる。
そこで氏の歌に就て語らねばならないのだが、第一に驚くのは、氏が、あらゆる「歌人」の真似の出来ないほどの勢力でもつて、夥しい作品を毎月発表されることだ。歌で云へば、一夜数百首に及び、おそらく一ケ月に何千首を作られるであらう。しかもあらゆる意味に於て、氏の作には、氏の姿がすつきり出されてある。その点、いつも感心してゐる。
飾りのない言葉で云へば、氏は、人間として見るとき、ずばぬけた茶目気を持つてゐられる。それをはつきり現はしたものが、氏の花壇各結社への進出だ。ほかの人間には、あの真似は出来ない。しかも、虚心坦懐で、同人の待遇を受けても、詠草欄の末尾に置かれても、平気で勉強をしてゐられる。氏の如き特殊な境遇にある人物で右様なことを平気でやつてゆける人は、おそらく他にはないであらう。
氏にとつて、歌は遊びだと云つたが、かかる修業を経た後に於て、氏はやがて独歩の歌境を生まれるのではないだらうか。
現在にあつては、氏の作は、風景を、定型に依つて表現された場合、もつともよきものとなる。しかし、ある時は自由律の作家であり、またある時はプロレタリヤ短歌の作家であつたりする。しかも、その総ての作品が空想から生まれたものでないのに驚異を感じてゐる。
人物としての出口王仁三郎氏は、一つの大きな謎であるやうに、歌人としての氏もまた謎である。それを解くものは、今後の氏の精進そのものより外にはないであらう。
昭和六年四月、於短歌月刊社