二十六七歳の頃
この日頃病に伏せるわが父はどれなと女房にきめおけといふ
内縁の妻はあれども一生の妻見あたらずと吾こたへけり
わが生命もう長からじ一日もはやく安心させよと父言ふ
大いなる希望ある身はやすやすと会心の妻見当らざるなり
父と吾の話をそつと立聞きて彼女はたちまち泣きいだしたり
しまつたと心をののき次の間にたち出でみれば彼女のかげなし
裏口の戸をあけみればわが母は彼女の袖をひきとめてをり
喜楽さんの心の底が見えましたあきらめましたと泣き泣き逃げゆく
心には少しかかれど男子の身追ひかけゆくを恥ぢらひてやむ
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吾が父の病おもりて親戚に危篤の電報いそぎ打ちたり
京都市や亀岡園部河内など親族おのおのあつまりきたる
吾が父は吾に抱かれてやすやすと眠るがごとく息絶えにけり
吾が父の国替さへも知らずして母は炊事にいそしみませり
母の名を呼べばおどろき来給ひし時には既にこときれてをり
わがが父は五十四歳を一期としかへらぬ旅にやすやすつきぬ
一生の別れを父と告げにけり吾二十七歳になれるはつ秋
金剛寺住職たのみ仏式で西山墓地に野おくりなしたり
野送りの後にひそひそ随ひて泣き泣き彼女も加はりてをり
垂乳根の父に別れし悲しさに吾が浮きごころとみにしづまる
貧乏な世帯の主となる身ぞと思へばしばし恋にとほざかる
雨のおと風のひびきも何となくさびしくなりぬ秋の夕暮
大任の身にふりかかりし心地して貧乏世帯の主人となりぬ
祖母と母弟妹五人を如何にして養はんかと思へば寂しき
亡き父の借金返へせと村びとのきびしき談判に吾悩みつつ
はたらきて弁済すると吾宣れば鼻であしらふ金貸の男
碌でない女にうつつ抜しつつ金返へせるかと危ぶむ金貸