霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章 宗教の害毒

インフォメーション
題名:第2章 宗教の害毒 著者:出口王仁三郎
ページ:7
概要: 備考:2023/10/02校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-02 03:20:13 文字数:7203 OBC :B121802c103
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]:神霊界 > 大正7年7月15日号(第66号) > 宗教の害毒
 宗教の目的とは何ぞ。人をして生活の真(しん)意義、真(しん)生命(せいめい)を得せしむるに在(あ)り。敢(あへ)て問ふ。之(これ)を得せしむるは何の為ぞやと。宗教家は必ず曰(い)はむ、娑婆(しやば)即(そく)寂光(じやくくわう)浄土(じやうど)の為なりと。又曰(い)はむ、此(こ)の世に天国を出現せしめんむが為なりと。然(しか)り、宗教の目的は、之を措(お)いて他(た)に無かるべし。是(こ)れ此(こ)の目的の為に孜々(しし)として布教に従事する所以(ゆゑん)なるべし。
 既に目的あらば、之に到達すベき手段を講ぜざるベからず。即ち彼岸に渡らむには、先(ま)づ舟楫(しうしふ)を艤(ぎ)するを要す。特に自己のみならず、同胞、延(ひ)いては国家を渡(わた)さむと欲するには、相当の方法を講じ、充分なる設備を為さざるべからざるなり。然るに一般宗教家は、果(はた)して此の方法を講じ設備を考へ、而(しか)して後(のち)に、其の目的に向(むか)つて、衆生同胞を済度すべく努力しつつありや。吾人の観る所を以てすれば、元来宗教なるものは、其の教祖が其の国土に応じ、其の時代に適する教義を立てたるものなり。されば甲国(かふこく)に適する宗教、必ずしも乙国(おつこく)に適するにあらず。又上古(じやうこ)の人心(じんしん)を救ひたる宗教、必ずしも、現代を済(すく)ふとは言ふベからず。事物(じぶつ)は皆(みな)国によりて相違し、時によりて変遷す。故に数千年前(ぜん)に起(おこ)れる異国の宗教を持ち来(きた)りて、之を以て我が現代の人心に真意義(しんいぎ)真生命(しんせいめい)を与へ、以て天国浄土を出現せしめむとするも甚(はなは)だ難(かた)し。是れ吾人が現代宗教家の其の職に努力すればする程、怪訝(くわいが)に堪ヘずとする所以なり。
 凡(およ)そ風俗世情(せじやう)を異(こと)にする国土に於(おい)て、平等なる目的に達するには、手段に差別あるべきこと自然の数(すう)なり。宗教家及(および)多くの学者は云ふ。曰(いは)く万教(ばんけう)は帰一(きいつ)なり、諸悪(しよあく)莫作(ばくさ)衆善(しうぜん)奉行(ぶぎやう)なり、至善(しぜん)に止(とど)まるに在り、己の欲せざる所は人に施すこと勿れ、己の好む所は之を人に施すべし、東西人情相(あひ)同じく古今(ここん)一軌(いつき)、何ぞ必ずしも宗教の別を論ぜむやと、然(しか)れども是(こ)れ一を知つて未だ其の一を知らざるの論なり。共通する所あればとて、直ちに同一なりとは断ずべからず。相違する所を求むれば飽(あく)までも相違すべし、目的同一なればとて、其(その)手段の何(いづ)れにても可(か)なりとは言ふべからず。人情国風に適する手段に依るにあらざれば、到底宗教の目的に到達し之を実現し得(う)べくもあらず。是れ宛(あだか)も、生命(せいめい)を繋ぐの糧(かて)なればとて、人をして猫の食(しよく)を喰はしめ、猫をして草木(さうもく)の肥料を食はしむべからざるが如くならむのみ。陸行者(りくかうしや)には車(くるま)に依り、海航者(かいかうしや)は舟に依らざるべからず。斯くて目的平等なりと雖(いへど)も、其の手段に至つては、時(とき)と処(ところ)とに応じて差別を生ずることとなるなり。故にいはく、平等なる目的を達するには、手段自(おのづか)ら差別を生ずるに至る、と。
 一国に最も適する宗教は其国の宗教なり。宗教は何(いづ)れも其の国其の時代の思想上の産物なり。されば最適なる宗教は発生時代に於ける其の国の宗教なり。故に如何なる宗教にても、他国に入(い)るに及びては、必ず意義又は形式に於いて、尠(すくな)からず変遷するを常(つね)とす。是れ宛(あだか)も虫類(ちうるゐ)の保護色の如きものなり。之を仏教に就いて見るに、其の支那に入(い)るや支那色に変じ、又我が国に来(きた)るに及びては日本色に変化したり。基督教は伝来日(ひ)猶(なほ)浅しと雖(いへど)も、将来に於ては、亦(また)必ずや此(かく)の如くなるに至らむ。是に於て宗教家は言ふなるべし。仏教は既に印度、支那の夫(そ)れにあらずして日本的仏教となりたるなり。故に日本に適当なる宗教は、仏教を措(お)いて他(た)にあること無し。又基督教も今や日本的基督教たらむとする過渡時代に在り、故に後世日本の思想を統一するに適当なるは、世界的宗教たる基督教に若(し)くは無しと。豈(あに)夫(そ)れ然(しか)らむや。元来宗教なるものは、仏教にもあれ、基督教にもあれ、人と神(仏(ぶつ)と人、大我(たいが)と小我(せうが))との融合一致に重きを置くものなり。即ち四諦観(していくわん)といひ、三位一体説といふも、其の意義に於て異(ことな)ることあるなし。所謂(いはゆる)天人(てんじん)合一(がふいつ)を主(しゆ)とするに在るのみ。従つて現在の国家、国民、君臣(くんしん)、父子(ふし)の関係を、動(やや)もすれば軽々(けいけい)看過せむとす。如何に宗教家諸君が気張りて、仏典、聖書の中より五倫五常に関する語を抽(ぬ)き集めたりとて、そは決して諸君が奉ずる宗教の主(しゆ)とする所のものにはあらじ。是れ元来仏教、基督教の発生国が五倫五常の国にあらざるが故に、其の然るべきは寧(むし)ろ当然の結果なりと謂ふべきなり。
 我国(わがくに)は之に反して、五倫五常が主にして、神人(しんじん)契合(けいがふ)の如きは、寧(むし)ろ従(じう)たるものなり。外教(ぐわいけう)にては五倫五常を捨てても、神人契合を得(う)るかは知らざれども、我が国にては決して之を得べからず。されば神人の契合を得むと欲せば、先づ五倫五常を全くするは是(これ)我が神の道にして、外教(ぐわいけう)の其れとは全く表裏相(あひ)反するものなり。而(しか)も其の道たるや、後世(こうせい)聖人君子なる者が、必要に応じて立てたる道に非ずして、天地開闢(かいびやく)以来伝(つた)はれる神(かむ)ながらの大道(たいだう)たるなり。神(かみ)は此の道の本源を人の本性に分賦(ぶんぷ)し給へり。之を名づけて至誠といふ。此の至誠、君臣の間に発して義となり、父子の間に発して親(しん)となり、夫婦の間に発して和(わ)となり、兄弟(けいてい)の間に発して友(いう)となり、朋友の間に発して信(しん)となり、毫(がう)も紛乱する所あること無きなり。故に教へずして家自(おのづか)ら和(やは)らぎ、令(れい)せずして国自(おのづか)ら治まる。是を以て其の国体や美(び)なり、其の国土や浄土なり、其の国家や天国たるなり。之を又(また)我が国不文(ふぶん)の教(をしへ)とは謂(い)ふなり。然るに今(いま)宗教家は、此の浄土の国を出現せしめむがために、最良の手段たる我が固有の大道を捨てて、縁(えん)遠き他国の宗教布教に没頭す。是れ猶(なほ)湿(しつ)を悪(にく)みて低きに居り、火を消さむと欲して油を注ぐが如き類(たぐひ)のみ、豈(あに)奇(き)ならずや。若(も)し宗教家にして真(しん)に国家を愛し、衆生同胞を憐み、天国浄土を出現せしめむと欲せば、須(すべか)らく先づ従来奉ずる所の宗教的偏見を捨てて、上(かみ) 皇室の行はせらるる本義に則(のつと)り奉(たてまつ)るべきなり。是(これ)其の目的たる天国浄土を出現すべき最良、最捷径(さいせうけい)の方法にして、亦(また)釈迦基督の本旨に協(かな)ふ所以ともなりぬベし。
 元来宇宙の間には迷悟あること無し。然るに宗教家は曰ふなるベし、日本(につぽん)の道は所謂(いはゆる)不言(ふげん)の教(をしへ)なるが故に、迷へるものをして悟らしめ、悲しむものに慰安を与ふるの方法なし。是れ其の欠点なり。我が宗教は此の欠陥を填補(てんぽ)するものなりと。然(しか)らば問はむ、宗教発生以来、果して能く迷へる者を慰め得たりしかと、宗教ありて迷者(めいしや)悲者(ひしや)其の跡(あと)を絶つと謂はば、宗教発生以前は皆迷者(めいしや)悲者(ひしや)のみなりしか、思ふに宗教ありとて迷ふ者は迷ひ、宗教無しとて悟る者は悟るべし。喜怒哀楽は人の天性なり。山は是れ山、水は是れ水、豈(あに)微々(びび)たる宗教によりて之を左右し得む哉(や)。
 然(しか)るに世の宗教家は巧辞(かうじ)を弄(ろう)し、甘言(かんげん)を揮(ふる)つて説法すらく、迷ヘる者よ来(きた)れ、悟(さとり)を与へむ、悲しむ者よ来(きた)れ、慰(なぐさめ)を得せしめむと、これ所謂(いはゆる)晴天に風雨(ふうう)を呼び、平水(へいすゐ)に波浪(はらう)を起(おこ)すものにして、人心は却(かへ)つてこれがために迷乱を生ずるを免(まぬが)れざるものなり。飜(ひるがへ)つて宗教家の平常を観れば、其の多くは、伝道の傍(かたはら)、或(あるひ)は愚民(ぐみん)を欺(あざむ)きて其の膏血(かうけつ)を搾(しぼ)り、或(あるひ)は外国の走狗(そうく)となりて、共に国民性を害(そこな)ひつつあるにあらずや。夫(そ)れ盗賊は世の重罪なり、而(しか)も之を謀反(むほん)に比すれば其の罪(つみ)軽し。謀反は天下の大罪なり。而(しか)も之を宗教家の罪に比すれば小にして軽し。何となれば、盗賊謀反は自(みづか)ら其(その)罪を標榜して之を行ひ、人亦(また)皆(みな)之を知るが故に或(あるひ)は恐れ或(あるひ)は戒(いまし)む。天誅(てんちう)至るに及びて罪悪自(おのづか)ら明(あきら)かとなるに反し、彼(か)の欺民(ぎみん)走狗(そうく)の徒(と)に至りては、人之(これ)を知らざるのみならず、天下挙(こぞ)つて之を誉(ほ)む。啻(ただ)に之を誉(ほ)むるのみならずして之を信奉す。其の害一時(いちじ)に現出すること無しと雖(いへど)も、其の一(ひと)たび現はるるに及びては、国家の命脈亦(また)危(あや)ふからむとす。之を獅子(しし)身中(しんちう)の虫に比するも敢(あへ)て失当(しつたう)にあらざるを覚(おぼ)ゆるものなり。
 吾人は又茲(ここ)に問ふベきことあり。宗教家は今日の思想界を如何(いか)に観(み)つつありやと。釈迦の出(いで)し時よりも、基督の起(おこ)りし時よりも、孔子の遊説(いうぜい)せし時よりも、現代は尚(なほ)一層甚(はなはだ)しき迷乱時代なるを知らずや。此の迷乱の時代を救ひて、国民思想を統一せむには、唯一の皇道あるのみ。宗教家にして若(も)し之を知りながら、殊更(ことさら)に其の宗教を布教すとならば国家の賊(ぞく)なり。若(も)し知らずして布教するとせば天下の愚(ぐ)なり。蓋(けだし)今日多くの宗教家は、真(しん)に民生(みんせい)を念(おも)ひ国家を憂(うれ)ふるの至誠より迸出(はうしゆつ)せる熱涙の布教にあらずして、布教のための布教を事(こと)とする徒(と)のみ。此の世智(せち)辛(がら)き世に傲然(がうぜん)として舌頭(ぜつとう)のみにて多大の金品を集め、都合の悪しき時のみ世事(せじ)我(われ)不関(くわんせず)焉(えん)と仰臥(ぎやうぐわ)し得るは、唯(ただ)所謂(いはゆる)宗教家あるのみ。基督曰(いは)く、貧しき者は幸福(さいはひ)なりと、又曰(いは)く、神は無くてはならぬ物を与へ給ふと、真(しん)に此の意を悟らば、布教の為に布教する宗教家は愧死(きし)すべき筈(はず)なり。
 我が国は明治の初めに於て、物質的進新(しんしん)を断行したり。今や此(この)重大時期に於て国の大祓(おほはらひ)を為し、大(おほい)に思想界の紛乱を正すべきの秋(とき)に当(あた)れり。世の賢明なる宗教家よ。日本の国土に於て、陛下の臣民として、祖神(そしん)の子孫として生(せい)を享(う)けたる上は、此の秋(とき)に当りて、宜(よろ)しく国家の将来を鑑(かんが)み、利(り)を捨て義(ぎ)を取り、私(わたくし)を去り公(おほやけ)に就き以て神州(しんしう)清潔の民(たみ)となり、天壌無窮の皇運を扶翼し奉(たてまつ)るベきにあらずや。
 聖書に『夫(そ)れ我(われ)来(きた)るは、人を其の父に背(そむ)かせ、子を其の母に背かせ、娘を其の姑(しうと)に背かせむがためなり。我(われ)よりも父母を愛(いつくし)むものは、我(われ)に協(かな)はざるものなり、我(われ)よりも子女(しぢよ)を愛(いつくし)むものは、我(われ)に協(かな)はざるものなり』とあるが、真面目(まじめ)に此の教(をしへ)に従ふものとすれば、父母を見れば尊し、妻子(めこ)見ればめぐしうつしとする我(わが)国民の本性を破壊するものなり。其の本性を枉(ま)げ、倫常(りんじやう)を無(な)みし、強(し)ひて直(ただち)に天父(てんぷ)に従はむとするもの、其の国民性、果(はた)して真面目(しんめんもく)なりと謂ふを得(う)べきか。
 我が国儒仏(じゆぶつ)伝来以降、甚(はなは)だ人性(じんせい)の真面目(しんめんもく)を欠きたり。鈴(すず)の屋(や)翁(をう)が『きもむかふ心(こころ)さくじりなかなかにからの教(をしへ)ぞ人(ひと)悪(あし)くする』『からさまのさかしら心(ごころ)うつりてぞ世人(よびと)の心(こころ)悪(あし)くなりぬる』と物(もの)せられたる、まことに所以(ゆゑん)なきにあらず。人或(あるひ)は言はむ、儒仏(じゆぶつ)は我が国に文化を導き、今日の大和(やまと)錦(にしき)を織りなしたるものなりと、他人の力(ちから)を藉(か)りて角(つの)を矯(た)めたるは可なりといへども、牛を殺せば終(つひ)に何等(なんら)の益(えき)かある。儒仏によりて制度文物(ぶんぶつ)の美を済(な)したるは可なり。然(しか)れども、国の命脈を維持する国民性を麻痺せしめたるの害は、挙げて数(かぞ)ふベからずとす。元来我が国民性は天真爛漫なるが故に、濶達(くわつたつ)なり、雄壮なり。素盞嗚尊、五十猛(いそたけるの)尊(みこと)の韓国経営といひ、少名彦(すくなひこの)命(みこと)の海外経営といひ、神功皇后の三韓征討といひ、其の他外(そと)に軍(いくさ)に従ひ大胆不敵なる調(つきの)伊企儺(いきな)の如きあり、又(また)婦女としての大葉子(おほばこ)の如きあり、毫(がう)も外教(ぐわいけう)浸潤(しんじゆん)後(ご)に於ける島国的(たうこくてき)にして意気地無き根性にはあらざりしなり。請ふ、天照大御神に曰(まを)し奉(たてまつ)る祈年祭の祝詞(のりと)を荘誦(さうしよう)せよ。

皇神(すめかみ)の見霽(みはるか)します四方(よも)の国は、天(あめ)の壁立(かべた)つ極(きは)み、国の退(そ)ぎ立つ限り、青雲(あをくも)の棚(たな)引(び)く極(きは)み、白雲(しらくも)の墜居(をりゐ)向伏(むかふ)す限り、青海原(あをうなばら)は棹舵(さをかぢ)干(ほ)さず、舟の艫(へ)の至り留(とどま)る極み、大海原(おほわだのはら)に舟満(み)ちつづけて、陸(くが)より往く道は荷緒(にのを)結(ゆ)ひ堅(かた)めて、磐根(いはね)木根(きね)履(ふ)みさくみて、馬(こま)の爪(つめ)の至り留(とどま)る限り、長道(ながぢ)間(ひま)無く立ちつづけて、狭(さ)き国は広く、峻(さか)しき国は平(たひら)けく、遠(とほ)けき国は八十綱(やそつな)打ち掛けて引き寄する事の如く、皇(すめ)大御神の依さし奉(まつ)らば、

と、何ぞ其の語の勇壮にして、意気の濶達(くわつたつ)なる。是れ実に我が上古(じやうこ)臣民の理想を代表するものにあらずや。然(しか)るに儒教入(い)りて禅譲(ぜんじやう)の風(ふう)を伝へ、老荘(らうさう)の学来(きた)りて許由(きよゆう)巣父(さうふ)の徒(と)生(しやう)じ、仏教渡りて悲観厭世(えんせい)の俗(ぞく)興(おこ)り、真面目(しんめんもく)の本性を晦蒙(くわいもう)すると共に、雄壮濶達(くわつたつ)の気象(きしやう)衰(おとろ)ふるに至りたり。彼(か)の、臣下として王位を左右したるは伊尹(いいん)の徒にあらずや。畏俗(ゐぞく)先生(せんせい)と称して山間(さんかん)に遁(のが)れたるは許由(きよゆう)の徒にあらずや。而(しか)して円頂(ゑんちやう)黒衣(こくい)以て世を遁れたるものに至りては枚挙に遑(いとま)あらず。上(かみ)は清和(せいわ)天皇の水尾山(みづのをやま)に入(い)り給ひたる、花山院(くわざんゐん)の妻子(さいし)珍宝(ちんぱう)及(および)王位(わうゐは)臨命終之時(いのちをはるときに)不随者(したがはざるもの)と、果敢(はか)なみて、世を捨て給へるを首(はじめ)として、臣下に至りては其の数(すう)計るべくもあらず。就中(なかんづく)、最も知られたるは西行(さいぎやう)法師なり。法師本名を佐藤(さとう)義清(よしはる)といふ。一夕(いつせき)知友の死に会ひ、無常を感じて出家す。出家したる後(のち)、彼(かれ)果(はた)して何をか得たる。其の鈴鹿山(すずかやま)を踰(こ)えむとするや、歌うて曰く『鈴鹿山(すずかやま)浮世(うきよ)を余所(よそ)にふり捨てて如何(いか)になり行く我が身なるらむ』と、彼もと生死の道を脱せむとして出家す、しかも身の成り行(ゆき)に迷ヘるにあらずや。又(また)歌ふらく、『願(ねが)はくは花の下(した)にて春(はる)死なむ』と、出家は元来身(み)を行雲(かううん)流水(りうすゐ)に托す、死所(ししよ)何ぞ必ずしも陽春(やうしゆん)花下(くわか)を俟(ま)たむ。彼(かれ)既(すで)に心(こころ)無しといふ、而(しか)も鴫立沢(しぎたつさは)の秋色(しうしよく)に対しては哀(あはれ)を感ぜざる能(あた)はざるは何ぞや。兼盛(かねもり)言ふ『忍ぶれど色(いろ)に出(で)にけり』と、心(こころ)内(うち)に在(あ)れば必ず外に表はる。人焉(いづく)んぞかくさむや。
 又鴨(かもの)長明(ちやうめい)は加茂(かもの)社(やしろ)の社人(しやじん)なり。社司(しやし)を望みて得ず、怒(いか)りて出家し、前に出家せしものに贈りて曰く『何処(いづこ)より人は入(い)りけむ真葛原(まくずはら)秋風(あきかぜ)吹きし道よりぞ来(き)し』と、何ぞ其の根性の不真面目にして横着なる。苟(いやし)くも神祇に仕ふる身にありながら、不都合にも些細(ささい)なる不平のために仏(ぶつ)に帰(き)したるなり。又入道(にふだう)右大弁(うだいべん)真観(しんくわん)なる者、屡々(しばしば)仙洞(せんとう)より召(め)さる、参らずして歌を上(たてまつ)りて曰く、『勅(ちよく)なればそむくにあらず捨て果てし身を出(い)で難(が)てに思ふばかりぞ』仙洞(せんとう)より御(ご)返事あり。曰く『此の頃の習(ならひ)ぞつらき古(いにしへ)は勅(ちよく)にぞ人は身をも捨ててき』と、真観(しんくわん)恐れて参りたりと云ヘり。是等(これら)は皆(みな)似而非(ゑせ)遁世者(とんせいしや)[*底本では「似而非」ではなく「以而非」だが誤字であろう。]にして世を欺(あざむ)くものなり。若(も)し夫れ真(しん)に世を捨つるとならば、何ぞ速(すみや)かに死せざる。此の世に生息する以上は、決して世を捨てたりとはいふべからず。普天(ふてん)の下(もと)率土(そつど)の浜(ひん)王土(わうど)にあらざるは無く、之に生息する者王臣(わうしん)にあらざるは無ければ、許由(きよゆう)頴川(えいせむ)に飲むも、尚(な)ほ堯沢(げうたく)を蒙(かうむ)り、伯夷(はくい)首陽(しゆやう)に蕨(わらび)を採るも、尚(な)ほ周(しう)の物を食(は)むなり。況(いは)んや生(せい)ある以上は山の奥にも鹿の声は聞(きこ)え、波の音を厭(いと)ヘばとて、松風の音を避(さ)くる事能(あた)はざるに於てをや。
 仏者(ぶつしや)に言はしむれば、仏教には小乗あり大乗あり、中古(ちうこ)時代の仏教は多く独善的の小乗なりしが故に弊(へい)ありしかど、大乗的教義に至りては然(しか)らずと。然(しか)れども仏教の入門は、到底(たうてい)悲観的厭世(えんせい)主義なるを免(まぬ)がるる能(あた)はず。出家にあらざれば道を得(う)る能はずとするを主義とす。教祖釈迦を初め、有(あ)らゆる祖師(そし)達(たち)、何(いづ)れか家を出(い)でずして得道(とくだう)したる。さればこそ兼好(けんかう)法師も『此世をはかなみ、かならず生死を出(い)でむとおもはむに、何の興(きよう)ありてか、朝夕(てうせき)君(きみ)につかへ、家をかへりみるいとなみのいさましからむ』又(また)『大事(だいじ)を思ひたらむ人は、さりがたく心にかからむ事のほいをとげずして、さながらすつベきなり』など言ひけれ。又(また)法華経にも『三界の安きこと無し、猶(なほ)火宅(くわたく)の如く衆苦(しうく)充満せり、甚(はなはだ)畏怖(ゐふ)すベし』といひ、仁王経(にわうきやう)にも『三界は皆苦(く)なり、国土も何の頼(たのみ)かあらむ』といへり。之を詮ずるに、仏教は四諦(したい)、即ち、苦集滅道(くしふめつだう)を以て綱目(かうもく)とし、其の苦観(くくわん)を以て関門とするは争ふべからざる所なり。是れ実に中古以来、我が国民性を麻痺せしめたる毒薬にして、其の証(しよう)今日(こんにち)の印度を見れば、自(おのづか)ら思(おもひ)半(なかば)に過ぎむ。
 天命(てんめい)は性(せい)にして、性(せい)に率(したが)ふを道といひ、道を修むるを教(けう)といふ以上、我が国の道は我が国民性に率(したが)ひ、我が国の教(をしへ)は我が国の道を修めざるベからず。而(しか)して今日(こんにち)の基督教は勿論(もちろん)、儒仏老荘(じゆぶつらうさう)の教(をしへ)は、既に我が国民性に協(かな)はずとすれば、我国に於ては、惟神(かむながら)の大道(だいだう)これあるのみとなるべき筈(はず)なり。

孝徳(かうとく)天皇大化(たいくわ)三年の詔(みことのり)に曰(のたまは)く、
惟神も我(あが)子(こ)治(しら)さむと故寄(ことよ)させき。是(こと)を以(もち)て天地(あめつち)の初(はじめ)より、君臨国(きみとしらすくに)也。始治国(はつくにしら)し皇祖(すめみおや)の時より天下(あめのした)大同(ととのほ)りて都(すべ)て彼此(かれこれ)云ふことなし云々(しかじか)

と、近藤(こんどう)芳樹(はうじゆ)翁(をう)之を解きて曰く、

掛巻(かけまく)もかしこけれど、我が豊葦原の中国(おほみくに)は、天照皇大神(てんせうくわうだいじん)の御任(みよさし)のまにまに、万世(ばんせい)を遠長(とほなが)く統御(しろしめす)べき美邦(うましくに)にしあれば、天下(あめのした)の臣庶(おほみたから)皆(みな)性(せい)を天神(あまつかみ)の産霊(むすび)に成して、心(こころ)直(なほ)く、身を真井(まなゐ)の清水(しみづ)に濯(すす)ぎて其(その)体(たい)潔(きよ)ければ、穢悪(きたな)く枉曲(まが)れる者をさをさ無くて、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)諸々(もろもろ)朝(みかど)を輔(たす)け、世を治むべき業(わざ)を家に伝へ、臣(おみ)連(むらじ)は其(その)姓(かばね)のまにまに仕(つかへ)奉(まつ)り、出(い)でては君(きみ)を尊(たふと)び、友(とも)と睦(むつ)び、入(い)りては父兄(おや)につかへ夫婦(めを)相(あひ)いつくしむ。神代(かみよ)ながらの無為(むゐ)の教(をしへ)にたがひめあらでなむ。是を惟神の道といふ。

 是れ実に我(わが)国民性に率(したが)ふ所の道にして、五倫五常一致の本義なり。されば五倫を尊ばざるは我が国の教(をしへ)にあらず。五常を重んぜざるは我が国の道にあらず。我が国の教(をしへ)にあらずして之を奉じ、我が国の道にあらずして之に遒(したが)ふ。これ本性を枉(ま)げ君親(きみおや)を無(な)みするものにして、畢竟(ひつきやう)乱臣(らんしん)賊子(ぞくし)たるを免(まぬが)れず。人或(あるひ)は言はむ。時勢の推移に連れて文物亦(また)変遷す。今日(こんにち)此の聖代に於て、上古(じやうこ)の道を論ずるは愚(ぐ)なりと、道(みち)豈(あ)に時の古今(ここん)に依つて変ずるものならむや。凡(およ)そ世の単位は人なり。人の思想の変遷につれて、時勢も亦(また)変遷するは免(まぬが)るベからざるも、吾人の所謂(いはゆる)道には非ざるなり。古語に曰く、一人(いちにん)仁(じん)に興(おこ)ると、故に一人(いちにん)にても過去の過(あやまち)を悔い、今日の行(おこなひ)を修(をさ)むる者あらば、漸次(ぜんじ)一家一村一国に及ぼし、遂には世の趨勢をも一変すべし。而して其の事(こと)たるや、之を遠くに求むるに非ずして、邇(ちか)く之を自己の本性真情(しんじやう)に求め、之を難(かた)きに施さずして、易き君臣(くんしん)父子(ふし)の間に行ふに在るなり。人既(すで)に一(ひと)たび真情を発す。鼎钁(ていくわく)も飴(あめ)の如く、水火(すゐくわ)も蒲団(ふとん)の如くならむ。何を苦しみて生死を離れ、何の遑(いとま)ありて天国を希(こひねが)はむ。思ふに我が国の現状思想界の混乱其(そ)の極(きよく)に達せむとす。曰く耶蘇(やそ)、曰く仏(ぶつ)、曰く儒(じゆ)、曰く俗神道(ぞくしんだう)、曰く東洋哲学、曰く西洋哲学と、而(しか)して其の内(うち)又(また)各宗各派各主義に分(わか)れ、甲論(かふろん)乙駁(おつぱく)、喧擾(けんぜう)紛争してやむ時(とき)無きなり。祝詞に所謂(いはゆる)磐根(いはね)樹根(きね)立草(たちくさ)の片葉(かきは)をも言間(ことと)ふの世なり。宜(むべ)なるかな人心の帰趨(きすう)統一せられざるや。
 之を要するに、今日の宗教家、哲学者等(たち)は、人心統一の必要は之を感じながら、一面には其の生存のために世を欺(あざむ)き、名を衒(てら)ひ、一面には深く天地(てんち)の大道(だいだう)を究(きは)めざるがために、其の帰結点を得ざるものなりとす。一般世人(せじん)に至りては、唯(ただ)彼等(かれら)の言(げん)にこれ聴くのみ。若(も)し然(しか)らずとならば、爾曹(なんぢ)が従来の教(をしへ)に固着するの陋(ろう)と、主義に束縛せらるるの弊(へい)とを離れ、日本国民の本性に復帰すべきなり。日本国民の本性に復帰して之を発揚し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉(まつ)る、之を惟神の大道とはいふなり。惟神の大道を離れて、而(しか)して日本国民たらむとするも得(う)べからざるなり。若(も)し強(し)ひて仏耶(ぶつや)其他(そのた)の教(をしへ)を奉ぜむとならば、乞ふ各々(おのおの)其国(そのくに)の民(たみ)となれ。
(大正七、七、一五号 神霊界)
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