霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第五章 反宗教運動

インフォメーション
題名:第5章 反宗教運動 著者:出口王仁三郎
ページ:22
概要: 備考:2023/10/02校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-02 11:55:19 OBC :B121802c106
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『人類愛善新聞』昭和6年6月3日
 今年(こんねん)神武(じんむ)紀元(きげん)二五九一年であるが、これをナンセンス的に解釈すれば二五九(じごく)(はじめ)()む。だから反宗教だの宗教否定運動だのと宗門(しうもん)の内外から騒ぎたててゐる。融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしう)菅長(くわんちやう)山上(やまがみ)戒全(かいぜん)()が既成宗教の打破を(さけ)むでゐるが、(いやし)くも一宗一派の菅長ともならう者が、一旦宗教界(しうけうかい)廓清(くわくせい)を図らうとするには余程の決心がなくてはならぬ。吾々(われわれ)より以上の勇気を持つてゐるに相違(そうゐ)()からう。勿論(もちろん)宗門内(しうもんない)の妨害や牽制(けんせい)があるにせよ、()れを決行するには地位を(なげう)つ覚悟がなくてはならぬ。
 宗教の改革は結構なことで、これによりて宗教家は刺戟(しげき)され(かへ)つて(あめ)()つて()(かた)まるであらう。既成宗教はこれから良くなりさうだ。私は(くち)にこそ出さぬが信仰生活に(はい)つた時から、宗教改革を実行してゐたものだ。今日(こんにち)の既成宗教家は信者から()はして貰つてゐる。それでは指導する事は出来ぬ。実際の宗教(しうけう)撲滅(ぼくめつ)は出来るものでない。()の好きな者は()、芝居の好きなものは芝居と言つたやうに、宗教は各人の心内(しんない)的のものだから、()くすることは人間を否定することになる。今日(こんにち)の仏教は三千年(ぜん)に、基督教(キリストけう)は二千年(ぜん)に出来たものであるから、日進(につしん)月歩(げつぽ)の時代には()はない。(いたづ)らに戒律や訓戒を設けて動きの取れぬものになつてゐる。五十年(まへ)の村の先生でも既に(おひ)ぼれになつてゐると同様に、宗教も人の造つたものである以上は矢張(やはり)時代(じだい)順応(じゆんおう)指導(しだう)をやらなければならぬ。日本の惟神(かむながら)大道(だいだう)――皇道は時代順応指導を具備し、皇典古事記の如きは言霊学(げんれいがく)天津(あまつ)神算木(かなぎ)(もつ)て読んで見ると、チヤンと飛行機のことから世の中の成行(なりゆき)まで一切が示されてゐる。だから皇道は融通自由で行詰(ゆきづま)ることが無い。(すなは)ち古事記は皇道の大本(たいほん)を説いたものに(ほか)ならぬ。(しか)し今の学者のやうな説き方では、いつ迄たつても判るもので無い。そこに皇道と古事記の尊さがある訳である。
(昭和六、六、三号、人類愛善新聞)
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