近来国幣社以上に奉仕する神職の多くは、神社は宗教以外に特立する者なりと云ふ迷論を主張する者あれども、吾人は常に神社も教派も共に信仰に因つて成立つものなる事を信じて疑はざるなり。如何となれば彼等は神社に於て水火難除等の守護札を領布し、又家内繁昌国家安全戦勝祈念の祭典を挙行しつつあるにあらずや。此守護札授与や戦勝祈念の如き、全然其基礎の信仰に隔離したるものと云ふを得べきや。祈念は勿論、一切の祭典儀式は皆之れ祈禱なり。祈禱は其根底を信仰に置かざるべからざる者なる事は万人の首肯する所なり。祈禱は果して信仰に基くものとすれば、神社も教派も倶に宗教の圏内を脱すべからざるは明白なり。同じ宗教圏内にても神社の側に於ては、過去の功績を報賽して尚ほ将来を祈願し、教派の側に在つては宇宙万有の主宰に在す大神の遺訓を遵奉して蒼生の接化輔導を理想とするものなり。功績報賽を主とする神社としては、国土経営に勤み給ひし大国主神、少彦名神、又は一族を挙げて義勇奉公の誠を捧げし楠公、其他君国の為め尽瘁して功績あるものは、高下尊卑を問はず祭祀するを得べしと雖も、遺訓の宣伝を主とし神人の感合を理想とする教派としては、神社の夫の如く祖先中の有功者、即ち国土経営に大功ありとか、皇室の危急を救ひ奉りしとか、又は逆賊を討伐して塗炭の苦みより民を助けしとかを以て、任意に祭祀すべきものにあらずして、必ず、天照皇太御神を斎かずむばあるべからざるなり。然るに今日の神道各派は此の明白なる事理を攪乱して、惟神大道の何物たるかの帰旨を明確に説明するなし。若し吾人の説をして更に確めむとせば各派の教規なるものを見よ、其祭神の種々雑多なる殆んど功績報賽を主とする、神社と毫も差異なきを発見せらるべきなり。
(明治四三、五、一〇号 直霊軍)