崇神天皇即位四年十月の詔に曰く
『惟ふに我皇祖、諸々の天皇等、宸極に光臨給へるは、豈、一身の為ならむや、蓋し人神を司牧て、天下を経綸し給ふ所以なり、故に能く世々玄功を開き、時に至徳を流き給へるなり云々』と仰せられて有りますが『人神を司牧て、天下を経綸す』とは即ち祭事を以つて政治を行はせらるる義であります。
又後宇多天皇の御製にも
天つ神国つ社を斎ひてそわが葦原の国は治まる
とありますが、祭事が我神国唯一の治国法でありまして、我国家施政の方針は、何れも皆な此の根本原則から割り出されたのであります。
故に古来国家の事は、臨時の大事は勿論、平時恒例の事でも、或は神意に問ひて教を請け、或は祈願奉告して行はれ、事終つて後にはまた奉告謝賽せられたもので、之が今日にも行はれて居るのであります。元来この国家の祭礼といふ事は、其形式に差異があり、又事に大小の別がありましても、一家の戸主が何か事を為すに当つて親に報告し又相談するのと意義に於ては異は無い、夫れが親の死後に於て如在の礼を以て行はれる時は、即ち一家の祭祀であります。故に国家祭祀の起原を尋ぬる時は、遠く神代に於て伊邪諾、伊邪册二尊の修理固成の祭に始まつて居るのであります。神代紀に依ると、初め諾册二尊が男女の道の先後を誤られましたが為に、不具なる蛭子を御産みになり、更に天神の教を受けて茲に功を奏せられたのでありますが、之れは恰も息子が最初家業に失敗して、更に老練なる親の教を受けて成功したのと同じ事で、諾册二尊としては善く天神を祭り給ひ、息子としては善く親を祭つたのであります。併し今日の所謂祭祀即ち一種の形式を備へた祭祀は、天孫瓊々岐命の降臨に濫觴して居るのであります。神代紀に依ると天孫瓊々岐命の降臨し給ふに際し、天照大御神は御手づから寶鏡を採りて之れを天孫に授けて詔く
『此れの鏡は、専ら我御魂として、吾前を拝がごと、斎き奉れ』
と、是れ我国典に「斎きまつる」といふ言葉の見えた初でありますが、また此の時、高皇産霊神は天兒屋命、太玉命に勅りし玉はく。
『吾は則ち天津神籬を構へ、天津磐境を起し樹て当に吾孫の御為に斎ひ奉らむ、汝、天兒屋命、太玉命宜しく、天津神籬を持ちて、葦原中津国に降て、亦吾孫の御為に斎ひ奉れ』と、是れ亦臣下に対して祭祀を教へ給うたのであります。磐境は斎境で斎場の意であります。神籬は霊籬木で祭典の時に神霊を招請して寄する木のことで、榊または松を用ひるのであります。されば爾来歴代の天皇は祭祀を以て為政の大本を為し玉ひ、一令を発し一事を行はるるにも私意を加へ給ふ事なく、殆んど皆神意を奉伺の上にて行はせられたのであります。それで国家の祭祀が荘重熾盛でありまして、上下貴賎ともに祖神に対して敬虔愛慕の情が熱して居た時は、概して天下泰平で、国に少々の乱があつても直ちに治り、国威国光も海外に輝くと言ふ状態であつたが、之に反して祭祀が衰へた時代の国家はどうも甚だしい内乱が発るとか、海外諸国との関係が面倒であるとか言ふ事故が比較的多かつた様であります。
抑々人皇第一代神武天皇が、日向より東征の軍を起し夥多の賊徒を誅戮して天下平定の功を奏し給ふや、皇祖天神を祭つて荘重なる御即位の式を行はれましたが、此れが今日の大嘗祭であります。又御即位後四年に
『我皇祖の霊天より降臨して朕が躬を光助し給へり、今諸虜既に平ぎ海内無事なり、以て天神を郊祀し大孝を申ぶべきなり』と仰せられて、霊畤を大和国宇陀郡榛原村の鳥見の山中に立てて皇祖天神の大祭を行はせられたのであります。降つて第十代の崇神天皇は又格別に神祇を崇敬在らせられ、従来のやうに神人同床では神祇を冒涜するの恐れありとて、別人別処の制を起し給ひ、又疫病流行して百姓の流離し三韓に関係して辺境に於て背叛するものあるや、天神地祇に祈りて夢に大物主神の諭告を得て、天下を順伏し、後世御肇国天皇と称し奉つた程であります。次で第十一代の垂仁天皇は亦御父崇神天皇御同様、神祇を崇敬し給ふて二十五年春二月詔して曰く
『我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇は、惟れ叡く聖に作ます、欽明聰達、深く謙損ことを執て、志沖退ことを懐き、機衡を綢繆、神祇を礼祭り、己を剋め身を勤め、日に一日を慎む、是を以て人民富足て天下太平なり、今、朕が世に当つて神祇を祭祀ること、豈怠り有るを得む乎』
かくして伊勢大神宮を興し給うたのであります。次に神功皇后が神明の救助に依り三韓を征し給ひたるが如きは、実に祭祀の為に国威が発揚したのであります。かくて神功皇后三韓征伐の結果応神天皇の御代に至り、百済国より論語及び千字文を献じて仏教伝来の端を開き、欽明天皇の十二年に百済の聖明王、仏像経論を奉りて仏教東漸の先導を為してより物部蘇我氏の軋轢を来たし、疫病の流行となり、蘇我氏の専横となり、馬子の大逆となり、遂に推古天皇の朝に於て聖徳太子の崇仏政治と成るに及んで国情一変し、我国固有の祭即政の大義は衰頽を来たしたのであります。元来我国の民性は慨して楽天的雄壮闊達であつて、過去現在未来などの観念なく、従つて宗教なるものも有らう筈が無かつたのであります。然るに仏教伝来に際し百済王が
『此法は、諸法中最も殊勝、解し難く入り難し、周公孔子も尚ほ知ること能はず、此法能く無量無辺の福徳果報を生じて乃至無上菩提を成し弁ふ、譬へば人の随意に宝を懐き随所に用ゐて、儘く情の依なるが如し』など出鱈目の表文を奉つて、我が単純なる敬神思想を惑乱せしめた。是も此の当時に於ても、迷信は有つたに違いは無いけれども、何れも仏教家輩のいふやうに仏教を雇入れてまで、国民思想を統一する必要も無かつたのであります。否此の仏教なるものが来て、国民思想の統一を計つて呉れたが為に、反つて国民の本性を濁して了うたのであります。聖徳太子の様に聡明叡智の御方さへも、我国固有の大道即ち敬神の大義を閑却されたのは返す返すも遺憾至極であります。其証拠には太子の御事業として仏教の為には非常に尽力なされたが、神祇の為に尽力なされた事は史実に在りませぬ。又国家の憲法を御作りに成つたが、其十七箇条の中に一言一句も神祇に係つて居ない。之に反して仏教の事になると『篤く宝を敬へ、三宝は仏法僧なり。則ち四生の終帰万国の極宗なり。何れの世何れの人か此法を貴ばざらむ。人、尤だ悪しきもの鮮し、能く教ふるをもて従ひぬ。其れ三宝に帰らずば、何を以て狂れるを直さむ』とまで言はれて有ります。苟も憲法にさへ此の通りでありますから、他は推知することが出来るではありませぬか。果然国家は未曽有の大紊乱を来たし、民性の楽天的なりしは悲観的となり、闊達なりしは卑屈となり、後世今日に至つても抜く事の出来ない程の禍根を植ゑて仕舞うたのであります。かくて皇極天皇の朝に及で蘇我氏専横の悪徳を積んで誅せられ、孝徳天皇御即位あつて中大兄皇子、藤原鎌足と図り大化の革新を断行し給ふや、聖徳太子の仏教政治を廃し、我国の祭政一致を主義として儒教及び唐制を参酌されました。
蓋此れは当時の国情として已むを得無かつたのであります。前に申した通り聖徳太子の崇仏政治の為に、国民の思想が益々混乱して一般の風習が追々悪しく成つて来たけれども、其本元の仏教には之を整理する所の道具が無い。仏教には個人自ら制裁する所の戒律は有つても、国家としての政治法を有せぬから手の付けやうがない。又我国古来の政治法は固有の風儀習慣に拠つて来たのであるから、判然たる法度を以て一一明細に記述するといふような事は出来ませぬ、故に此際最も現世的であつて道徳的政治学たる儒教、及び其れに基いて出来て居る唐制を採用せられたのは適当な事であります。併し儒教により唐制を模倣せられたとは言ひながら、聖徳太子の仏教に耽溺せられたやうに、儒教に迷はれたのでは有りませぬ。其著しき証拠としては、孝徳天皇の大化元年に、右大臣蘇我石川麻呂が、『先づ神祇を鎮祭りて後に政事を議らせ給へ』と奏するや、直に嘉納し玉ひて、其日倭漢直比羅夫を尾張の国に、忌部首子麻呂を美濃の国に遣はして供神の幣を課せられたるに因つて明白であります。又中大兄皇子(天智天皇)の帝位に登り給ふに及びて近江令を制定せられ、其後天武、文武の両朝に少々づつ修訂が加へられましたが、文武天皇の大宝年間に出来上がつたから之を大宝令と言ひます。其令に因りますと、神祇官なる職官を特別に設けて之を太政官の上に置き、職員や国家の祭祀の事が綿密に規定してあります。
北畠親房卿の職原抄に此の事を説明して『以当官置諸官之上是神国之風儀、重天神地祇故也。……又祭官之職者上古之重任也。又神国之故以当官置太政官之上乎』と言ふてあります。其神祇令に依ると、恒例の祭典が春に二回夏に七回秋に四回冬に六回あつて、臨時の祭典等も少くなかつたので有ります。又当時日本全国は大国、上国、中国、下国及大宰府といふやうな風に等級が分けてありましたが、何れも其国々の長官即ち今日の知事をして国内の神社祭祀等の事を掌らしめられたので、職員令に地方官の職掌中神祇の事を第一位に置いて『大国守一人掌祠社戸口簿帳云々上余守准此』とあります。また大宰府には長官たる帥の外に主神なる役目のものがあつて、令は主神を帥の上に置いて職掌としては主神は諸の祭祀の事を司り、帥は祠社戸口等其他の行政事務を掌るやうに書いてありますが、如何に其国体を重んじ本末を誤らぬやうに心を用ひられたかがしのばれるではありませぬか。又天武天皇は我国古伝の亡滅に帰せむことを憂慮あらせられて、記憶力の強い丹波国桑田郡稗田の郷の稗田阿礼に勅して誦せしめられたのを、元明天皇の和銅五年に太安万呂朝臣が筆記せられ古事記が出来上りました。次で元正天皇の養老四年に修史事業があつて、各々旧説異伝を集輯した日本書紀が出来上りました。尤も修史の事業は推古天皇の時、聖徳太子が蘇我馬子と協力して天皇記、国記を編録せられたのが、誅せられる時に預り蔵して居たのを焼いて了うた。しかし其時船史恵尺が火炎の中に飛び込んで国記だけを取り出したと言ふ事であります。して見ると聖徳太子も当時の国情に鑑みて国体に関する記伝の必要を感じられたに相違無いけれども、亦其事業に、大逆の馬子等が携はつたとして見れば、果して其の記録が正確神聖で有つたか否かが疑はれる。斯様に考へて見ると焼滅して却て国家後世の為に利益で有つたかも知れぬのであります。思ふに千載の今日又幾千万歳の後々までも、我国体の淵源を知り皇道の大義を闡明して、金甌無欠の国体を維持し、祖国として神国として世界に誇り得ることは、全く大化革新以後の歴代天皇が、外教輸入の為に思想界に大紊乱を来した後を掃蕩して力を国体保護の上に集注し給うた結果であります。曽て本居宣長翁が
善き事に禍事いつぎ禍事に善き事いつぐ世の中の道
と言はれましたが、右の様に因果関係を考へぬ次第であります。ところが、聖武天皇の御代に至つて仏教が非常に興隆すると反対に、我国固有の神道は甚だしく衰微を来たしたのであります。尤も此以前即ち聖徳太子の時代以来仏教は漸次弘布せられ、朝廷に於ても仏会修法などがありましたけれども、大化の革新の為に圧へられて目立つ程の事もなかつたが、漸く時も過ぎて改革の一段落が着くと共に、入唐して居た三論宗の僧道慈、唯識宗の僧玄昉の帰朝及び律宗の唐僧鑑真が来朝等に際会して、畏くも聖武天皇が親ら三宝の奴と称し給ひて大仏を造り、戒壇を築き、諸国に国分寺を建てて田地を与へ、国司をして之を検校せしめられた程の帰依信仰を得て、其結果僧侶の暴慢となり、僧玄昉の如きは恐れ多くも光明皇后に昵近し奉り、また一方には藤原広嗣の妻の美貌なるに横恋慕して広嗣の不在中之れを姦せむとし、遂に広嗣をして叛せしむるに至つた。同じ叛臣でも広嗣の如きは当時の事情から考へると実に気の毒な次第であります。又僧の行基出でて本地垂跡の説を唱へ、民心を欺瞞して一層仏法を弘通し、其幣たる遂に孝謙天皇の御代に及びて、朝紀の大紊乱となりて現はれ、恵美押勝に次で妖僧道鏡の寵幸を恣にするに至り、実に忌々しき一大汚点を国史の上に残して仕舞うたのであります。此の当時の事を歴史や物語りに依つて見ますと、胸一杯に成つて何とも彼とも言へぬ実に遺憾な次第であります。
かくて孝謙天皇崩じ給ひ光仁天皇が藤原百川の為に迎立され給ひてより、代々英明の天皇継承し玉ひ、藤原氏は外戚として漸次勢力を得て専横には成つて参りましたけれ共、余り甚だしい紊乱と称する程の事は無く、殊に宇多天皇の如きは、一段と英明の君にましまして、菅原道真を卑家から抜上げて一方藤原氏を抑へ、国家施政の細則たる延喜式五十巻を修定せられたのであります。之れは平田篤胤翁の『たまだすき』に細やかに解題がしてあります。
延喜式と云ふは全部で五十巻ありまして式条の御典でありますが、其初巻より第十巻までを神祇式とて神祇に関する御式を載せられ、あとの四十巻も神祇の事に約まる位で、八巻目は諸々の神々を祭らせ給ふ時の祝詞等を載せられ、その第一にある祈年祭の祝詞より最末にいたる大祓詞まで、悉く天下人民の為に為し給ふ神祭の御文にて、更に天皇御自体の為祈らせ給はず、天下の事を祈り玉ふに付て御自の御事にも及ぼせる御文であります。扨てその九巻目十巻目は神名帳とて、朝廷より御祭りある国々の神社の名を載せられてありますが、其数三千百三十二座、社の数すべて二千八百六十一処、之を延喜式内の社と云ふのでありますが、之によりて見れば如何に神祇に重きを置かれたかを知る事が出来るのであります。猶ほ神社の数は彼の式に漏れたのも少なくはなかつたので、同書に於て、此の外に国史に見えたる式外の社、また国史に漏れたる御社の朝廷より祭らせ玉ふものも多くありまして之を官知の社と申しました。また未官知の社と申して朝廷の御祭りに漏れたる社の数は、今委しくは尋ね知る事は出来ませぬ。蓋し各国の神階記に載せたる社の多きに准へて考へられませう。
諸書に、或は大社小社一万三千七百余社とも、或は神宮二万七千七百十三社、成宮神二千七百五十社、不成宮神一万九千社とも、或は大小神祇三千七百余処、上なるは一万三千社、下なるは粟三石数などあるを見ても、其数の多き事を弁知されるのであります。また平田翁は諸国の総社一ノ宮の由来に就て次の如く説いて居られます。総社と称する社は、多くは昔し国府の有りし地にありて式内にて其の神の社とある社を称することも多くありますが、亦式外にて只に総社と称するのも多くあります。此は按ふに、往昔国々の国司を置かれたる時に、その入府の初めに於て国守の神拝と申して、其国にある諸々の社を儘く巡拝し、又然らぬ時にも巡拝する式でありまして、其の社々を総祀ひて総社とせられましたが、また新に社を建てたのも多くありました。中には其国府の地なる一ノ宮に配せ斎ひ奉りたるものもありましたので、只に総社と言ふと式内にて、其社と云ふ社を称するも多しとの事であります。此に因つて見るも我国の敬神的政治の事実が知られます。然るに遺憾な事には僧行基が出でて本地垂跡の説を称へてより、次いで伝教や空海等が出でて本地垂跡両部習合の説を敷延し、巧に上下の信仰を撹乱してからは仏教思想が国内一般に浸み渡り、天照大神は大日如来、加茂住吉の神は正観音、春日の神は釈迦、松尾の神は毘婆尸仏の垂跡となり、社内に僧房を設け宝塔鐘樓を建て、瓦を以て社殿を葺き、丹色を以て柱門に塗り、神前に燈籠を懸け、樓門を設けて山門に擬し、隋身を置きて仁王に代へ、仏刹に鎮守の神、寺域に神祠があると云ふやうな状態に成つて神仏全く混合し、殊に嵯峨天皇以後は仏教の帰依篤く神祇官にも誦経を用ゐるやうになり、清和天皇は空海の門弟真雅を信じ仏教に関する事は聴従し給はざるはなく、宮中諸司をして僧を延き十善戒を受けしめ、万乗の尊位を捨て落飾して水尾山に入り、苦修難行体毀骨立して崩じ給うた位で、又最勝維摩仁王会法華の八講或は千僧万僧供養など法会と供養とは朝廷公事の大半を占める様になり、一般に厭世思想が盛んになつて、妻子珍宝及び王位臨命終時不随者と果敢みて位を逃れ給ひし花山天皇を始め奉り、厭世不平の輩王侯貴族の出家する者多く、仮令出家せずとも薙髪して入道など称し、加茂斎院の選子内親王すら西方に向ひて
おもへどもいむとていはぬ事なれば其方に向ひて音をのみぞなく
と詠ませ給うた位で、貴紳逝けば多くは其邸を寺院とし、浄財の喜捨多くして其勢力いよいよ強大になり、遂に僧徒の傲慢を来たし、手にも足にも合はぬやうに成つて仕舞つたのであります。
又一面には、藤原氏世々外戚となつて権勢専横を極め、一般文弱に流れて豪奢華美に赴き淫風熾に吹き荒んで盗賊所々に横行するも、一切武士に一任して歌舞に耽ると言ふ有様で、兵馬の権は何時とはなしに武門に落ち、遂には政権までも亦た武門に移りて、六百余年の間回復することの出来ぬやうに成つて了うたのであります。折角宇多天皇の御宇に、皇国の古儀に則り延喜式を制定せられても、国家の大勢に捲れて、一面には御躬も最澄の弟子円珍を信仰し灌頂受戒し給うたやうな訳で、祭政一致の美風を揮ひ起す事の出来なかつたのは遺憾千万であります。さり乍ら有難い事には右の様に仏教の大流行大勢力の時代を経ても、敬神の道は滅却されるまでに至らず、其の意義に多少の相違を来たし風儀が変形せられ乍らも、上下の間に伝つて参りましたので、国体の美風を維持する事が出来たのであります。順徳院の禁秘抄にも
『凡禁中作法、先神事後他事、 旦暮敬神之叡慮無懈怠、白地以神宮並内侍所方不為御跡、万物随出来、必先置台盤所棚、召女官被奉云々』
と仰せられてあります。
此れに依つて禁中の御作法の程を拝察する事が出来ます。また源頼朝でも敬神の念篤く、屡々鶴ケ岡八幡宮などへ参詣して居るやうでありますし、北条氏が執権として政柄を掌握するやうになつてからは、非常に神祇を尊び、泰時が制定した貞永式目には劈頭第一条に『神社を修理し祭礼を専らにす可き事』と言ふ項目を設けて時宗の式目未練抄には之を註釈して
『右神は人の敬に依りて威をまし、人は神の徳に依りて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢せしむること莫れ。茲により関東御分の国々並に荘園に於ては、地頭神主等、各其の趣を存し、精誠を致すべきなり。兼ては又有封の社に至りては、代々の符に任り小破の時且く修理を加へ、若大破に及ばば子細を言上せしむれば、其の左右に随ひ其の沙汰あるべし矣』と言ふてあります。
また時宗の時は、恰も蒙古の来襲に会して未曽有の危難でありました。当時の事は今更のぶる要もありませぬが、神威の著明であつた要点を申しますと、後宇多天皇の文永十一年十月、賊船筑前の博多に来た時に、我が軍は連戦連敗で非常に苦しみましたが、一夜大風雨起つて賊船多く岩礁に触れ、元軍の援兵たる高麗の大将が溺死を為し、遂に全軍夜中に遁れ去つて翌朝我軍が海面を望むと隻影だにも無かつたと言ふことであります。また弘安三年の役の時賊船が鷹嶋に拠つて居ましたが大風雨の前日、会々海中に青蛇現はれ硫黄の気天に満ちたので、賊将范文虎は恐れて忽ち軍を捨て遁れ去つたが、七月晦の夜より翌八月一日にかけて、大颶風興り十余万の賊の中生還者僅かに三人のみで有つたと言ふことであります。此当時の上下の心地如何で有りましたらうか、畏くも天皇は神祇官に臨御し親しく祈り給ふこと七昼夜、亀山上皇は石清水に詣でて旦に達するまで黙祷し給ひ、又大納言藤原経任を伊勢に遣はし宸筆の願文を大神宮に奉り、躬を以て国難に易らむ事を御祈りに成つたと申すことであります。今日の神を信じない科学万能主義の人々は、其れは秋から冬へかけては恰も九州西岸付近に暴風の起る折柄であつて、神為でも不思議でもない偶然の都合であると言ふのでありますが、それは大なる間違で、国体の真義に暗いから其様な途方もないことが言へるのであります。仮令時候の所変に依るとした処が、二度も賊船の居る時毎に起つたと言ふことは、余程不思議な所変と言はなければなりませぬ。
其後南北両朝に紛争から室町時代を経て戦国混乱の世に入りました。此の時代は最も大義名分など云ふ観念なく、日夜戦取攻略を専らにして居たのでありますが、斯る中にも長曽我部元親などは余程敬神の念が有つたものと見えまして、其の百箇条の掟の第一条に
『諸社の神事祭礼等先年より相定むる如く転退有る可らざる事
付いては其社領寄進の物を以て成る可き程者修理を加ふ可し。若し大破に及んで叶はざる時は奉行人迄相理す可き者也。右無沙汰に於ては神主社家曲事たる可き事』
と言うてあります。織田、毛利氏の勤王と相待つて、此の時代に於ては誠に珍らしき事ではありませぬか。また豊臣秀吉が耶蘇教を禁じたキリシタン法度に『日本は神国たる処、切支丹より邪法を授け候儀太以て不可然事』とあります。之を以てしても日本は神国なりと云ふ観念はあつたが、仏教国だの儒教国だのと言ふ念は無かつたといふ事が判ります。さて徳川氏は天子公卿の法度まで制定した程であつたが、皇室の尊ぶべき事、神祇の崇敬すべき事に心を用ひた事は、諸法度や史伝などにも散見する事が出来るのであります。但し徳川氏などのやり方は、大義名分の上から出たと言ふよりは、寧ろ主として政略上から割り出されて居るので、家康の他界前ある人が「あなた若し他界せられたら神として祭りませうか、又は仏として祭りませうか」と言うたら、「若し祀るのであつたら両方で祀つて呉れ、神下を治むる者は一方に偏しては行かない」と言うたと伝へられて居りますが、これ等は覇者として天下を治むる上より人心を収攬する点よりしては兎も角も、大義名分の上からは出来ない事であります。さりとて其当時では永き間仏教の感化を受け、加之大戦乱を経て間も無い時であるから、皇国固有の風儀も明かならず、国体といふ事も明瞭で無つたから何うも止むを得ぬ次第でありました。又一方には基督教を撲滅するために仏教を保護し、戸籍を寺院に於て執り扱はせた位でありますから、仏教は非常に勢力を得ましたが、皇国固有の肝心要めの神道は実に微々たるものでありました。けれども、亦徳川氏が文教、主に漢学を興隆した結果、国学もそれに関連して起り、大義名分が明かになり、終に明治維新の大業を見るに至つたのであります。
以上大略ながら歴世の施政方針と神祇との関係に付て述べて見ましたが、之を要するに欽明天皇以前即ち仏教伝来までは純然たる祭政一致の時代、仏教伝来より孝徳天皇即ち大化の改新までは神仏両思想の混争時代、大化より延喜即ち宇多天皇までは神祇制度の制定及び形式的祭政一致の存続時代、其以後明治になる前までは神道衰微時代とでも申しませうか。何れにしても純然たる祭政一致は仏教伝来以前でなければ見る事が出来ないのであります。さり乍ら其の後に、時代に応じて上に英明の天子ましまし、また下にも折々見識卓抜の士があつて、上古祭政一致の状態を伝へられることが出来ました御蔭で、今日のやうな思想界の大混乱せる時代でも、一度でも古典に目を触れた人は、国体の御真義を観る事を得て、一点の疑惑に陥らず、安心立命し得ると共に、東海の表に於て眇たる弾丸黒子の地を擁護し、金甌無欠の国体を保ち、世界に雄飛することが出来るのであります。是れ偏に彼の先賢に因りて伝へられたる固有の敬神崇祖の大観念が、国民全体に充溢して居るが為で、此の観念の消長に因り国家の興廃を来たすものなる事は、上述の事歴に依つて明かな事であります。
(大正五、五、一一号 敷島新報)