霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
×
設定
URL:
印刷用画面を開く [?]プリント専用のシンプルな画面が開きます。文章の途中から印刷したい場合は、文頭にしたい位置のアンカーをクリックしてから開いて下さい。[×閉じる]
話者名の追加表示 [?]セリフの前に話者名が記していない場合、誰がしゃべっているセリフなのか分からなくなってしまう場合があります。底本にはありませんが、話者名を追加して表示します。[×閉じる]
表示できる章
テキストのタイプ [?]ルビを表示させたまま文字列を選択してコピー&ペーストすると、ブラウザによってはルビも一緒にコピーされてしまい、ブログ等に引用するのに手間がかかります。そんな時には「コピー用のテキスト」に変更して下さい。ルビも脚注もない、ベタなテキストが表示され、きれいにコピーできます。[×閉じる]

文字サイズ
行間
ルビの表示


アンカーの表示 [?]本文中に挿入している3~4桁の数字がアンカーです。原則として句読点ごとに付けており、標準設定では本文の左端に表示させています。クリックするとその位置から表示されます(URLの#の後ろに付ける場合は数字の頭に「a」を付けて下さい)。長いテキストをスクロールさせながら読んでいると、どこまで読んだのか分からなくなってしまう時がありますが、読んでいる位置を知るための目安にして下さい。目障りな場合は「表示しない」設定にして下さい。[×閉じる]


宣伝歌 [?]宣伝歌など七五調の歌は、底本ではたいてい二段組でレイアウトされています。しかしブラウザで読む場合には、二段組だと読みづらいので、標準設定では一段組に変更して(ただし二段目は分かるように一文字下げて)表示しています。お好みよって二段組に変更して下さい。[×閉じる]
脚注[※]用語解説 [?][※]、[*]、[#]で括られている文字は当サイトで独自に付けた脚注です。[※]は主に用語説明、[*]は編集用の脚注で、表示させたり消したりできます。[#]は重要な注記なので表示を消すことは出来ません。[×閉じる]

脚注[*]編集用 [?][※]、[*]、[#]で括られている文字は当サイトで独自に付けた脚注です。[※]は主に用語説明、[*]は編集用の脚注で、表示させたり消したりできます。[#]は重要な注記なので表示を消すことは出来ません。[×閉じる]

外字の外周色 [?]一般のフォントに存在しない文字は専用の外字フォントを使用しています。目立つようにその文字の外周の色を変えます。[×閉じる]
現在のページには外字は使われていません

表示がおかしくなったらリロードしたり、クッキーを削除してみて下さい。

第二章 歴朝の施政方針

インフォメーション
題名:第2章 歴朝の施政方針 著者:出口王仁三郎
ページ:389
概要: 備考:2023/10/04校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-04 17:55:06 文字数:9643 OBC :B121802c161
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]:『敷島新報』大正5年5月11日
 崇神(すじん)天皇(てんわう)即位(そくゐ)四年(ねん)十月(ぐわつ)の詔(みことのり)に曰(いは)く
『惟(おも)ふに我(わが)皇祖(みおや)、諸々(もろもろ)の天皇(てんわう)等(たち)、宸極(あまつひつぎ)に光臨(のぼり)給(たま)へるは、豈(あに)、一身(いつしん)の為(ため)ならむや、蓋(けだ)し人神(じんしん)を司牧(ととのへ)[*牧の字は底本では「禾+攵」という文字を使つているが一般に日本書紀では「牧」が使われている。「禾+攵」は「牧」の異体字か?]て、天下(てんか)を経綸(けいりん)し給(たま)ふ所以(ゆえん)なり、故(ゆゑ)に能(よ)く世々(よよ)玄功(げんこう)を開(ひら)き、時(とき)に至徳(しとく)を流(し)き給(たま)へるなり云々(うんぬん)』と仰(おほ)せられて有(あ)りますが『人神(じんしん)を司牧(ととのへ)て、天下(てんか)を経綸(けいりん)す』とは即(すなは)ち祭事(まつりごと)を以(もつ)つて政治(せいぢ)を行(おこな)はせらるる義(ぎ)であります。
 又(また)後(ご)宇(う)多(だ)天皇(てんわう)の御製(ぎよせい)にも
天(あま)つ神(かみ)国(くに)つ社(やしろ)を斎(いは)ひてそわが葦原(あしはら)の国(くに)は治(をさ)まる
とありますが、祭事(まつりごと)が我(わが)神国(しんこく)唯一(ゆゐいつ)の治国(ちこく)法(はふ)でありまして、我(わが)国家(こくか)施政(しせい)の方針(はうしん)は、何(いづ)れも皆(み)な此(こ)の根本(こんぽん)原則(げんそく)から割(わ)り出(だ)されたのであります。
 故(ゆゑ)に古来(こらい)国家(こくか)の事(こと)は、臨時(りんじ)の大事(だいじ)は勿論(もちろん)、平時(へいじ)恒例(くわんれい)の事(こと)でも、或(あるひ)は神意(しんい)に問(と)ひて教(をしへ)を請(う)け、或(あるひ)は祈願(きぐわん)奉告(ほうこく)して行(おこな)はれ、事(こと)終(をは)つて後(のち)にはまた奉告(ほうこく)謝賽(しやさい)せられたもので、之(これ)が今日(こんにち)にも行(おこな)はれて居(を)るのであります。元来(ぐわんらい)この国家(こくか)の祭礼(さいれい)といふ事(こと)は、其(その)形式(けいしき)に差異(さい)があり、又(また)事(こと)に大小(だいせう)の別(べつ)がありましても、一家(いつか)の戸主(こしゆ)が何(なに)か事(こと)を為(な)すに当(あた)つて親(おや)に報告(ほうこく)し又(また)相談(さうだん)するのと意義(いぎ)に於(おい)ては異(かはり)は無(な)い、夫(そ)れが親(おや)の死後(しご)に於(おい)て如在(じよざい)の礼(れい)を以(もつ)て行(おこな)はれる時(とき)は、即(すなは)ち一家(いつか)の祭祀(さいし)であります。故(ゆゑ)に国家(こくか)祭祀(さいし)の起原(きげん)を尋(たづ)ぬる時(とき)は、遠(とほ)く神代(かみよ)に於(おい)て伊邪諾(いざなぎ)、伊邪册(いざなみ)二尊(にそん)の修理(しうり)固成(こせい)の祭(まつり)に始(はじ)まつて居(を)るのであります。神代紀(じんだいき)に依(よ)ると、初(はじ)め諾(なぎ)册(なみ)二尊(にそん)が男女(だんぢよ)の道(みち)の先後(せんご)を誤(あやま)られましたが為(ため)に、不具(ふぐ)なる蛭子(ひるこ)を御(お)産(う)みになり、更(さら)に天神(てんしん)の教(をしへ)を受(う)けて茲(ここ)に功(こう)を奏(そう)せられたのでありますが、之(こ)れは恰(あたか)も息子(むすこ)が最初(さいしよ)家業(かげふ)に失敗(しつぱい)して、更(さら)に老練(らうれん)なる親(おや)の教(をしへ)を受(う)けて成功(せいこう)したのと同(おな)じ事(こと)で、諾(なぎ)册(なみ)二尊(にそん)としては善(よ)く天神(てんしん)を祭(まつ)り給(たま)ひ、息子(むすこ)としては善(よ)く親(おや)を祭(まつ)つたのであります。併(しか)し今日(こんにち)の所謂(いはゆる)祭祀(さいし)即(すなは)ち一種(いつしゆ)の形式(けいしき)を備(そな)へた祭祀(さいし)は、天孫(てんそん)瓊々岐(ににぎの)命(みこと)の降臨(かうりん)に濫觴(らんしやう)して居(を)るのであります。神代紀(じんだいき)に依(よ)ると天孫(てんそん)瓊々岐(ににぎの)命(みこと)の降臨(かうりん)し給(たま)ふに際(さい)し、天照(あまてらす)大御神(おほみかみ)は御(み)手(て)づから寶鏡(はうきやう)を採(と)りて之(こ)れを天孫(てんそん)に授(さづ)けて詔(のたまは)く
『此(こ)れの鏡(かがみ)は、専(もは)ら我(あが)御魂(みたま)として、吾(あが)前(まへ)を拝(いつく)がごと、斎(いつ)き奉(まつ)れ』
と、是(こ)れ我(わが)国典(こくてん)に「斎(いつ)きまつる」といふ言葉(ことば)の見(み)えた初(はじめ)でありますが、また此(こ)の時(とき)、高皇(たかみ)産霊(むすびの)神(かみ)は天(あめの)兒屋(こやねの)命(みこと)、太玉(ふとだまの)命(みこと)に勅(みことの)りし玉(たま)はく。
『吾(あ)は則(すなは)ち天津(あまつ)神籬(ひもろぎ)を構(かま)へ、天津(あまつ)磐境(いはさか)を起(おこ)し樹(た)て当(まさ)に吾孫(すめみま)の御為(みため)に斎(いは)ひ奉(まつ)らむ、汝(いまし)、天(あめの)兒屋(こやねの)命(みこと)、太(ふと)玉(たまの)命(みこと)宜(よろ)しく、天津(あまつ)神籬(ひもろぎ)を持(も)ちて、葦原(あしはらの)中津(なかつ)国(くに)に降(あまくだり)て、亦(また)吾孫(すめみま)の御為(みため)に斎(いは)ひ奉(まつ)れ』と、是(こ)れ亦(また)臣下(しんか)に対(たい)して祭祀(さいし)を教(をし)へ給(たま)うたのであります。磐境(いはさか)は斎境(いはさか)で斎場(さいじやう)の意(い)であります。神籬(ひもろぎ)は霊籬木(ひもろぎ)で祭典(さいてん)の時(とき)に神霊(しんれい)を招請(せうせい)して寄(よ)する木(き)のことで、榊(さかき)または松(まつ)を用(もち)ひるのであります。されば爾来(じらい)歴代(れきだい)の天皇(てんわう)は祭祀(さいし)を以(もつ)て為政(しせい)の大本(たいほん)を為(な)し玉(たま)ひ、一令(いちれい)を発(はつ)し一事(いちじ)を行(おこな)はるるにも私意(しい)を加(くは)へ給(たま)ふ事(こと)なく、殆(ほと)んど皆(みな)神意(しんい)を奉伺(ほうし)の上(うへ)にて行(おこな)はせられたのであります。それで国家(こくか)の祭祀(さいし)が荘重(さうちよう)熾盛(しせい)でありまして、上下(じやうげ)貴賎(きせん)ともに祖神(そしん)に対(たい)して敬虔(けいけん)愛慕(あいぼ)の情(じやう)が熱(ねつ)して居(ゐ)た時(とき)は、概(がい)して天下(てんか)泰平(たいへい)で、国(くに)に少々(せうせう)の乱(らん)があつても直(ただ)ちに治(おさま)り、国威(こくゐ)国光(こくくわう)も海外(かいぐわい)に輝(かがや)くと言(い)ふ状態(じやうたい)であつたが、之(これ)に反(はん)して祭祀(さいし)が衰(おとろ)へた時代(じだい)の国家(こくか)はどうも甚(はなは)だしい内乱(ないらん)が発(おこ)るとか、海外(かいぐわい)諸国(しよこく)との関係(くわんけい)が面倒(めんだう)であるとか言(い)ふ事故(じこ)が比較(ひかく)的(てき)多(おほ)かつた様(やう)であります。
 抑々(そもそも)人皇(じんわう)第(だい)一代(だい)神武(じんむ)天皇(てんわう)が、日向(ひうが)より東征(とうせい)の軍(ぐん)を起(おこ)し夥多(くわた)の賊徒(ぞくと)を誅戮(ちゆうりく)して天下(てんか)平定(へいてい)の功(こう)を奏(そう)し給(たま)ふや、皇祖(くわうそ)天神(てんじん)を祭(まつ)つて荘重(さうちやう)なる御(ご)即位(そくゐ)の式(しき)を行(おこな)はれましたが、此(こ)れが今日(こんにち)の大嘗祭(だいじやうさい)であります。又(また)御(ご)即位(そくゐ)後(ご)四年(ねん)に
『我(わが)皇祖(みをや)の霊(みたま)天(てん)より降臨(こうりん)して朕(ちん)が躬(み)を光助(くわうじよ)し給(たま)へり、今(いま)諸虜(しよりよ)既(すで)に平(たひら)ぎ海内(かいだい)無事(ぶじ)なり、以(もつ)て天神(てんしん)を郊祀(こうし)し大孝(たいかう)を申(の)ぶべきなり』と仰(おほ)せられて、霊畤(れいじ)を大和国(やまとのくに)宇陀郡(うだぐん)榛原村(はりはらむら)の鳥見(とみ)の山中(さんちう)に立(た)てて皇祖(くわうそ)天神(てんじん)の大祭(たいさい)を行(おこな)はせられたのであります。降(くだ)つて第(だい)十代(だい)の崇神(すじん)天皇(てんわう)は又(また)格別(かくべつ)に神祇(しんぎ)を崇敬(すうけい)在(あ)らせられ、従来(じゆうらい)のやうに神人(しんじん)同床(どうしやう)では神祇(しんぎ)を冒涜(ぼうとく)するの恐(おそ)れありとて、別人(べつじん)別処(べつしよ)の制(せい)を起(おこ)し給(たま)ひ、又(また)疫病(えきびやう)流行(りうかう)して百姓(ひやくしやう)の流離(るり)し三韓(さんかん)に関係(くわんけい)して辺境(へんきやう)に於(おい)て背叛(はいはん)するものあるや、天神(てんしん)地祇(ちぎ)に祈(いの)りて夢(ゆめ)に大物主(おほものぬしの)神(かみ)の諭告(ゆこく)を得(え)て、天下(てんか)を順伏(じゆんぷく)し、後世(こうせい)御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と称(もう)し奉(たてまつ)つた程(ほど)であります。次(つい)で第(だい)十一代(だい)の垂仁(すいにん)天皇(てんわう)は亦(また)御父(おんちち)崇神(すじん)天皇(てんわう)御(ご)同様(どうやう)、神祇(しんぎ)を崇敬(すうけい)し給(たま)ふて二十五年(ねん)春(はる)二月(ぐわつ)詔(みことのり)して曰(のたまは)く
『我(わが)先皇(せんわう)御間城(みまき)入彦(いりひこ)五十瓊殖(いにゑの)天皇(すめらみこと)は、惟(こ)れ叡(さかし)く聖(ひじり)に作(まし)ます、欽明聰達(つつしみあきらかさとく)、深(ふか)く謙損(ゆづりすつる)ことを執(とり)て、志(こころざし)沖(むなしく)退(しりぞくる)ことを懐(いだ)き、機衡(まつりごと)を綢繆(すべをさめ)、神祇(しんぎ)を礼祭(いやまつ)り、己(おのれ)を剋(せ)め身(み)を勤(つと)め、日(ひ)に一日(いちにち)を慎(つつし)む、是(これ)を以(もつ)て人民(おほみたから)富(とみ)足(たり)て天下(てんか)太平(たひらか)なり、今(いま)、朕(ちん)が世(よ)に当(あた)つて神祇(しんぎ)を祭祀(いはひまつ)ること、豈(あに)怠(おこた)り有(あ)るを得(え)む乎(や)』
 かくして伊勢(いせ)大神宮(だいじんぐう)を興(おこ)し給(たま)うたのであります。次(つぎ)に神功(じんぐう)皇后(くわうごう)が神明(しんめい)の救助(きうじよ)に依(よ)り三韓(さんかん)を征(せい)し給(たま)ひたるが如(ごと)きは、実(じつ)に祭祀(さいし)の為(ため)に国威(こくゐ)が発揚(はつやう)したのであります。かくて神功(じんぐう)皇后(くわうごう)三韓(さんかん)征伐(せいばつ)の結果(けつくわ)応神(おうじん)天皇(てんわう)[*底本では「応神」ではなく「応仁」だが誤字であろう。]の御代(みよ)に至(いた)り、百済国(くだらのくに)より論語(ろんご)及(およ)び千字文(せんじもん)を献(けん)じて仏教(ぶつけう)伝来(でんらい)の端(たん)を開(ひら)き、欽明(きんめい)天皇(てんわう)の十二年(ねん)に百済(くだら)の聖明王(せいめいわう)、仏像(ぶつぞう)経論(きやうろん)を奉(たてまつ)りて仏教(ぶつけう)東漸(とうぜん)の先導(せんだう)を為(な)してより物部(もののべ)蘇我(そが)氏(し)の軋轢(あつれき)を来(き)たし、疫病(えきびやう)の流行(りうかう)となり、蘇我(そが)氏(し)の専横(せんわう)となり、馬子(うまこ)の大逆(たいぎやく)となり、遂(つひ)に推古(すいこ)天皇(てんわう)の朝(てう)に於(おい)て聖徳(しやうとく)太子(たいし)の崇仏(すうぶつ)政治(せいぢ)と成(な)るに及(およ)んで国情(こくじやう)一変(いつぺん)し、我国(わがくに)固有(こいう)の祭(まつり)即(すなはち)政(まつりごと)の大義(たいぎ)は衰頽(すいたい)を来(き)たしたのであります。元来(ぐわんらい)我国(わがくに)の民性(みんせい)は慨(がい)して楽天的(らくてんてき)雄壮(いうさう)闊達(かつたつ)であつて、過去(くわこ)現在(げんざい)未来(みらい)などの観念(くわんねん)なく、従(したが)つて宗教(しゆうけう)なるものも有(あ)らう筈(はづ)が無(な)かつたのであります。然(しか)るに仏教(ぶつけう)伝来(でんらい)に際(さい)し百済王(くだらわう)が
『此(この)法(のり)は、諸法(しよはう)中(ちう)最(もつと)も殊勝(しゆせう)、解(かい)し難(がた)く入(い)り難(がた)し、周公(しうこう)孔子(こうし)も尚(な)ほ知(し)ること能(あた)はず、此(この)法(のり)能(よ)く無量(むりやう)無辺(むへん)の福徳(ふくとく)果報(くわほう)を生(しやう)じて乃至(すなはち)無上(むじやう)菩提(ぼだい)を成(な)し弁(わきま)ふ、譬(たと)へば人(ひと)の随意(ずゐい)に宝(たから)を懐(いだ)き随所(ずゐしよ)に用(もち)ゐて、儘(ことごと)く情(こころ)の依(まま)なるが如(ごと)し』など出鱈目(でたらめ)の表文(へうぶん)を奉(たてまつ)つて、我(わ)が単純(たんじゆん)なる敬神(けいしん)思想(しさう)を惑乱(わくらん)せしめた。是(これ)も此(こ)の当時(とうじ)に於(おい)ても、迷信(めいしん)は有(あ)つたに違(ちが)いは無(な)いけれども、何(いづ)れも仏教家(ぶつけうか)輩(はい)のいふやうに仏教(ぶつけう)を雇(やとひ)入(い)れてまで、国民(こくみん)思想(しさう)を統一(とういつ)する必要(ひつえう)も無(な)かつたのであります。否(いな)此(こ)の仏教(ぶつけう)なるものが来(き)て、国民(こくみん)思想(しさう)の統一(とういつ)を計(はか)つて呉(く)れたが為(ため)に、反(かへ)つて国民(こくみん)の本性(ほんしやう)を濁(にご)して了(しま)うたのであります。聖徳(しやうとく)太子(たいし)の様(やう)に聡明(そうめい)叡智(えいち)の御方(おんかた)さへも、我国(わがくに)固有(こいう)の大道(たいだう)即(すなは)ち敬神(けいしん)の大義(たいぎ)を閑却(かんきやく)されたのは返(かへ)す返(がへ)すも遺憾(ゐかん)至極(しごく)であります。其(その)証拠(しやうこ)には太子(たいし)の御(ご)事業(じげふ)として仏教(ぶつけう)の為(ため)には非常(ひじやう)に尽力(じんりよく)なされたが、神祇(しんぎ)の為(ため)に尽力(じんりよく)なされた事(こと)は史実(しじつ)に在(あ)りませぬ。又(また)国家(こくか)の憲法(けんぱふ)を御(お)作(つく)りに成(な)つたが、其(その)十七箇(か)条(でう)の中(なか)に一言(いちげん)一句(いつく)も神祇(しんぎ)に係(かかは)つて居(ゐ)ない。之(これ)に反(はん)して仏教(ぶつけう)の事(こと)になると『篤(と)く宝(たから)を敬(うやま)へ、三宝(さんぽう)は仏法僧(ぶつぽふそう)なり。則(すなは)ち四生(しせい)の終帰(しうき)万国(ばんこく)の極宗(きよくしゆう)なり。何(いづ)れの世(よ)何(いづ)れの人(ひと)か此(この)法(のり)を貴(たつと)ばざらむ。人(ひと)、尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教(をし)ふるをもて従(したが)ひぬ。其(そ)れ三宝(さんぽう)に帰(よ)らずば、何(なに)を以(もつ)て狂(まが)れるを直(ただ)さむ』とまで言(い)はれて有(あ)ります。苟(いやしく)も憲法(けんぱふ)にさへ此(こ)の通(とほ)りでありますから、他(た)は推知(すいち)することが出来(でき)るではありませぬか。果然(くわぜん)国家(こくか)は未曽有(みぞう)の大(だい)紊乱(びんらん)を来(き)たし、民性(みんせい)の楽天(らくてん)的(てき)なりしは悲観的(ひくわんてき)となり、闊達(くわつたつ)なりしは卑屈(ひくつ)となり、後世(こうせい)今日(こんにち)に至(いた)つても抜(ぬ)く事(こと)の出来(でき)ない程(ほど)の禍根(くわこん)を植(う)ゑて仕舞(しま)うたのであります。かくて皇極(くわうきよく)天皇(てんわう)の朝(てう)に及(およん)で蘇我(そが)氏(し)専横(せんわう)の悪徳(あくとく)を積(つ)んで誅(ちう)せられ、孝徳(かうとく)天皇(てんわう)御(ご)即位(そくゐ)あつて中大兄(なかのおほえの)皇子(わうじ)、藤原(ふぢはら)鎌足(かまたり)と図(はか)り大化(たいくわ)の革新(かくしん)を断行(だんかう)し給(たま)ふや、聖徳(しやうとく)太子(たいし)の仏教(ぶつけう)政治(せいぢ)を廃(はい)し、我国(わがくに)の祭政(さいせい)一致(いつち)を主義(しゆぎ)として儒教(じゆけう)及(およ)び唐制(とうせい)を参酌(さんしやく)されました。
 蓋(けだし)此(こ)れは当時(とうじ)の国情(こくじやう)として已(や)むを得(え)無(な)かつたのであります。前(まへ)に申(まを)した通(とほ)り聖徳(しやうとく)太子(たいし)の崇仏(すうぶつ)政治(せいぢ)の為(ため)に、国民(こくみん)の思想(しさう)が益々(ますます)混乱(こんらん)して一般(いつぱん)の風習(ふうしう)が追々(おひおひ)悪(あ)しく成(な)つて来(き)たけれども、其(その)本元(ほんげん)の仏教(ぶつけう)には之(これ)を整理(せいり)する所(ところ)の道具(だうぐ)が無(な)い。仏教(ぶつけう)には個人(こじん)自(みづか)ら制裁(せいさい)する所(ところ)の戒律(かいりつ)は有(あ)つても、国家(こくか)としての政治(せいぢ)法(はふ)を有(いう)せぬから手(て)の付(つ)けやうがない。又(また)我国(わがくに)古来(こらい)の政治(せいぢ)法(はふ)は固有(こいう)の風儀(ふうぎ)習慣(しうくわん)に拠(よ)つて来(き)たのであるから、判然(はんぜん)たる法度(はつと)を以(もつ)て一一(いちいち)明細(めいさい)に記述(きじゆつ)するといふような事(こと)は出来(でき)ませぬ、故(ゆゑ)に此際(このさい)最(もつと)も現世(げんせ)的(てき)であつて道徳的(だうとくてき)政治(せいぢ)学(がく)たる儒教(じゆけう)、及(およ)び其(そ)れに基(もとづ)いて出来(でき)て居(ゐ)る唐制(とうせい)を採用(さいよう)せられたのは適当(てきたう)な事(こと)であります。併(しか)し儒教(じゆけう)により唐制(とうせい)を模倣(もはう)せられたとは言(い)ひながら、聖徳(しやうとく)太子(たいし)の仏教(ぶつけう)に耽溺(たんでき)せられたやうに、儒教(じゆけう)に迷(まよ)はれたのでは有(あ)りませぬ。其(その)著(いちぢる)しき証拠(しやうこ)としては、孝徳(かうとく)天皇(てんわう)の大化(たいくわ)元年(ぐわんねん)に、右大臣(みぎのおほおみ)蘇我(そが)石川麻呂(いしかはのまろ)が、『先(ま)づ神祇(かみ)を鎮祭(まつ)りて後(のち)に政事(まつりごと)を議(はか)らせ給(たま)へ』と奏(そう)するや、直(ただち)に嘉納(かなふ)し玉(たま)ひて、其日(そのひ)倭漢直(やまとのあやのあたへ)比羅夫(ひらふ)を尾張(をはり)の国(くに)に、忌部首(いむべのをびと)子麻呂(こまろ)を美濃(みの)の国(くに)に遣(つか)はして供神(けうしん)の幣(へい)を課(くわ)せられたるに因(よ)つて明白(めいはく)であります。又(また)中大兄(なかのおほえの)皇子(みこ)(天智(てんち)天皇(てんわう))の帝位(ていゐ)に登(のぼ)り給(たま)ふに及(およ)びて近江(おほみ)令(れい)を制定(せいてい)せられ、其後(そのご)天武(てんむ)、文武(もんぶ)の両朝(りやうてう)に少々(せうせう)づつ修訂(しうてい)が加(くわ)へられましたが、文武(もんぶ)天皇(てんわう)の大宝(たいほう)年間(ねんかん)に出来(でき)上(あが)がつたから之(これ)を大宝(たいほう)令(れい)と言(い)ひます。其(その)令(れい)に因(よ)りますと、神祇官(しんぎくわん)なる職官(しよくくわん)を特別(とくべつ)に設(まふ)けて之(これ)を太政官(だいじやうくわん)の上(うへ)に置(お)き、職員(しよくいん)や国家(こくか)の祭祀(さいし)の事(こと)が綿密(めんみつ)に規定(きてい)してあります。
 北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)卿(きよう)の職原抄(しよくげんしやう)に此(こ)の事(こと)を説明(せつめい)して『以当官(たうくわんをもつて)置諸官之上(しよくわんのうへにおく)是(これ)神国之風儀(しんこくのふうぎにして)、重天神地祇(てんしんちぎをおもんずる)故也(ゆゑなり)。……又(また)祭官(さいくわん)之(の)職(しよく)者(は)上古(じやうこ)之(の)重任(じゆうにん)也(なり)。又(また)神国(しんこく)之故以当官(なるのゆゑにたうくわんをもつて)置太政官之上乎(だいじやうくわんのうへにおく)』と言(い)ふてあります。其(その)神祇(しんぎ)令(れい)に依(よ)ると、恒例(かうれい)の祭典(さいてん)が春(はる)に二回夏(なつ)に七回秋(あき)に四回冬(ふゆ)に六回あつて、臨時(りんじ)の祭典(さいてん)等(とう)も少(すくな)くなかつたので有(あ)ります。又(また)当時(たうじ)日本(につぽん)全国(ぜんこく)は大国(たいごく)、上国(じやうごく)、中国(ちうごく)、下国(げごく)及(および)大宰府(だざいふ)といふやうな風(ふう)に等級(とうきふ)が分(わ)けてありましたが、何(いづ)れも其(その)国々(くにぐに)の長官(ちやうくわん)即(すなは)ち今日(こんにち)の知事(ちじ)をして国内(こくない)の神社(じんじや)祭祀(さいし)等(とう)の事(こと)を掌(つかさど)らしめられたので、職員令(しよくゐんれい)に地方官(ちはうくわん)の職掌(しよくしやう)中(ちう)神祇(しんぎ)の事(こと)を第(だい)一位(い)に置(お)いて『大国守(たいこくしゆ)一人(ひとり)掌祠社戸口簿帳(ししやここうぼちようをつかさどる)云々(うんぬん)上余守准此(じやうよのかみこれにならへ)』とあります。また大宰府(だざいふ)には長官(ちようくわん)たる帥(そつ)の外(ほか)に主神(しゆしん)なる役目(やくめ)のものがあつて、令(りやう)は主神(しゆしん)を帥(そつ)の上(うへ)に置(お)いて職掌(しよくしやう)としては主神(しゆしん)は諸(もろもろ)の祭祀(さいし)の事(こと)を司(つかさど)り、帥(そつ)は祠社戸(ししやこ)口等(こうとう)其他(そのた)の行政(ぎやうせい)事務(じむ)を掌(つかさど)るやうに書(か)いてありますが、如何(いか)に其(その)国体(こくたい)を重(おも)んじ本末(ほんまつ)を誤(あやま)らぬやうに心(こころ)を用(もち)ひられたかがしのばれるではありませぬか。又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)は我国(わがくに)古伝(こでん)の亡滅(ばうめつ)に帰(かへ)せむことを憂慮(いうりよ)あらせられて、記憶力(きおくりよく)の強(つよ)い丹波国(たんばのくに)桑田郡(くわたごほり)稗田(ひえだ)の郷(さと)の稗田(ひえだの)阿礼(あれ)に勅(ちよく)して誦(しよう)せしめられたのを、元明(げんめい)天皇(てんわう)の和銅(わどう)五年(ねん)に太(おほの)安万呂(やすまろ)朝臣(あそん)が筆記(ひつき)せられ古事記(こじき)が出来(でき)上(あが)りました。次(つい)で元正(げんしやう)天皇(てんわう)の養老(ようろう)四年(ねん)に修史(しうし)事業(じげふ)があつて、各々(おのおの)旧説(きうせつ)異伝(いでん)を集輯(しうしふ)した日本(にほん)書紀(しよき)が出来(でき)上(あが)りました。尤(もつと)も修史(しうし)の事業(じげふ)は推古(すいこ)天皇(てんわう)の時(とき)、聖徳(しやうとく)太子(たいし)が蘇我(そがの)馬子(うまこ)と協力(けうりよく)して天皇記(てんわうき)、国記(こくき)を編録(へんろく)せられたのが、誅(ちゆう)せられる時(とき)に預(あづか)り蔵(ざう)して居(をつ)たのを焼(や)いて了(しま)うた。しかし其時(そのとき)船史(ふねのふびと)恵尺(ゑさか)が火炎(くわえん)の中(なか)に飛(と)び込(こ)んで国記(こくき)だけを取(と)り出(だ)したと言(い)ふ事(こと)であります。して見(み)ると聖徳(しやうとく)太子(たいし)も当時(たうじ)の国情(こくじやう)に鑑(かんが)みて国体(こくたい)に関(くわん)する記伝(きでん)の必要(ひつえう)を感(かん)じられたに相違(さうゐ)無(な)いけれども、亦(また)其(その)事業(じげふ)に、大逆(たいぎやく)の馬子(うまこ)等(とう)が携(たづさ)はつたとして見(み)れば、果(はた)して其(そ)の記録(きろく)が正確(せいかく)神聖(しんせい)で有(あ)つたか否(いな)かが疑(うたが)はれる。斯様(かやう)に考(かんが)へて見(み)ると焼滅(しようめつ)して却(かへつ)て国家(こくか)後世(こうせい)の為(ため)に利益(りえき)で有(あ)つたかも知(し)れぬのであります。思(おも)ふに千載(せんざい)の今日(こんにち)又(また)幾(いく)千万(せんまん)歳(さい)の後々(のちのち)までも、我(わが)国体(こくたい)の淵源(ゑんげん)を知(し)り皇道(くわうだう)の大義(たいぎ)を闡明(たんめい)して、金甌(きんおう)無欠(むけつ)の国体(こくたい)を維持(いじ)し、祖国(そこく)として神国(しんこく)として世界(せかい)に誇(ほこ)り得(う)ることは、全(まつた)く大化(たいくわ)革新(かくしん)以後(いご)の歴代(れきだい)天皇(てんわう)が、外教(ぐわいけう)輸入(ゆにう)の為(ため)に思想(しさう)界(かい)に大(だい)紊乱(びんらん)を来(きた)した後(のち)を掃蕩(さうたう)して力(ちから)を国体(こくたい)保護(ほご)の上(うへ)に集注(しうちう)し給(たま)うた結果(けつくわ)であります。曽(かつ)て本居(もとをり)宣長(のりなが)翁(をう)が
善(よ)き事(こと)に禍事(まがこと)いつぎ禍事(まがこと)に善(よ)き事(こと)いつぐ世(よ)の中(なか)の道(みち)
と言(い)はれましたが、右(みぎ)の様(やう)に因果(いんぐわ)関係(くわんけい)を考(かんが)へぬ次第(しだい)であります。ところが、聖武(せいむ)天皇(てんわう)の御代(みよ)に至(いた)つて仏教(ぶつけう)が非常(ひじやう)に興隆(こうりゆう)すると反対(はんたい)に、我国(わがくに)固有(こいう)の神道(しんだう)は甚(はなは)だしく衰微(すゐび)を来(き)たしたのであります。尤(もつと)も此(この)以前(いぜん)即(すなは)ち聖徳(しやうとく)太子(たいし)の時代(じだい)以来(いらい)仏教(ぶつけう)は漸次(ぜんじ)弘布(ぐふ)せられ、朝廷(てうてい)に於(おい)ても仏会(ぶつえ)修法(しうはふ)などがありましたけれども、大化(たいくわ)の革新(かくしん)の為(ため)に圧(おさ)へられて目立(めだ)つ程(ほど)の事(こと)もなかつたが、漸(やうや)く時(とき)も過(す)ぎて改革(かいかく)の一段落(いちだんらく)が着(つ)くと共(とも)に、入唐(にうたう)して居(ゐ)た三論宗(さんろんしゆう)の僧(そう)道慈(だうじ)、唯識宗(ゆいしきしゆう)の僧(そう)玄昉(げんばう)の帰朝(きてう)及(およ)び律宗(りつしゆう)の唐僧(たうそう)鑑真(かんしん)が来朝(らいてう)等(とう)に際会(さいくわい)して、畏(かしこ)くも聖武(せいむ)天皇(てんわう)が親(みづか)ら三宝(さんぽう)の奴(ど)と称(しよう)し給(たま)ひて大仏(だいぶつ)を造(つく)り、戒壇(かいだん)を築(きづ)き、諸国(しよこく)に国分(こくぶ)寺(でら)を建(た)てて田地(でんち)を与(あた)へ、国司(こくし)をして之(これ)を検校(けんかう)せしめられた程(ほど)の帰依(きえ)信仰(しんかう)を得(え)て、其(その)結果(けつくわ)僧侶(さうりよ)の暴慢(ばうまん)となり、僧(そう)玄昉(げんばう)の如(ごと)きは恐(おそ)れ多(おほ)くも光明(くわうみよう)皇后(くわうごう)に昵近(ぢつきん)し奉(たてまつ)り、また一方(いつぱう)には藤原(ふじはら)広嗣(ひろつぐ)の妻(つま)の美貌(びぼう)なるに横恋慕(よこれんぼ)して広嗣(ひろつぐ)の不在(ふざい)中(ちう)之(こ)れを姦(かん)せむとし、遂(つひ)に広嗣(ひろつぐ)をして叛(はん)せしむるに至(いた)つた。同(おな)じ叛臣(はんしん)でも広嗣(ひろつぐ)の如(ごと)きは当(たう)時(じ)の事情(じじやう)から考(かんが)へると実(じつ)に気(き)の毒(どく)な次第(しだい)であります。又(また)僧(そう)の行基(ぎようき)出(い)でて本地(ほんち)垂跡(すゐじやく)の説(せつ)を唱(とな)へ、民心(みんしん)を欺瞞(ぎまん)して一層(いつさう)仏法(ぶつぱふ)を弘通(ぐつう)し、其(その)幣(へい)たる遂(つひ)に孝謙(かうけん)天皇(てんのう)の御代(みよ)に及(およ)びて、朝紀(てうき)の大紊乱(だいびんらん)となりて現(あら)はれ、恵美(ゑみ)押勝(おしかつ)に次(つい)で妖僧(えうそう)道鏡(だうきやう)の寵幸(ちようかう)を恣(ほしいまま)にするに至(いた)り、実(じつ)に忌々(いまいま)しき一大(いちだい)汚点(をてん)を国史(こくし)の上(うへ)に残(のこ)して仕舞(しま)うたのであります。此(こ)の当時(たうじ)の事(こと)を歴史(れきし)や物語(ものがた)りに依(よ)つて見(み)ますと、胸(むね)一杯(いつぱい)に成(な)つて何(なん)とも彼(か)とも言(い)へぬ実(じつ)に遺憾(ゐかん)な次第(しだい)であります。
 かくて孝謙(かうけん)天皇(てんわう)崩(はう)じ給(たま)ひ光仁(くわうに)天皇(てんわう)が藤原(ふじはら)百川(ももかは)の為(ため)に迎立(げいりつ)され給(たま)ひてより、代々(よよ)英明(えいめい)の天皇(てんわう)継承(けいしよう)し玉(たま)ひ、藤原(ふじはら)氏(し)は外戚(ぐわいせき)として漸次(ぜんじ)勢力(せいりよく)を得(え)て専横(せんわう)には成(な)つて参(まゐ)りましたけれ共(ども)、余(あま)り甚(はなは)だしい紊乱(びんらん)と称(しよう)する程(ほど)の事(こと)は無(な)く、殊(こと)に宇多(うだ)天皇(てんわう)の如(ごと)きは、一段(いちだん)と英明(えいめい)の君(きみ)にましまして、菅原(すがはらの)道真(みちざね)を卑家(ひけ)から抜(ぬき)上(あ)げて一方(いつぱう)藤原(ふじはら)氏(し)を抑(おさ)へ、国家(こくか)施政(しせい)の細則(さいそく)たる延喜式(えんぎしき)五十巻(くわん)を修定(しうてい)せられたのであります。之(こ)れは平田(ひらた)篤胤(あつたね)翁(をう)の『たまだすき』に細(こま)やかに解題(かいだい)がしてあります。
 延喜式(えんぎしき)と云(い)ふは全部(ぜんぶ)で五十巻(くわん)ありまして式条(しきでう)の御典(みふみ)でありますが、其(その)初巻(しよくわん)より第(だい)十巻(くわん)までを神祇式(じんぎしき)とて神祇(じんぎ)に関(くわん)する御式(おんしき)を載(の)せられ、あとの四十巻(くわん)も神祇(じんぎ)の事(こと)に約(つづ)まる位(くらゐ)で、八巻目(くわんめ)は諸々(もろもろ)の神々(かみがみ)を祭(まつ)らせ給(たま)ふ時(とき)の祝詞(のりと)等(とう)を載(の)せられ、その第一(だいいち)にある祈年祭(きねんさい)の祝詞(のりと)より最末(いやすゑ)にいたる大祓詞(おほはらひごと)まで、悉(ことごと)く天下(てんか)人民(じんみん)の為(ため)に為(な)し給(たま)ふ神祭(しんさい)の御文(みふみ)にて、更(さら)に天皇(てんわう)御(ご)自体(じたい)の為(ため)祈(いの)らせ給(たま)はず、天下(てんか)の事(こと)を祈(いの)り玉(たま)ふに付(つい)て御(おん)自(みづから)の御事(おんこと)にも及(およ)ぼせる御文(おんふみ)であります。扨(さ)てその九巻目(くわんめ)十巻目(くわんめ)は神名帳(しんめいちよう)とて、朝廷(てうてい)より御祭(おまつ)りある国々(くにぐに)の神社(じんじや)の名(な)を載(の)せられてありますが、其(その)数(すう)三千百三十二座(ざ)、社(やしろ)の数(かず)すべて二千八百六十一処(しよ)、之(これ)を延喜式(えんぎしき)内(ない)の社(やしろ)と云(い)ふのでありますが、之(これ)によりて見(み)れば如何(いか)に神祇(じんぎ)に重(おも)きを置(お)かれたかを知(し)る事(こと)が出来(でき)るのであります。猶(な)ほ神社(じんじや)の数(かず)は彼(か)の式(しき)に漏(も)れたのも少(すく)なくはなかつたので、同書(どうしよ)に於(おい)て、此(こ)の外(ほか)に国史(こくし)に見(み)えたる式外(しきぐわい)の社(やしろ)、また国史(こくし)に漏(も)れたる御社(みやしろ)の朝廷(てうてい)より祭(まつ)らせ玉(たま)ふものも多(おほ)くありまして之(これ)を官知(くわんち)の社(やしろ)と申(まを)しました。また未(み)官知(くわんち)の社(やしろ)と申(まを)して朝廷(てうてい)の御祭(おまつ)りに漏(も)れたる社(やしろ)の数(すう)は、今(いま)委(くは)しくは尋(たづ)ね知(し)る事(こと)は出来(でき)ませぬ。蓋(けだ)し各国(かくこく)の神階記(しんかいき)に載(の)せたる社(やしろ)の多(おほ)きに准(なぞら)へて考(かんが)へられませう。
 諸書(しよしよ)に、或(あるひ)は大社(たいしや)小社(せうしや)一万三千七百余(よ)社(しや)とも、或(あるひ)は神宮(じんぐう)二万七千七百十三社(しや)、成宮(せいぐう)神(じん)二千七百五十社(しや)、不(ふ)成宮(せいぐう)神(しん)一万九千社(しや)とも、或(あるひ)は大小(だいせう)神祇(じんぎ)三千七百余(よ)処(しよ)、上(うへ)なるは一万三千社(しや)、下(した)なるは粟(あは)三石数(ごくすう)などあるを見(み)ても、其(その)数(かず)の多(おほ)き事(こと)を弁知(べんち)されるのであります。また平田(ひらた)翁(おう)は諸国(しよこく)の総社(そうしや)一(いち)ノ宮(みや)の由来(ゆらい)に就(つい)て次(つぎ)の如(ごと)く説(と)いて居(を)られます。総社(そうしや)と称(しよう)する社(やしろ)は、多(おほ)くは昔(むか)し国府(こくふ)の有(あ)りし地(ち)にありて式内(しきない)にて其(そ)の神(かみ)の社(やしろ)とある社(やしろ)を称(しよう)することも多(おほ)くありますが、亦(また)式外(しきぐわい)にて只(ただ)に総社(そうしや)と称(しよう)するのも多(おほ)くあります。此(これ)は按(おも)ふに、往昔(わうせき)国々(くにぐに)の国司(くにのみこともち)を置(お)かれたる時(とき)に、その入府(にふふ)の初(はじ)めに於(おい)て国守(こくしゆ)の神拝(しんぱい)と申(まを)して、其(その)国(くに)にある諸々(しよしよ)の社(やしろ)を儘(ことごと)く巡拝(じゆんぱい)し、又(また)然(しか)らぬ時(とき)にも巡拝(じゆんぱい)する式(しき)でありまして、其(そ)の社々(やしろやしろ)を総(すべ)祀(いは)ひて総社(そうしや)とせられましたが、また新(あらた)に社(やしろ)を建(た)てたのも多(おほ)くありました。中(なか)には其(その)国府(こくふ)の地(ち)なる一(いち)ノ宮(みや)に配(あは)せ斎(いは)ひ奉(たてまつ)りたるものもありましたので、只(ただ)に総社(そうしや)と言(い)ふと式内(しきない)にて、其(その)社(やしろ)と云(い)ふ社(やしろ)を称(しよう)するも多(おほ)しとの事(こと)であります。此(これ)に因(よ)つて見(み)るも我国(わがくに)の敬神(けいしん)的(てき)政治(せいぢ)の事実(じじつ)が知(し)られます。然(しか)るに遺憾(ゐかん)な事(こと)には僧(そう)行基(ぎやうき)が出(い)でて本地(ほんち)垂跡(すゐぢやく)の説(せつ)を称(とな)へてより、次(つ)いで伝教(でんけう)や空海(くうかい)等(とう)が出(い)でて本地(ほんち)垂跡(すゐぢやく)両部(りやうぶ)習合(しうごう)の説(せつ)を敷延(しきのば)し、巧(たくみ)に上下(じやうげ)の信仰(しんかう)を撹乱(かくらん)してからは仏教(ぶつけう)思想(しさう)が国内(こくない)一般(いつぱん)に浸(し)み渡(わた)り、天照(あまてらす)大神(おほみかみ)は大日(だいにち)如来(によらい)、加茂(かも)住吉(すみよし)の神(かみ)は正観音(しやうくわんのん)、春日(かすが)の神(かみ)は釈迦(しやか)、松尾(まつを)の神(かみ)は毘婆尸仏(ひばしぶつ)[*底本では「毘婆尸神(じん)」だが神の垂迹が神だとおかしいので「仏(ぶつ)」に修正した。]の垂跡(すゐぢやく)となり、社内(しやない)に僧房(そうばう)を設(まう)け宝塔(ほうたう)鐘樓(しやうらう)を建(た)て、瓦(かわら)を以(もつ)て社殿(しやでん)を葺(ふ)き、丹色(たんせき)を以(もつ)て柱門(ちゆうもん)に塗(ぬ)り、神前(しんぜん)に燈籠(とうらう)を懸(か)け、樓門(らうもん)を設(まう)けて山門(さんもん)に擬(こら)し、隋身(ずゐしん)を置(お)きて仁王(にわう)に代(か)へ、仏刹(ぶつさつ)に鎮守(ちんじゆ)の神(かみ)、寺域(じゐき)に神祠(しんし)があると云(い)ふやうな状態(じやうたい)に成(な)つて神仏(しんぶつ)全(まつた)く混合(こんがふ)し、殊(こと)に嵯峨(さが)天皇(てんわう)以後(いご)は仏教(ぶつけう)の帰依(きえ)篤(あつ)く神祇官(じんぎくわん)にも誦経(しようきやう)を用(もち)ゐるやうになり、清和(せいわ)天皇(てんわう)は空海(くうかい)の門弟(もんてい)真雅(しんが)を信(しん)じ仏教(ぶつけう)に関(くわん)する事(こと)は聴従(ちようじゆう)し給(たま)はざるはなく、宮中(きゆうちゆう)諸司(しよし)をして僧(そう)を延(ひ)き十善戒(じゆうぜんかい)を受(う)けしめ、万乗(ばんじよう)の尊位(そんい)を捨(す)て落飾(らくしよく)して水尾山に入(い)り、苦修(くしう)難行(なんぎやう)体毀(たいき)骨立(こつりつ)して崩(ほう)じ給(たま)うた位(くらゐ)で、又(また)最勝(さいしやう)維摩(ゆいま)仁王会(にわうゑ)法華(ほつけ)の八講(はちかう)或(あるひ)は千僧(せんそう)万僧(まんぞう)供養(くやう)など法会(はふゑ)と供養(くやう)とは朝廷(てうてい)公事(くじ)の大半(たいはん)を占(し)める様(やう)になり、一般(いつぱん)に厭世(えんせい)思想(しさう)が盛(さか)んになつて、妻子(さいし)珍宝(ちんぱう)及(およ)び王位(わうゐ)臨命(りんめい)終時(しうじ)不随者(ふずゐしや)と果敢(はかな)みて位(くらゐ)を逃(のが)れ給(たま)ひし花山(かざん)天皇(てんのう)を始(はじ)め奉(たてまつ)り、厭世(えんせい)不平(ふへい)の輩王侯(やからわうこう)貴族(きぞく)の出家(しゆつけ)する者(もの)多(おほ)く、仮令(たとえ)出家(しゆつけ)せずとも薙髪(ちはつ)して入道(にうだう)など称(しよう)し、加茂(かも)斎院(さいいん)の選子(せんこ)内親王(ないしんわう)すら西方(せいはう)に向(むか)ひて
おもへどもいむとていはぬ事(こと)なれば其方(そのかた)に向(むか)ひて音(ね)をのみぞなく
と詠(よ)ませ給(たま)うた位(くらゐ)で、貴紳(きしん)逝(ゆ)けば多(おほ)くは其(その)邸(やしき)を寺院(じいん)とし、浄財(じようざい)の喜捨(きしや)多(おほ)くして其(その)勢力(せいりよく)いよいよ強大(きやうだい)になり、遂(つひ)に僧徒(そうと)の傲慢(がうまん)を来(き)たし、手(て)にも足(あし)にも合(あ)はぬやうに成(な)つて仕舞(しま)つたのであります。
 又(また)一面(いちめん)には、藤原(ふじはら)氏(し)世々(よよ)外戚(ぐわいせき)となつて権勢(けんせい)専横(せんわう)を極(きは)め、一般(いつぱん)文弱(ぶんじやく)に流(なが)れて豪奢(がうしや)華美(くわび)に赴(おもむ)き淫風(いんぷう)熾(さかん)に吹(ふ)き荒(すさ)んで盗賊(たうぞく)所々(しよしよ)に横行(わうかう)するも、一切(さい)武士(ぶし)に一任(いちにん)して歌舞(かぶ)に耽(ふけ)ると言(い)ふ有様(ありさま)で、兵馬(へいば)の権(けん)は何時(いつ)とはなしに武門(ぶもん)に落(お)ち、遂(つひ)には政権(せいけん)までも亦(ま)た武門(ぶもん)に移(うつ)りて、六百余(よ)年(ねん)の間(あひだ)回復(くわいふく)することの出来(でき)ぬやうに成(な)つて了(しま)うたのであります。折角(せつかく)宇多(うだ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、皇国(くわうこく)の古儀(こぎ)に則(のつと)り延喜式(えんぎしき)を制定(せいてい)せられても、国家(こくか)の大勢(たいせい)に捲(まか)れて、一面(いちめん)には御(み)躬(みづから)も最澄(さいちよう)の弟子(でし)円珍(えんちん)を信仰(しんかう)し灌頂(くわんぢやう)受戒(じゆかい)し給(たま)うたやうな訳(わけ)で、祭政(さいせい)一致(いつち)の美風(びふう)を揮(ふる)ひ起(おこ)す事(こと)の出来(でき)なかつたのは遺憾(ゐかん)千万(せんばん)であります。さり乍(なが)ら有難(ありがた)い事(こと)には右(みぎ)の様(やう)に仏教(ぶつけう)の大(だい)流行(りうかう)大(だい)勢力(せいりよく)の時代(じだい)を経(へ)ても、敬神(けいしん)の道(みち)は滅却(めつきやく)されるまでに至(いた)らず、其(そ)の意義(いぎ)に多少(たせう)の相違(さうゐ)を来(き)たし風儀(ふうぎ)が変形(へんけい)せられ乍(なが)らも、上下(じようげ)の間(あひだ)に伝(つたは)つて参(まゐ)りましたので、国体(こくたい)の美風(びふう)を維持(いじ)する事(こと)が出来(でき)たのであります。順徳院(じゆんとくいん)の禁秘抄(きんぴせう)にも
『凡禁中(およそきんちうの)作法(さはふ)、先神事(しんじをさきにし)後他事(たじをのちにす)、 旦暮(たんぼ)敬神之(けいしんの)叡慮(えいりよ)無懈怠(けたいすることなし)、白地(あからさまに)以神宮並内侍所方(じんぐうならびにないじしよかたをもつて)不為御跡(あととなさざれ)、万物(よろづのもの)随出来(できるにしたがひ)、必先(かならずまづ)置台盤所棚(だいばんじよだなにおき)、召女官(じよくわんをめして)被奉(まつらさる)云々(うんぬん)』
と仰(おふ)せられてあります。
 此(こ)れに依(よ)つて禁中(きんちう)の御作法(ごさはふ)の程(ほど)を拝察(はいさつ)する事(こと)が出来(でき)ます。また源(みなもと)頼朝(よりとも)でも敬神(けいしん)の念(ねん)篤(あつ)く、屡々(しばしば)鶴(つる)ケ岡(おか)八幡宮(はちまんぐう)などへ参詣(さんけい)して居(ゐ)るやうでありますし、北条(ほうじよう)氏(し)が執権(しつけん)として政柄(せいへい)を掌握(しようあく)するやうになつてからは、非常(ひじやう)に神祇(しんぎ)を尊(たふと)び、泰時(やすとき)が制定(せいてい)した貞永(でうえい)式目(しきもく)には劈頭(へきとう)第一(だいいち)条(でふ)に『神社(じんじや)を修理(しうり)し祭礼(さいれい)を専(もつぱ)らにす可(べ)き事(こと)』と言(い)ふ項目(こうもく)を設(まう)けて時宗(ときむね)の式目(しきもく)未練抄(みれんせう)には之(これ)を註釈(ちうしやく)して
『右神(みぎかみ)は人(ひと)の敬(けい)に依(よ)りて威(い)をまし、人(ひと)は神(かみ)の徳(とく)に依りて運(うん)を添(そ)ふ。然(さ)れば則(すなは)ち恒例(こうれい)の祭祀(さいし)陵夷(りようい)を致(いた)さず、如在(じよざい)の礼奠(れいてん)怠慢(たいまん)せしむること莫(なか)れ。茲(ここ)により関東(くわんとう)御分(おんわけ)の国々(くにぐに)並(ならび)に荘園(さうえん)に於(おい)ては、地頭(ぢとう)神主(かんぬし)等(ら)、各(おのおの)其(そ)の趣(おもむき)を存(そん)し、精誠(せいせい)を致(いた)すべきなり。兼(かね)ては又(また)有封(いうほう)の社(やしろ)に至(いた)りては、代々(よよ)の符(ふ)に任(よ)り小破(せうは)の時(とき)且(しばら)く修理(しうり)を加(くは)へ、若(もし)大破(たいは)に及(およ)ばば子細(しさい)を言上(ごんじやう)せしむれば、其(そ)の左右(さいう)に随(したが)ひ其(そ)の沙汰(さた)あるべし矣』と言(い)ふてあります。
 また時宗(ときむね)の時(とき)は、恰(あたか)も蒙古(まうこ)の来襲(らいしう)に会(くわい)して未曽有(みぞう)の危難(きなん)でありました。当時(たうじ)の事(こと)は今更(いまさら)のぶる要(えう)もありませぬが、神威(しんい)の著明(ちよめい)であつた要点(えうてん)を申(まを)しますと、後宇多(ごうだ)天皇(てんわう)の文永(ぶんえい)十一年(ねん)十月(ぐわつ)、賊船(ぞくせん)筑前(ちくぜん)の博多(はかた)に来(き)た時(とき)に、我(わ)が軍(ぐん)は連戦(れんせん)連敗(れんぱい)で非常(ひじやう)に苦(くる)しみましたが、一夜(いちや)大風雨(たいふうう)起(おこ)つて賊船(ぞくせん)多(おほ)く岩礁(がんしやう)に触(ふ)れ、元軍(げんぐん)の援兵(えんぺい)たる高麗(こま)の大将(たいしやう)が溺死(できし)を為(な)し、遂(つひ)に全軍(ぜんぐん)夜中(やちう)に遁(のが)れ去(さ)つて翌朝(よくてう)我軍(わがぐん)が海面(かいめん)を望(のぞ)むと隻影(せうえい)だにも無(な)かつたと言(い)ふことであります。また弘安(こうあん)三年(ねん)の役(えき)の時(とき)賊船(ぞくせん)が鷹嶋(たかしま)に拠(よ)つて居(ゐ)ましたが大風雨(だいふうう)の前日(ぜんじつ)、会々(たまたま)海中(かいちう)に青蛇(せいじや)現(あら)はれ硫黄(いわう)の気(き)天(てん)に満(み)ちたので、賊将(ぞくしやう)范(はん)文虎(ぶんこ)は恐(おそ)れて忽(たちま)ち軍(ぐん)を捨(す)て遁(のが)れ去(さ)つたが、七月(しちぐわつ)晦(みそか)の夜(よる)より翌(よく)八月(ぐわつ)一日(いちにち)にかけて、大(だい)颶風(ぐふう)興(おこ)り十余(よ)万(まん)の賊(ぞく)の中(うち)生還者(せいくわんしや)僅(わづ)かに三人(にん)のみで有(あ)つたと言(い)ふことであります。此(この)当時(たうじ)の上下(じやうげ)の心地(ここち)如何(いかが)で有(あ)りましたらうか、畏(おそれおほ)くも天皇(てんわう)は神祇官(しんぎくわん)に臨御(りんぎよ)し親(した)しく祈(いの)り給(たま)ふこと七昼夜(ちうや)、亀山(かめやま)上皇(じやうくわう)は石清水(いはしみづ)に詣(まを)でて旦(あした)に達(たつ)するまで黙祷(もくたう)し給(たま)ひ、又(また)大納言(だいなごん)藤原(ふぢはら)経任(つねとう)を伊勢(いせ)に遣(つか)はし宸筆(しんぴつ)の願文(ぐわんもん)を大神宮(だいじんぐう)に奉(たてまつ)り、躬(み)を以(もつ)て国難(こくなん)に易(かは)らむ事(こと)を御祈(おいの)りに成(な)つたと申(まを)すことであります。今日(こんにち)の神(かみ)を信(しん)じない科学(くわがく)万能(ばんのう)主義(しゆぎ)の人々(ひとびと)は、其(そ)れは秋(あき)から冬(ふゆ)へかけては恰(あだか)も九州(きうしう)西岸(せいがん)付近(ふきん)に暴風(ばうふう)の起(おこ)る折柄(をりから)であつて、神為(しんゐ)でも不思議(ふしぎ)でもない偶然(ぐうぜん)の都合(つがふ)であると言(い)ふのでありますが、それは大(だい)なる間違(まちがひ)で、国体(こくたい)の真義(しんぎ)に暗(くら)いから其様(そのやう)な途方(とはう)もないことが言(い)へるのであります。仮令(たとへ)時候(じかう)の所変(しよへん)に依(よ)るとした処(ところ)が、二度(にど)も賊船(ぞくせん)の居(ゐ)る時(とき)毎(ごと)に起(おこ)つたと言(い)ふことは、余程(よほど)不思議(ふしぎ)な所変(しよへん)と言(い)はなければなりませぬ。
 其後(そのご)南北(なんぼく)両朝(りやうてう)に紛争(ふんさう)から室町(むろまち)時代(じだい)を経(へ)て戦国(せんごく)混乱(こんらん)の世(よ)に入(い)りました。此(こ)の時代(じだい)は最(もつと)も大義(たいぎ)名分(めいぶん)など云(い)ふ観念(くわんねん)なく、日夜(にちや)戦取(せんしゆ)攻略(こうりやく)を専(もつぱ)らにして居(ゐ)たのでありますが、斯(かか)る中(うち)にも長曽我部(ちやうそがべ)元親(もとちか)などは余程(よほど)敬神(けいしん)の念(ねん)が有(あ)つたものと見(み)えまして、其(そ)の百箇(か)条(でう)の掟(おきて)の第一(だいいち)条(でう)に
『諸社(しよしや)の神事(しんじ)祭礼(さいれい)等(とう)先年(せんねん)より相(あひ)定(さだ)むる如(ごと)く転退(てんたい)有(あ)る可(べか)らざる事(こと)
 付(つい)いては其(その)社領(しやりやう)寄進(きしん)の物(もの)を以(もつ)て成(な)る可(べ)き程(ほど)者(は)修理(しうり)を加(くは)ふ可(べ)し。若(も)し大破(たいは)に及(およ)んで叶(かな)はざる時(とき)は奉行人(ぶぎやうにん)迄(まで)相(あひ)理(ただ)す可(べ)き者(もの)也(なり)。右(みぎ)無沙汰(むさた)に於(おい)ては神主(かんぬし)社家(しやけ)曲事(きよくじ)たる可(べ)き事(こと)』
と言(い)うてあります。織田(おだ)、毛利(まうり)氏(し)の勤王(きんわう)と相待(あひま)つて、此(こ)の時代(じだい)に於(おい)ては誠(まこと)に珍(めづ)らしき事(こと)ではありませぬか。また豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)が耶蘇(やそ)教(けう)を禁(きん)じたキリシタン法度(はつと)に『日本(につぽん)は神国(しんこく)たる処(ところ)、切支丹(キリシタン)より邪法(じやはふ)を授(さづ)け候(さふらう)儀(ぎ)太(はなはだ)以(もつ)て不可然事(しかるべからざること)』とあります。之(これ)を以(もつ)てしても日本(につぽん)は神国(しんこく)なりと云(い)ふ観念(くわんねん)はあつたが、仏教国(ぶつけうこく)だの儒教国(じゆけうこく)だのと言(い)ふ念(ねん)は無(な)かつたといふ事(こと)が判(わか)ります。さて徳川(とくがは)氏(し)は天子(てんし)公卿(くげ)の法度(はつと)まで制定(せいてい)した程(ほど)であつたが、皇室(くわうしつ)の尊(たふと)ぶべき事(こと)、神祇(しんぎ)の崇敬(すうけい)すべき事(こと)に心(こころ)を用(もち)ひた事(こと)は、諸(しよ)法度(はつと)や史伝(しでん)などにも散見(さんけん)する事(こと)が出来(でき)るのであります。但(ただ)し徳川(とくがは)氏(し)などのやり方(かた)は、大義(たいぎ)名分(めいぶん)の上(うへ)から出(で)たと言(い)ふよりは、寧(むし)ろ主(しゆ)として政略(せいりやく)上(じやう)から割(わ)り出(だ)されて居(ゐ)るので、家康(いへやす)の他界(たかい)前(ぜん)ある人(ひと)が「あなた若(も)し他界(たかい)せられたら神(かみ)として祭(まつ)りませうか、又(また)は仏(ぶつ)として祭(まつ)りませうか」と言(い)うたら、「若(も)し祀(まつ)るのであつたら両方(りやうはう)で祀(まつ)つて呉(く)れ、神下(てんか)を治(おさ)むる者(もの)は一方(はう)に偏(へん)しては行(ゆ)かない」と言(い)うたと伝(つた)へられて居(を)りますが、これ等(ら)は覇者(はしや)として天下(てんか)を治(おさ)むる上(うへ)より人心(じんしん)を収攬(しうらん)する点(てん)よりしては兎(と)も角(かく)も、大義(たいぎ)名分(めいぶん)の上(うへ)からは出来(でき)ない事(こと)であります。さりとて其(その)当時(たうじ)では永(なが)き間(あひだ)仏教(ぶつけう)の感化(かんくわ)を受(う)け、加之(しかのみならず)大(だい)戦乱(せんらん)を経(へ)て間(ま)も無(な)い時(とき)であるから、皇国(くわうこく)固有(こいう)の風儀(ふうぎ)も明(あきら)かならず、国体(こくたい)といふ事(こと)も明瞭(めいれう)で無(なか)つたから何(ど)うも止(や)むを得(え)ぬ次第(しだい)でありました。又(また)一方(いつぱう)には基督(きりすと)教(けう)を撲滅(ぼくめつ)するために仏教(ぶつけう)を保護(ほご)し、戸籍(こせき)を寺院(じゐん)に於(おい)て執(と)り扱(あつか)はせた位(くらゐ)でありますから、仏教(ぶつけう)は非常(ひじやう)に勢力(せいりよく)を得(え)ましたが、皇国(くわうこく)固有(こいう)の肝心(かんじん)要(かな)めの神道(しんだう)は実(じつ)に微々(びび)たるものでありました。けれども、亦(また)徳川(とくがは)氏(し)が文教(ぶんけう)、主(おも)に漢学(かんがく)を興隆(こうりゆう)した結果(けつくわ)、国学(こくがく)もそれに関連(くわんれん)して起(おこ)り、大義(たいぎ)名分(めいぶん)が明(あきら)かになり、終(つい)に明治(めいぢ)維新(ゐしん)の大業(たいげふ)を見(み)るに至(いた)つたのであります。
 以上(いじやう)大略(たいりやく)ながら歴世(れきせい)の施政(しせい)方針(はうしん)と神祇(しんぎ)との関係(くわんけい)に付(つい)て述(の)べて見(み)ましたが、之(これ)を要(えう)するに欽明(きんめい)天皇(てんわう)以前(いぜん)即(すなは)ち仏教(ぶつけう)伝来(でんらい)までは純然(じゆんぜん)たる祭政(さいせい)一致(いつち)の時代(じだい)、仏教(ぶつけう)伝来(でんらい)より孝徳(かうとく)天皇(てんわう)即(すなは)ち大化(たいくわ)の改新(かいしん)までは神仏(しんぶつ)両(りやう)思想(しさう)の混争(こんさう)時代(じだい)、大化(たいくわ)より延喜(えんぎ)即(すなは)ち宇多(うだ)天皇(てんわう)までは神祇(しんぎ)制度(せいど)の制定(せいてい)及(およ)び形式(けいしき)的(てき)祭政(さいせい)一致(いつち)の存続(そんぞく)時代(じだい)、其(その)以後(いご)明治(めいぢ)になる前(まへ)までは神道(しんだう)衰微(すいび)時代(じだい)とでも申(まを)しませうか。何(いづ)れにしても純然(じゆんぜん)たる祭政(さいせい)一致(いつち)は仏教(ぶつけう)伝来(でんらい)以前(いぜん)でなければ見(み)る事(こと)が出来(でき)ないのであります。さり乍(なが)ら其(そ)の後(ご)に、時代(じだい)に応(おう)じて上(うへ)に英明(えいめい)の天子(てんし)ましまし、また下(した)にも折々(をりをり)見識(けんしき)卓抜(たくばつ)の士(し)があつて、上古(じやうこ)祭政(さいせい)一致(いつち)の状態(じやうたい)を伝(つた)へられることが出来(でき)ました御蔭(おかげ)で、今日(こんにち)のやうな思想界(しさうかい)の大(だい)混乱(こんらん)せる時代(じだい)でも、一度(いちど)でも古典(こてん)に目(め)を触(ふ)れた人(ひと)は、国体(こくたい)の御真義(ごしんぎ)を観(み)る事(こと)を得(え)て、一点(いつてん)の疑惑(ぎわく)に陥(おちい)らず、安心(あんしん)立命(りつめい)し得(う)ると共(とも)に、東海(とうかい)の表(おもて)に於(おい)て眇(べう)たる弾丸(だんぐわん)黒子(こくし)の地(ち)を擁護(えうご)し、金甌(きんおう)無欠(むけつ)の国体(こくたい)を保(たも)ち、世界(せかい)に雄飛(いうひ)することが出来(でき)るのであります。是(こ)れ偏(ひとへ)に彼(か)の先賢(せんけん)に因(よ)りて伝(つた)へられたる固有(こいう)の敬神(けいしん)崇祖(すうそ)の大(だい)観念(くわんねん)が、国民(こくみん)全体(ぜんたい)に充溢(じういつ)して居(ゐ)るが為(ため)で、此(こ)の観念(くわんねん)の消長(せうちやう)に因(よ)り国家(こくか)の興廃(こうはい)を来(き)たすものなる事(こと)は、上述(じやうじゆつ)の事歴(じれき)に依(よ)つて明(あきら)かな事(こと)であります。
(大正五、五、一一号 敷島新報)
このページに誤字・脱字や表示乱れなどを見つけたら教えて下さい。
返信が必要な場合はメールでお送り下さい。【メールアドレス】
合言葉「みろく」を入力して下さい→