古は地方に由つて、杓子は其家の主婦でなければ食物を受授するの権利を有しなかつた。それ故御飯の時の碗に盛る飯なども、必ず其家の主婦が之を盛ると云ふ風習になつて居たものである。
古の民謡にも、
添うて八年子の有る仲だ 嫁に杓子を渡さんせ。
年がよりても耄碌しても 嫁に杓子は渡されぬ。
などあるのも、皆一家経済上の権利受授の代表たるべきものは杓子であつた事が分明である。右の二首の民謡の一は、嫁と姑との中に入つた聟の歎息で、一は飽く迄も主婦の権利を持続しようとする姑の主張を謡つたものである。併し嫁を貰ふと直ぐに杓子の権利を嫁に譲る姑も少くは無かつたのである。
この権利を嫁に譲ること即ち姑が嫁に世帯を任せるを杓子を渡すと云ひ、それから以後は飯を嫁に盛らせるのである。右の如く昔は杓子は生命の源泉たる食物を盛る為め一種の主婦権として貴重視されて居たのである。
大本に於て大正十二年以来御手代として杓子を信仰堅実なる信者に渡すことに神定されたのも、未申の金神瑞の大神が、丁度姑が嫁に権利を譲渡すると同様に治病一切の神権を譲つて下さると云ふ御経綸であつて杓子の拝戴者は実に神の殊恩に浴したる人と云ふべきものである。御手代の神力無限なる理由は、実にこの意義から特別の御神護あるものと察する事が出来るのであります。
又盃や茶碗、拇印なども御手代の一つであつて、杓子と同様の御神護あるべきものであります。大本信徒は既に已に実験されて居る筈である。アゝ惟神霊幸倍坐世。
(大正一五・六・一五号 真如の光誌)