霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(八)

インフォメーション
題名:(八) 著者:浅野和三郎
ページ:197
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142500c52
 秋の丹波を書き出したところが、ツイ持前(もちまへ)の道楽気分が首を(もた)げて、食ふことや遊ぶことばかり並べ立てた。これで筆を()いては少々寝覚めが悪いから、最後に秋の収穫の(うち)で優れて大切であつたものを紹介して、罪滅しをして置かう。それは(ほか)でもない、教祖出口直子刀自(とじ)の御写真を撮らして貰つたことであつた。大正六年の秋の最も貴重な獲物は、柿や栗や松茸ではなく、実にわれ()教御祖(をしへみおや)の最後の御写真であつた。
 兄は海軍部内でも有名な写真狂で、その道楽は江田島(えたじま)の教官をつとめた大尉時代から姶まつたやうだ。それからといふものは、旅行も、遠足も、日常生活も、皆写真を基調として計画按配せらるるかと思はれる程で、最近二十幾年の間に、兄から苦心譚(くしんだん)つきで見せつけられた景色の写真、人物の写其は幾百千枚に(のぼ)るか知れない。往年舞鶴の参謀時代には、写真の為めにわざわざこの綾部にも来たことがあるさうで、成る程和知(わち)沿岸の山水(さんすゐ)は、単に写真(がん)から見ても立派なものに相違ない。
 近頃は年齢(とし)所為(せゐ)か、その写真道楽が幾分下火になつたやうだが、大正六年頃はまだ却々(なかなか)旺盛(さかん)なものであつた。十月三十日東京出張の途次(とじ)綾部へ立寄つた時にも、一台の写真器械を携帯に及んで居た。教祖さんの写真の問題はこれから(おこ)つた。
什麼(どう)だらう、一つ撮らして貰へぬだらうか。教祖さんも御老体だから一枚残して置く方がよいと思ふ……』
『さア明日行つて先生と相談して見ませう』
 兄と自分との間には晩餐(ばんめし)の際に斯麼(こんな)話が出た。自分は教祖さんが写真に対して、極度に慎重の態度を執つて居られることを熟知して居るから、(はた)して承認を与へられるや否やにつきて、(すくな)からぬ懸念を()つて居た。これまでに教祖さん御単独(おひとり)でお撮りになつたのは、たツた一枚しかない。それも余程以前のものだ。(ほか)に家族及び役員と一緒に写されたのが二枚ばかりもあらう。何時(いつ)かも自分から写真のことを(まをし)上げると、
『私のやうなものが!』
と容易に(うけ)つけられる模様がなかつた。
 この謙遜な(あく)まで控へ目の態度こそ、実に教祖さんの有難いところであつた。(いやし)くも一代を指導し、一世(いつせい)師表(しへう)たるべき人の平生(へいぜい)心懸(こころがけ)には、何処(どこ)かに違つた箇所(ところ)がある。(たま)(きず)(たとへ)の如く、兎角何人(なにびと)にも一つや二つの癖があるものだ。ところが教祖さんにはそれがなかつた。故にその癖に(おもね)つて付け込むべき余地がなかつた。
 (たと)へば写真にしてもさうだ。写真を撮るのが好きだとあれば、写真を(たね)に使ふ者が其周囲に雲霞(うんか)の如く集まる。写真を好むといふことは、決して悪事といふ程ではないが、それでも程度を過ぐれば矢張り百弊の(みなもと)となる。小人(せうじん)邪人(じゃじん)などといふものは、常に斯麼(こんな)急所ばかり付け(ねら)ふものだ。
 三十一日の午前に大本へ出て、()づ出口先生に会つてこの話をした。すると先生は(たい)さう賛成せられ、早速教祖さんにか願ひして見ませうと言つて、その居間に(おもむ)かれた。
 教祖さんは其日(れい)によりてお筆先を書いて居られた。出口先生は言葉を尽して教祖さんに撮影を勧められた。
『商売人の写真屋ではなく、浅野はんの兄さんが撮られるのやさかい、是非一枚撮つて置かれるのが(よろ)しいと思ひます』
 教祖さんは筆先の手を(とど)めて、
『さア私のやうなものが……。しかし折角やから神さんに伺つて見ますワ』
 一枚の写真を撮るにも、(いやし)くもせられず、神様の御指図を仰いでからにする! 嗚呼(ああ)何といふ(うるは)しい、神々(かうがう)しいお(こころ)ばえであらう。この一事(いちじ)のみを見ても、その御性行の一斑(いつぱん)を大概髣髴(はうふつ)し得るではないか。
 それにしても神勅は何とあるかと、自分達兄弟はいささか胸を轟かして待つて居ると、(やが)て教祖さんは、
『神さんが撮つて置いて貰へと(おつ)しやられますから、撮つて貰ひますワ』
 之をきいた兄は勇み立つて其準備に取りかかつた。場所は金竜殿と決め、(ふすま)(ひら)いて神壇を背景とすることにした。
 教祖さんは木綿の紋付をつけて、いとつつましやかに坐を占められた。兄はゴム(だま)を握つて立つた。自分は(わき)の方で見物して居たが、当時の光景は自分の眼の(うち)にアリアリと今に残つて居る。恐らくこれは永久に残るのではないかと思ふ。
 大本教祖の最後の写真、神勅の写真は、かくして立派に出来(あが)つた。その複写は「神霊界」にも掲載されたことがあるから、一部の人は知つて居るであらう。しかしその種板(たねいた)は大本に奉納され、今は御神体とともに岩戸の奥深く秘蔵されて居る。
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