秋の丹波を書き出したところが、ツイ持前の道楽気分が首を擡げて、食ふことや遊ぶことばかり並べ立てた。これで筆を擱いては少々寝覚めが悪いから、最後に秋の収穫の中で優れて大切であつたものを紹介して、罪滅しをして置かう。それは外でもない、教祖出口直子刀自の御写真を撮らして貰つたことであつた。大正六年の秋の最も貴重な獲物は、柿や栗や松茸ではなく、実にわれ等教御祖の最後の御写真であつた。
兄は海軍部内でも有名な写真狂で、その道楽は江田島の教官をつとめた大尉時代から姶まつたやうだ。それからといふものは、旅行も、遠足も、日常生活も、皆写真を基調として計画按配せらるるかと思はれる程で、最近二十幾年の間に、兄から苦心譚つきで見せつけられた景色の写真、人物の写其は幾百千枚に上るか知れない。往年舞鶴の参謀時代には、写真の為めにわざわざこの綾部にも来たことがあるさうで、成る程和知沿岸の山水は、単に写真眼から見ても立派なものに相違ない。
近頃は年齢の所為か、その写真道楽が幾分下火になつたやうだが、大正六年頃はまだ却々旺盛なものであつた。十月三十日東京出張の途次綾部へ立寄つた時にも、一台の写真器械を携帯に及んで居た。教祖さんの写真の問題はこれから起つた。
『什麼だらう、一つ撮らして貰へぬだらうか。教祖さんも御老体だから一枚残して置く方がよいと思ふ……』
『さア明日行つて先生と相談して見ませう』
兄と自分との間には晩餐の際に斯麼話が出た。自分は教祖さんが写真に対して、極度に慎重の態度を執つて居られることを熟知して居るから、果して承認を与へられるや否やにつきて、些からぬ懸念を有つて居た。これまでに教祖さん御単独でお撮りになつたのは、たツた一枚しかない。それも余程以前のものだ。他に家族及び役員と一緒に写されたのが二枚ばかりもあらう。何時かも自分から写真のことを申上げると、
『私のやうなものが!』
と容易に受つけられる模様がなかつた。
この謙遜な飽まで控へ目の態度こそ、実に教祖さんの有難いところであつた。苟くも一代を指導し、一世の師表たるべき人の平生の心懸には、何処かに違つた箇所がある。璧に疵の例の如く、兎角何人にも一つや二つの癖があるものだ。ところが教祖さんにはそれがなかつた。故にその癖に阿つて付け込むべき余地がなかつた。
例へば写真にしてもさうだ。写真を撮るのが好きだとあれば、写真を種に使ふ者が其周囲に雲霞の如く集まる。写真を好むといふことは、決して悪事といふ程ではないが、それでも程度を過ぐれば矢張り百弊の源となる。小人、邪人などといふものは、常に斯麼急所ばかり付け覘ふものだ。
三十一日の午前に大本へ出て、先づ出口先生に会つてこの話をした。すると先生は大さう賛成せられ、早速教祖さんにか願ひして見ませうと言つて、その居間に赴かれた。
教祖さんは其日例によりてお筆先を書いて居られた。出口先生は言葉を尽して教祖さんに撮影を勧められた。
『商売人の写真屋ではなく、浅野はんの兄さんが撮られるのやさかい、是非一枚撮つて置かれるのが宜しいと思ひます』
教祖さんは筆先の手を止めて、
『さア私のやうなものが……。しかし折角やから神さんに伺つて見ますワ』
一枚の写真を撮るにも、苟くもせられず、神様の御指図を仰いでからにする! 嗚呼何といふ麗しい、神々しいお心ばえであらう。この一事のみを見ても、その御性行の一斑を大概髣髴し得るではないか。
それにしても神勅は何とあるかと、自分達兄弟はいささか胸を轟かして待つて居ると、軈て教祖さんは、
『神さんが撮つて置いて貰へと仰しやられますから、撮つて貰ひますワ』
之をきいた兄は勇み立つて其準備に取りかかつた。場所は金竜殿と決め、襖を開いて神壇を背景とすることにした。
教祖さんは木綿の紋付をつけて、いとつつましやかに坐を占められた。兄はゴム球を握つて立つた。自分は傍の方で見物して居たが、当時の光景は自分の眼の裡にアリアリと今に残つて居る。恐らくこれは永久に残るのではないかと思ふ。
大本教祖の最後の写真、神勅の写真は、かくして立派に出来上つた。その複写は「神霊界」にも掲載されたことがあるから、一部の人は知つて居るであらう。しかしその種板は大本に奉納され、今は御神体とともに岩戸の奥深く秘蔵されて居る。