満州事変によって大本の諸活動は、時局に対応する愛国運動の様相を呈してきた。しかしそのために大本本来の宗教的活動が停滞していたのではない。時局に対応して表面上活発な動きをみせたのは人類愛善会・昭和青年会であって、大本の宣教活動はいぜんとじみちにつづけられていた。教団の宣教史上からみれば、駐在・特派宣伝使の活動はまれにみる活発なものがあって、亀岡天恩郷の大道場で修業する人々の数も増加し、講座の内容も充実されてきた。ところが、一九三二(昭和七)年の一月二八日に、上海事変が起った。そして国際的に孤立していた日本は、ますます非常な事態におちいっていた。国内では「非常時日本」だとか「生命線を守れ」だとかいうように喧伝されだし、愛国的な国民精神が強調されていった。
一九三二(昭和七)年二月四日、大本開教四十年の祭典が盛大におこなわれた。この日は大本の重要な祭典日の節分大祭でもあり、そこには従来にみられない活気がみなぎっていた。その当日、五六七殿において聖師によってつぎのように語られた。「……色々と世の中に起って来ることはもう神界の経綸が実現の緒についた事であるといふことをお考へになつて差支へないのであります。それでありますから此際小異をすてて大同に合して、この国難に当らねばならぬといふ時であります。それは今日までの思想国難、外交国難、経済国難といふ事を打破して、総てのものが改まる─改まれば国の幸福になる。一方から見れば国難であり、一方から見れば国福と思つてゐるのであります。そしてさらに吾々大本信者はいふに及ばず、日本国民全体が鉢巻きをしめて大いに考へ、大いに尽さねばならぬ時が来たのであります。吾々は世界の戦争が起る、或は日本は世界を相手に戦はねばならぬといふ非常なる覚悟を要する時だと思ふのであります」。
この訓話のなかに信者は、『瑞能神歌』に示されてあった立替えの本舞台、日本対世界戦が迫ってきたことを示唆された。そして本部から提案された「全国総市町村支部設置完成運動」を即決し、ひきつづいて「日支事変戦死者慰霊祭」が厳粛に執行された。このようにして、覚悟もあらたに宣教活動の意欲を盛りあげることになった。その一方法として映画宣伝班が組織されたのもこの節分大祭からである。また満州事変突発以来つづけられていた出征兵士の送迎・皇軍慰問・難民救済の物資の送達はひきつづきおこなわれており、二月二八日からは、出征軍人のために[忠勇お守」を下げることがはじめられた。
一九三二(昭和七)年三月一日、満州国が樹立された。この日聖師から溥儀執政に儀礼の賀辞がおくられた。
こえて四月、みろく大祭における瑞祥会の総会の席上において、出口宇知麿は、「ご神業は時節と共に進みつつあります。東亜の動き、世界の大勢は神様のご警告のままになりつつあるのであります。世界の平和を実現しなければならない重大なる使命を有している我が神国の民は、惟神の大道にもとづいて神様の御心を世界に行ふべく起たなければなりません。今や国を挙げて国を護れ、国を愛せよのこの叫びは高くなつてまゐりました。神の国の民として生くるべく常に神の教に進んで居るところの吾々大本信徒こそは、奮然起って大いに愛国の精神を喚起し、誠の活動をしなければならないのであります」とのべた。そして瑞祥会連合会長会議に「愛国運動の方法」が提案審議され、ますます大本および人類愛善会・昭和青年会の動きは、非常時意識にもとづく愛国的色彩を濃厚にしてゆくことになる。しかし同時に、かりそめにも吾々の不注意の為に、大本の精神を一般に誤らしめる事のないよう、「万事に心を配つて、神国の光を放つべく最善の誠を尽す」ことがつよく要請された。
〔写真〕
○満州事変以来慰問袋が信者の手によっておくられていた 台北 p119