一九三二(昭和七)年五月一五日、総理大臣犬養毅が青年将校らによって殺害された。いわゆる五・一五事件がそれである。犬養内閣が倒れて斎藤内閣になった。
このころ農村恐慌が大きく国内をゆさぶって経済界は萎縮し、農民の窮乏は言語に絶する状態で飢餓にあえぐものか続出した。一九三〇(昭和五)年の九月に生糸相場か暴落し、総農家の四割をしめる養蚕農家の打撃は大きく、野菜の値段も急速に下落した。「キヤベツ五十個で敷島一つ」といわれるほどであり(当時煙草「敷島」は一八銭)、しかも一〇月に豊作が予想されて米価もまた四割ほど下ってしまった。工業製品の価格との格差がひどくなり、農民の生活は、ますます苦しくなっていった。そこヘ一九三一年には大凶作がおとずれてきた。とくに冷害に見舞われた東北地方や北海道の農民生活はひどかった。ある東北地方の老農は、「わしも一人息子を満州の兵隊に出しているのだが、この間も手紙でいってやったのだ。国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死しろとな。そうすりやあ、なんぼかの一時金がはいって、わしらの一家も、この冬ぐらいは生きのびるだからな。娘を持っているものは娘を売ることができるが、わしらは息子しかもたないから、息子を売らうと考へているだよ」(「中央公論」昭和7・2)とのべているほどである。そのころ農村では娘が「五十金」くらいで盛んに売られる残酷物語はいたるところに見られた。しかし他方では、資本の集中と独占が強化され、企業連合(カルテル)と企業合同(トラスト)が発展してゆき、商工業のみならず農業をも支配する資本の力がきづきあげられてゆく。
こうした状況下において長野県からはじまった「農村モラトリアム即時実施」の請願運動は、たちまち全国に波及していった。「帝国軍隊」の供給源である農村の疲弊は、軍隊にとっても大きな問題となり、青年将校たちが国家革新のため蹶起するようになるのである。愛国恤兵財団の具体化がいそがれたのもそのためであった。昭和青年会や人類愛善会が、こうした現実を傍観するわけにはゆかない。食糧問題・農家自活の解決策として陸稲の栽培にのり出し、その多収穫栽培の方法を全国的に普及させるとともに、農は立国の大本という立場から、「農村を救へ」という運動を全国的に展開していった。
昭和五年八月、「時局匡救」の声に答えて匡救費支出は国会で決議されたものの、農村土木事業につかわれたこの費用は、農民の手にはいることはきわめてすくなかった。一方国家財政は、満州事変・上海事変による軍事費の支出が膨張し、財閥の産業・金融支配が日ごとに深まってきた。右翼・愛国団体等による「財閥排除」「農民を救へ」の声がいよいよたかまってきたのである。政府当局はこうした時局に直面して昭和七年九月初めから「国民運動」をよびかけた。それは「国民更生運動」とよばれるものであった。運動方法は、教化団体・婦人団体・実業団体などと連絡をとり、ポスターやパンフレットを配布して「自力更生」を徹底させ、「国家社会に奉仕する犠牲的精神と愛国心」を涵養することを目的とした。この目的にしたがって、国防研究会や国防思想普及会などをつくり、在郷軍人会との協力体制を働きかけた。
一九三二(昭和七)年一〇月三〇日に開かれた大本瑞祥会第八回の主会大会では、本部提案にしたがって「挙国更生運動」および「愛国恤兵財団助成会後援」などの決議がおこなわれた。しかし大本がとりあげた挙国更生運動は、政府当局のよびかけるところとはその精神をことにしていたのであり、その趣意書にはつぎのように示されている(「真如の光」昭和7・10・25)。
政府の方針たる自力更生の言葉は単なる経済的自力更生のみの如く解せられてゐる向がありますが、我々の立場よりすれば、真の更生はどうしても精神的更生が基本であると信ずるのであります。而して精神的更生は第一に神に目覚める事であります。斯くして惟神の大道たる皇道に立脚し、真に精神的更生を図ると共に、現実的にその精神を以つてすべての事を処するならば、期せずして一身一家一村一町、やがてこれを全国に及ぼして霊体一致せる更生の実現を見ることができるのであります。
こうして大本の挙国更生運動の第一声は、一一月一〇日の国民精神作興詔書渙発記念日から開始され、大本および人類愛善会・昭和青年会が総がかりで、翌年の二月の節分祭までつづけられた。その具体的運動には「挙国更生祈願神社参拝」があった。全国各地の国魂神や産土神社に集団参拝し、町や村での講演会・座談会を催して、まず神にめざめよと訴えたのである。とくに聖師は、宣伝使・役員・信者にたいし、「みづから教へを実行」するよう訓示した。
一方昭和青年会は会員の中にある在郷軍人有志の要請にこたえて、『瑞能神歌』のなかの「よき支那物を奪はんとする英米露仏の策謀」「唐土の鳥なる飛行機の襲来」「外国は一腹になり日本に迫る国際連盟及び米国の動き」などの神示をとりあげて、「国防研究会設立のすすめ」の通達をだし、「非常時に当り吾等会員は更生一番、内挙国更生運動に邁進すると共に、外魔軍に対して金甌無欠の神国を富嶽の安きに護るの備へを急がねばなりません」とよびかけた。またこのころ大本海外宣伝課は、人類愛善会の名義でエスペラント文で『満州・上海事変の真相』と題したパンフレットを発行して、世界各国のエスペランチスト及び各国の新聞・維誌社に配布し、事変の真相と日本の正義を訴えた。一宗教団体が国民外交のたちばから世界各国へよびかけて、こうしたパンフレットをおくったことは異例のことであったから、これにたいする各界の反響は大きかった。
〔写真〕
○挙国更生運動 米沢 p121
○昭和青年会辞令と会員手帖 p122