一九三四(昭和九)年の一月二三日、第六五議会再開の第一日に、衆議院において質疑の第一陣に立った床次竹二郎は「吾々は神に仕へる敬虔の念と至誠とを以て行動せんとするのである。これが即ち政機運用の根本観念であり、同時に政局の不安を除く所以であつて、この非常時局に於て、上宸襟を安んじ奉る唯一の道なりと確信する者である。時局打開の道は遠く外にのみあらずして近く我が内に在り、現下の急務は人心の帰郷を明かに其の緊張統一を図るに在る。皇道の精神に基づき、人類愛善の本旨に則り、世界永遠の平和を期するの誠意を国民の間に確立するにある」(「人類愛善新聞」昭和9・2)と論じて政府の意をただしたが、この質問は「人類愛善新聞」の論旨をかりてそのままのべたようなものであった。それほどに「人類愛善新聞」の論調が、有力な政治家のあいだにも浸透しつつあった。
「人類愛善新聞」が、皇道大本および昭和青年会・昭和坤生会の諸運動を、くわしく報道したことはもちろんであるが、非常時日本・孤立日本の危機についても、皇道精神にもとづいた論文を毎号発表し、国民の精神啓発に資する資料をこくめいにかかげた。
「人類愛善新聞」については、聖師は、〝一回に百万売れぬ現状で到底天下の大事は成らず〟と詠まれ、さらに「新聞の拡張といふことは、数ある御神業の中でも最も大切な御用である。新聞で開くといふ事は筆先にかねてより示されてある」と訓示していた。そこで昭和青年会は、この新聞を広く社会に頒布することが、神業の一端であるとして、その責任を分担し、地方各支部は支社または取次販売所を設置し、山間僻地にいたるまで、徒歩、または自転車隊で一枚々々購読をすすめた。しかし旬刊ごとに送達される新聞を、運動のあいだあいだにさばくことは非常な困難があったので、ついに専従の「新聞班」をつくって行脚することになった。すでに昭和九年一月中旬号は、七三万部を完全に消化し、一〇〇万部を目標にした行脚活動がつづけられていた。昭和坤生会員もまた同様であって、街頭にたって一枚売りをおこない、若い会員も年配の婦人会員も、足にまかせて各村々を売りあるいた。したがって「人類愛善新聞」は国民のあいだにひろくゆきわたり、非常な関心をあつめた。
一九三四(昭和九)年二月三日、大本節分大祭、聖師入蒙十周年記念祭執行後、統理の出口宇知麿は「国体闡明運動、国防運動を継続すると共に、更に皇道の本義にもとづく『大家族精神運動』を起し、極力これら諸運動の徹底に努むる事」と指示するところがあった。
この大家族精神運動に関する運動趣旨は「大日本建国の大精神は皇道即ち宇宙創成の神の御意志そのものである。……天地惟神の大道たる皇道の本義を明らかにして、天下一家の大家族精神を発揚し、之を世界に光被すべきが皇国民たる尊き使命天職である。この大家族精神の確立は一身一家に始つて汎く天下に拡充さるべきであり、八紘を掩ひて六合を宇とする建国の大精神は、斯の道によりてのみ実現さるるのである」とするものである。「人類愛善新聞」はこの運動のなかで、全国的に標語を募集し、「大家族精神輝く日本」という標語が当選作と決定された。この標語は日出麿総統補の書で印刷され、市町村の戸毎にかかげるよう指示された。昭青・坤生の会員によって、山間僻地にいたるまで配布されることになったのである。
二月の節分祭においては、昭和青年会・坤生会は組織の大巾な改正をおこなった。すなわち支部の統轄機関として各地に連合会をもうけ、さらにその連合会を統轄する機関として主会がもうけられることとなった。そして主会ならびに連合会の範囲と職員は大本の主会・連合会のそれと同一とされた。さらに昭和青年会は本部組織をあらため、従来の統務委員制を廃止し、あらたに統務ならびに統務補をおいて統制を強化し、会長出口宇知麿のもとに、統務大国以都雄・統務補神本泰昭が任命された。そしてその下に庶務・会計・遊説・編集・航空・訓練・騎乗・音楽の各部がもうけられ、前年三月東京に新設された関東出張所を東京本部と改称した。
一方、これと同時に昭和坤生会も東京本部を東京に新設し、専務幹事・常務幹事を、専任幹事・常任幹事とそれぞれあらためた。
坤生会専任幹事西村雛子は、節分の際の総会において会務を報告し、二月三日までに支部として承認されたもの三〇七ヵ所、会旗を下付したもの二一二旒、正会員八七〇〇人と発表している。そして「人類愛善新聞」の拡張活動について、「私共の会長補直日様には昨年の師走、あの極寒のみぎり、数里の道を自ら愛善新聞の一部売りを遊ばし、その純益を国防費に御献納相成ったものでございます。これは私共に大きな教訓と、さうして強い御激励とを頂かして下さいました」(「真如の光」昭和8・2)とのべて会員を激励している。当時「人類愛善新聞」の頒布が、いかにさかんなものであったかを推察することができる。
二月五日の入蒙記念展覧会は、亀岡天恩郷の更生館を会場として、昭和青年会・昭和坤生会の主催によって開かれたものである。これは更始会創立十周年記念の催しでもあった。出品されたものは、蒙古において使用された自治軍の旗・聖師着用の襦袢・靴・日記帳・写真機などのほか、二月一三日夜、聖師が綾部駅を出発してから門司埠頭に帰着するまでの事件や挿話をジオラマ化したもので、展覧会の参観者に深い感動をあたえた。
三月一日、「満州国」は帝政にあらたまり、執政薄儀が帝位についた。聖師から祝電が打たれ、人類愛善会亜細亜本部よりは、満州(東北)各方面および世界紅卍字会支部・在理会・ラマ教その他提携の各団体にたいして祝意を表明した。一方、満州においては、大本および人類愛善会は各地区ごとに、世界紅卍字会・在理会・ラマ教その他各提携団体とともに祝賀のため、街頭の大行進をおこなっている。
一九三四(昭和九)年三月八日、一〇〇万部発行をめざして昭青・坤生会員が連日活動した「人類愛善新聞」の目標は、ついに実現した。これを地方別にみると、樺太・北海道三万八三三二、東北五万六〇八九、関東二五万六六三三、信越・北陸七万六七八〇、東海八万四五七三、近畿一九万七八四三、山陰四万八九一〇、山陽五万三二八三、四国三万五六二一、九州一一万四一二五、海外四万二二〇二、合計一〇四万〇三九〇部となっている。
日刊紙として一流をほこっていた「大阪朝日新聞」の発行部数か六三万五〇〇〇部、「読売新聞」が五二万九〇〇〇部(一九三五年現在、『出版警察概観』)といわれた当時、旬刊の特種新聞が、すでに一〇〇万部を発行しだしたことは斯界でも驚異の的であり、人類愛善会の勢力を裏づけるものとして、人々のあらたな注意をよびおこすこととなった。
三月三一日、京都師団が北満警備の交代で出動した。昭和青年会本部は、とくに綾部工芸課に注文して、鶴山織の一二尺五寸に九尺(三七五×二七〇センチ)の大国旗二旒、九尺に六尺(二七〇×一八〇センチ)の大国旗二〇旒を贈った。工芸課は、今までにこんな大きな国旗を織りあげたことがなかったから、関係者は非常な苦心をして製作した。
四月五日、この日は「国華日」である、国華日の標語は、「一 皇軍の労苦と犠牲を偲びませう。一 皇軍に対する国民的感謝の日、国華日を讃へませう。一 国華日には必ず国旗を揚げませう。一 国華日には皆「花」をつけませう。一 「花」の益金は恤兵事業後援の基金になります」というものであった。愛国恤兵財団助成会が主張したものである。恤兵財団は最初から昭和坤生会に依存するところが多く、この日も国民の胸につけさせる「桜花章」の頒布を依嘱してきた。そこで坤生会では会員を動員して趣旨の宣伝のため街頭に立ち、「桜花章」を頒布した利益金は全部献納した。もちろん坤生会の活動には、昭和青年会員も参加して強力な応援をした。
昭和坤生会は、前年九月に、飛行場献納のために、大阪の文楽座を招いて興行をおこない、その利益金をもととして、その後「むすびの日」や新聞販売、その他の活動を継続して基金をつくっていた。しかし、適当な飛行場候補地が得られないため、飛行場の献納を中止し、四月一六日陸軍航空本部および国防協会へ蓄積していた金を全部献金した。
疲弊した農村の更生・食糧問題についても、すでに各地の人類愛善会員・昭和青年会員が苦心努力していた「愛善陸稲」の栽培は、いよいよ成果をあげ、とくに東北地方では大きな話題になっていた。これを全国的に指導を統一するため、一九三四(昭和九)年四月、人類愛善会編の『愛善陸稲栽培法』を発行するとともに、亀岡総本部では陸稲栽培の講習会を開催し、また綾部・亀岡・胡麻などに本部直轄の試作田を設けた。そして全国的にその栽培法を普及する計画を立て、講師を地方に派遣した。愛善陸稲の特色は「旱・湿・冷害によくたえうる。山上・桑園・果樹園の間作・混作が可能であり、二毛作・三毛作ができる。なお半月の日照でも結実する。肥料は自給肥料に重点をおき僅少の金肥ですむ。痩地でも反当二石の玄米収穫がある」とされた。それで籾種を希望者にわかち、昭和青年会が全国にわたって開催している国防展覧会の一部には、かならず陸稲の実物、その栽培法を展示して普及することにした。
〔写真〕
○人類愛善新聞100万部達成にむかって…… 新聞の発送 p159
○一枚の新聞にも信者の熱と誠がこめられていた 人類愛善新聞の一部売り p160
○躍進する昭和坤生会 出口すみ子会長から会旗が授与された p161
○人類愛善新聞は目標の100万部を突破した 府県別消化分布図 p163