満州事変の後の「人類愛善新聞」は、毎号にわたって満蒙に関する資料や記事をかかげ、満蒙が世界平和に重大なる運命をもつことを国民各層に訴えていった。そして「三千世界の梅開いて、実現する神の経綸」「日支問題は此のまま納まらず、東亜は更に難局へ」「世界はいま断末魔に喘ぐ、精神文明樹立の秋」「全日本に捲き起った空を護れの声」等々の論文がつぎつぎに掲載されて、大本の神示警告と時局の推移を解説し、難局への覚悟を警告した。当時満蒙の知識が乏しかった国民のなかには、「人類愛善新聞」を購読するものが増加するとともに、満蒙についての資料を展覧せよとい要望を、人類愛善会へよせてきた。
一九三二(昭和七)年三月一〇日より二ヵ月間、大阪城前の広場で開催された大阪夕刊新聞社主催の「満蒙博覧会」に大本愛善館を特設したのも、そうした要望にこたえんとしたものである。大本愛善館には、満蒙に関する資料はもちろん、現地における人類愛善会のなまなましい活動状況、聖師入蒙以後の大本との関係などが展示された。この展覧会で、大本および人類愛善会に関する認識がかなり深められたし、また参観者を通じて大本が見直される機会ともなった。
さらに四月一五日より五月二九日まで、京都で「満蒙大博覧会」が開催された。この時にも、主催側の強い要請によって特設愛善館を設けることになった。京都の博覧会は相当大規模のものとなり、大本では委員会がつくられて運営にあたることになった。この時の委員長には出口宇知麿が、副委員長には大国以都雄が就任した。そして愛善館の準備や執務には本部および京都在住の役員や信者があたった。展示されたなかで一般に注目されたものは、満蒙における匪賊の跳梁状況・人類愛善会と世界紅卍字会の難民や窮細民の救済活動・捨子保育事業・在理会との提携活動・蒙古王族の調度品ならびに生活状況・蒙古包とその生活・喇嘛の調度品と書画および生活状況・産物や経済流通の状況・民族共存の現況などであった。とくに大本および人類愛善会の真剣な宗教的活動については、大きな反響があった。
ついで七月一一日から九月一〇日まで、東京で「満州国元博覧会」が開催された。第一会場は国技館・第二会場は両国橋畔で、その後援は拓務省・陸軍省・海軍省・満州国政府・東京市・読売新聞社で、人類愛善新聞社・人類愛善会満州連合会が協賛し、規模はこの種の催しものとしては最大のものとなった。人類愛善会の出品は、京都で出品したものに、さらに追加補充がなされ、満州からとりよせられた新らしい資料参考品をも加えられた。この時の会場の装飾などについては信者の神谷光太郎が担当している。入場者は一八〇万人にのぼり、多くの人々に非常な感銘をあたえた。なかでも「中外日報」が「今回の博覧会では、他の宗教団体が何等働きかけしておらず、あたかも主催者であるかの如く、全会場の四分の一を占めて大本の諸活動をそこに展開してゐる」と報道し、作家倉田百三は、「満州の曠茫たる原野の有様や、そこで営まれる各種の産業や、そこから産出される物産だとか、満州国民の風俗習慣だとかいふものが、各種の模型やまたは数字などによつて正確に表現されてゐるので、大衆は勿論、知識階級にとつても非常に益するものがあった。人類愛善会が多大の犠牲を払って参加したことは非常に有意義だと思ふ。殊に沢山ある宗教団体の中で他に一つとして参加してゐないのは不思議である……」と評しているのが注意をひく。この博覧会によって、宗教団体としての大本の独自な活動がひろく人々に知れわたったのである。
一方、七月二〇日から人類愛善会・世界紅卍字会の合同主催で、大連をふりだしに満州の営口・大石橋・遼陽・奉天(瀋陽)・長春・公主嶺・四平街(四平)・鉄嶺・撫順・本渓湖(本渓)の順で出口総裁作品展覧会が開催された。これまた各地で激賞をうけ、問題の人「出口王仁三郎」が大きく見直されることになった。こうして人類愛善会に入会するものも激増した(四三頁の地図参照)。
なおその後も、各地からしきりに展覧会開催の要請があった。七月二二日から米子市の主催、陸海軍・大阪朝日新聞社・大阪毎日新聞社・人類愛善会後援による「満州国防展」が開催されたさいにも参加出品し、八月一七日から倉敷市の主催でひらかれた「満蒙時局展覧会」にも協賛出品した。倉敷市は出口日出麿総統補の出生地でもあったので、とくに市の要請かつよく、時局講演会が企画されて、総統補および学友関係者の白石・小山・佐川や大国などがその講演会に出席して熱弁をふるった。
欧州のパリでは、七月三〇日から第二四回万国エスペラント大会か開催された。その期間中にも人類愛善会は同市で愛善展覧会を開き、趣味の東洋・新興宗教の紹介・満州事変の真相・大本のエスペラント運動などの状況を展示した。展覧会による活動は国内のみならず海外にもおよんでいるのである。
昭和八年の四月一日から二ヵ月間にわたって満蒙軍事博覧会が神戸で開催されたが、この博覧会には陸海軍省・第四師団・第十師団・呉鎮守府および人類愛善会が後援出品した。なお開教四十周年を記念して、昭和七年秋東京で開催することになっていた大木大博覧会は、満州事変突発による諸運動展開のため中止のやむなきにいたった。
〔写真〕
○満蒙博にはいつも大本館の特設が要請された 大阪 p127
○満州国大博覧会 東京国技館 p128
○満蒙軍事博覧会 神戸 p129