[#『昭和』昭和10年11月号p28-32]
丹波は、昔は
丹波の泥海といつて、全部が湖水であり、綾部も亀岡も勿論その泥海のやうな湖水の中にあつた。亀岡の如きは、玉の井の
湖と称せられた程である。そして今の亀岡天恩郷と穴太方面とは地続きの高台であつて、その
外の周囲は全部湖水になつてゐた。
本宮山もその湖水の水面に頂上だけが出てゐて、太古に素盞嗚尊が出雲から出て来られた時に、この本宮山の上に、素盞嗚尊の
母神であらせられる伊弉那美尊様をお祀りになつたのであつて、これを熊野神社と名づけられた。その後素盞嗚尊は紀州方面に御進発になり、紀州にもまた本宮、新宮、那智といふ熊野三社をお祀りになつたのである。
本宮山にあつた熊野神社は、
九鬼家が伊勢の鳥羽から
転封して綾部に移り住むやうになつた時に、現在熊野神社のある
和知川畔にお
遷し申した。丁度その当時は九鬼家の館がやはりその熊野神社の裏にあつた。元来九鬼家は二万石の小禄だつたのでお城を築くことが出来なかつたため
邸を建ててゐたのだが、ある時火災に遇つてすつかり焼けてしまつた。当時町民たちは「熊野神社を下に遷したからその神罰で焼けたんだ」といつたり「
焼屋敷」などと呼んだりした。
館は現在の小学校の所にもあつて、今の上野一帯は墓地になつてゐた。前に言つたやうに城を築けなかつたので、本宮山をいはゆる
山城にしてゐたのである。
○
伝説によれば、本宮山に小松内府(平重盛)が
邸を構へてゐたのであるが、
以仁王が平家の横暴を
憤られて追討の軍を起こされた。然るに戦ひ利あらずしてやむを得ず身を以て逃れねばならない情勢になつた。親に似ぬ忠義の心に篤かつた重盛は、王といへどもやはり皇室のお方だから皇室に対しては忠義を尽くすべきが至当であるといふので、以仁王に非常に同情の念
篤く同時に尊崇
措かなかつたのである。然るに以仁王は不幸にして、今の大塚といふあたりで、流れ矢にあたつて亡くなられた。その時以仁王は侍女オアーを連れてをられた、その最後にあたつて「オアー」とお呼びになつた。以仁王をお祀りしてゐる現在の高倉神社はお祭りの行事になつてゐる
御輿かつぎに「オアー」「オアー」といふのであるが、その当時のことをそのままお祭り行事に用ひて永く記念してゐるのである。
重盛の忠誠にも拘らず、かういふ悪結果になつたので、重盛は
恐慌措く能はず誠に申し訳なしとて本宮山で
自刃したのである。
その重盛の霊を弔ふために後に黒髪大明神としてお祀りしたのである。これを町民たちは稲荷さんだと思つてゐた。また一方では総領権現ともいつたりしたゐた。そのために或ひは説をなすもの、九鬼家の総領を祀つたからかくいふなりといふ者もあつたりしたのである。お祀りしてあつた場所は、現在丁度長生殿の敷地に当たつてゐるが、これを自分はかつて東の方に移して
治総神社として祀つたのである。
○
昔は本宮山から九鬼家の館に続いてゐる堀井戸があつたといふが、調査しても判らなかつた。多分今でいふ横井戸のやうなものがあつたのではないかとも思つてゐる。またいつの時代か知らないが、一時
綾羽取、
呉羽取が本宮山の上に来て機を織つたといふ言ひ伝へもあつた。なほ本宮山の北麓にはある時
丹波守義光といふ名
鍛刀家が居つて、銘刀を打つたといふこともあるが、それはあそこの井戸水が刀の刃によかつたからである。
○
霊界物語に現れてゐる錦の宮といふのは現在の小学校のある辺りである。もつとも女学校から北は墓地であつた。本宮山の南側にある谷は元はずつと高く続いてゐて、水が滝のやうになつて落ちてゐたのを那智の滝といつたのである。あそこに重ねの橋といふのがあるが、あそこからお月さんを見ると二つに見えるので、さういつたものらしい。天王平まで大きな池になつてゐて、今の
一瀬が大きな川として流れ、その奥は鬱蒼たる大樹に蔽はれてゐて
滾々と水を湛へてゐた。現在一瀬近辺深く掘ると砂利が出るのはそのためである。
○
本宮山は約三、四十万年前に、噴火作用によつて爆発し切らずしてすくんだもので、学名を
片麻岩と名づけられてゐる火山の焼石がある。これは亀岡もやはり同じで、十万年以前に現在あるところに月宮殿が立つてゐたのだから、綾部の方がずつと古い。亀岡にせよ、綾部にせよ、霧の多いのはやはり昔、湖水があつたり泥海があつたりしたからである。
本宮山の近所にイネ山、サネ山、ナミ山といふのがある。このネといふ語は言霊学上、
峰といふ意でこの三つを続けて読むとイザナミとなり、熊野本宮といつてゐた当時の神社の祭神たる伊弉那美尊を表してゐる訳だ。
○
紀州に
音無瀬川といふのは和知川のことであり、
山家から下流をいふのである。紀州に田辺といふ所があるが、府下の舞鶴は昔、やはり田辺といつてゐたのである。
もうし姉さん田辺へといく
問うて行かしやれ
梅迫へ
といふ古歌があるが、これは現在の舞鶴へ行く道を尋ねたものである。
本宮山に登るのに昔は、あの坂を、
太鼓坂琵琶坂といつてゐた。これはこの坂を歩いて昇るとボンボンといふ音がしたからかういふ風に名付けたものである。今は音はしない。
○
本宮山は桧のよく育つところで、明治維新当時は、この山の樹といふ樹は凡て桧ばかりだつた。大本の手に入つてからでも直径三、四尺位の株が出て来た程である。聞くところによると前の持主であつた改森六左衛門氏が九鬼家から買ひ取つた時は六百円だつたのを大本へは三万五千円で売つたのであるが、当時何故六百円といふやうな安い値段であつたかといふと、その頃には桧といふものは材木として売れなかつた。売れても松や杉と同じやうな値段か或ひは安い位だつた。その理由としては、桧は神様のものにだけ使ふものであつて、人間のものに使うてはもつたいないといふやうな訳だつたのである。
出口家でも貧乏のためにやむを得ず桧で家を作つた。またそれだけの立派な桧が手がつけられずあつたのは材木を運搬する道路がなかつたといふことも理由の一つになつてゐる。何故道路がなかつたかといへば、昔は道路を作ると敵が攻めて来るのに都合がいいので却つて道路を悪くした程だつたのである。