霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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たまほこのひ可里

インフォメーション
題名:たまほこのひ可里 著者:佐藤紋次郎
ページ:
概要: 備考: タグ: データ凡例:読みやすいように漢字の旧字体は新字体に直した。/一部句読点を補ったり、欠落していると思われる語句を補ったりしている。/底本にフリガナは基本的には付いていないが、読みやすさを考えて付けた(旧仮名遣い)。/闕字は無視した。/遺勅中の送り仮名は底本では片仮名だが、読みやすさを考えて平仮名に直した。 データ最終更新日:2024-10-30 01:11:06 文字数:9896 OBC :Z9046
玉鉾の神遺勅
佐藤紋次郎口伝
 
序
 
 「紀元二千六百年と相(あ)ひならば拇指(おやゆび)に⦿(ス)の紋を印せる七十歳の男子[※出口王仁三郎のこと。]在り、この書を即ち渡すべし」と、わが師旭形(あさひがた)亀太郎(かめたらう)先生の遺命を奉じてより、其(そ)の人を索(もと)めて時機の到来を待ち居りしに、不図(はらからず)も師の命を受けてより三十七年目の昭和十一年に、或(あ)る事情のため[※第二次大本事件。]其の書を焼失の已(や)むなきに至りたるは、実にかへすがへすも口惜(くや)しき極みなりき。
 されど吾(わ)れは無学文盲の事とて、記憶を撰録する事も得ず、然(さ)りとて世人の手に委ぬるも師命に悖(もと)るものなれば、心痛止(や)む暇なく、日々夜々悶々(もんもん)として記憶を手繰(たぐ)りては口(くち)ずさみ、口(くち)ずさみてはまた手繰(たぐ)りて今日(こんにち)に及べり。
 待ちに待ちしニ千六百年の佳辰(かしん)を迎へたるに、待望の人にも遇へず、此の年も空しく過ぎ去り、いつの日にか焦がれに焦がるる⦿(ス)の拇印の君(きみ)に廻(めぐ)り遇ふ日のあるやと、日夜心を痛め居たるところ、昨秋[※昭和17年の秋。]焦がれ居りし其の君に遇ひ得たるも今は彼(か)の書わが手にあらず、師の遺命を伝ふる事も叶はず、老ひの身なれば一刻も速くこの大任を遂げさせ給へと祈りては臥(が)し、醒めては祈り、来る日去る夜を悶々(もんもん)の裡(うち)にこそ過(すご)し居たりき。
 偶々(たまたま)未年(ひつじどし)未(ひつじ)の元旦を迎へし昭和十八年の春も過ぎ、残りの暑さまだ去らぬ秋の初め、世継王山(よつわうざん)の麓に住める湯浅(ゆあさ)大人(うし)[※湯浅仁斎。]に伴はて、布施(ふせ)の里、足代(あじろ)[※現代の東大阪市足代。]の辺(あたり)に住める寅年(とらどし)の男[※西田豊太郎。]を訪れ、起稿の機熟(じゆく)し、はじめて茲(ここ)に約して口(くち)ずさむところを記す。
 幸ひに⦿(ス)の拇印の君が御手(みて)に触れむことを。
   昭和十八年八月二十五日
佐藤紋次郎口伝
 
 私は明治元年辰年の三月九日に、名古屋から西南五里ばかり離れた海東(かいとう)郡八幡村字日置(ひき)[※現・愛西市日置(「ひき」。ただし近年は「へき」と読むようになった)]の農家に生(うま)れたので御座ゐまするが、徴兵検査が済みましてから知人を頼って名古屋へ出て参り、知り人の桶屋で働いて居りましたが少々酷過ぎましたので、隣の人力車屋さんの世話になり、ここの帳場の曳子(ひきこ)となりました。
 暫(しばら)くの中(うち)に私は若松(わかまつ)町(ちやう)[※現・名古屋市中区大須一丁目~二丁目。]の仲間中(うち)で一番の強力(がうりき)となり、桶屋に引きかへ楽しく働いて居りまする中(うち)に、二十四歳の春を迎へる事となりました。
 この年の出来事で夢寐(むび)にも忘れぬ事が御座ゐます、それは或る日のこと名古屋駅へお客を送って参りますと、汽車から降りた三人連(づれ)のお客に、若松町一(いち)の貸席四海波(しかいなみ)の親方さんの宅まで届けるやうに頼まれ、強力(がうりき)の私はお客の中で一番大きいお角力(すもう)風の人を乗せる事になりましたが、其の後は往(ゆ)きも復(かへ)りも必(かな)らず、このお客は私を招(よ)ばれて「佐藤さん々々々」と可愛がって下さいました。
 左様に致して居ります中(うち)に私の生(うま)れ年を聞かれ、辰年(たつどし)の生(うま)れである処から、このお客の懇望で到頭弟子となったので御座ゐます。
 それからの私は旭形先生の御薫陶を受け、今までの一(いち)にも金、二(に)にも金と云ふ世界から一足飛びに、一に天皇様、二にお国と変(かは)ったので御座ゐます、是れは明治二十四年の事で御座ゐました。
 翌二十五年(辰年)の或る日のこと、若松町四海波(しかいなみ)の家で先生は、一枚の半紙と鋏(はさみ)を私の前に置き衿(えり)を正されて、
「本日は畏れ多い事ながら、先帝孝明天皇様が玉の御手(て)づから、不肖の臣(おみ)旭形に御秘伝遊ばされた皇国の神術を、其方(そのはう)に伝授致すから、慎んで御受納ありたい、此の神術を御秘伝遊ばすに当(あた)り天皇様は斯(か)く仰せられた。
『此の神術は朕を措(お)いて他に為し得る者があらば神も天皇も無いものと思へ、鶴の一声と申す事があるが斯(こ)の神術を申したのである』
と、自分は恐懼(きようく)感激して奉戴申し上げたのである。左様な次第であるから、此の神術を行ふ時は如何(どん)な場合でも直接に畳の上などで為してはならぬ。決して忘れぬやうに」
と、懇(ねんご)ろに諭されて伝授されたので御座ゐます。
 私は慎んで教はりましたが、余りに数多い不思議に到底自分などでは覚えさうにありませんからと申しますると、先生は、
「旭形が守護するから心配する事はない」
と申され、それからと云ふものは事に付け折に触れて教へられたので御座ゐます。今年で早(は)や五十二年からになりまするが、どうやら教はった丈(だ)けは何方(どなた)の前ででも出来るやうになったので御座ゐます。
 
 明瞭(はっきり)しませぬが、明治二十六年か七年に私は名古屋の県庁で書記さんに字を教はり、何遍(なんべん)も稽古して登記簿に姓名を記し捺印した事が御座ゐますが、あんなに一生懸命になって字を書いた事は、後にも先にもあの時だけで御座ゐまするが、それは孝明天皇様の御宮の敷地の登記だったからで御座ゐます、つまり孝明神社創建の発起人中に、私も先生のお言葉で加へられて居たからで御座ゐます。
 此の孝明神社の創建については、大変な訳が御座ゐまして、先生の教へによりますと、孝明天皇様が先生に御遺勅遊ばされた事に由来するので御座ゐます。
 斯様(かやう)に申しますると「天皇様とも御座る御方が人もあらうに何で擇(よ)りも選(よ)って下賤の力士風情に御遺勅遊ばされたであらうか」と怪しまれるのが当然の疑問で御座ゐまするが、当時の実情は公卿を始め大宮人(おおみやびと)の悉(ことごと)くが、畏れ多くも天皇様を狂気召されたかの如く思って居たので、心底から信仰奉仕致すものは先生只(ただ)一人と申しても決して過言では無いやうな有様(ありさま)だった由で、偶々(たまたま)話が此の事に触れますると、先生の眼は何時(いつ)も涙の露で光ってゐた事を克(よ)く記憶(おぼ)えて居ります。
 左様な状態で御座ゐましたから、下賎の身には違ひありませんが、勤王力士隊の隊長として御奉仕申して居った先生に、畏き御遺勅を遊ばすに至ったので御座ゐませう。
 御遺勅の大要を左に記します。
『皇紀二千六百年となれば、米国は我(わが)神国の国旗日の丸と三種の神宝を奪ふ仕組をして居るから、将来必(かな)らず攻めて来る、
愈々(いよいよ)攻め寄する際には、最初に伊勢の神鏡を奪ひ、次に熱田の神剣を襲ひ、最後に神璽即ち玉座を窺ふ計画であるから、朕が薨(こう)じたら、我(わが)神霊を伊勢と熱田の中間なる尾州武豊(たけとよ)の地に斎(いつ)き祀れよ。朕は武豊の地に鎮座して皇国を守護せむ』
 斯様(かやう)に重大な意義が秘められて居りまする此の神社の建設も、天皇様御在世中と同様に、意外にも孝明天皇様鎮祭の神社として何(ど)うしても、幾年奔走されても許されない、そこで当時の愛知県知事も懸命に運動されましたが、更に何の効果も挙(あが)らず何(ど)うしても許可して呉れなかったので御座ゐます。
 先生は明治二十八年には到頭武豊へ住居を移されて頑張られましたが、矢張り駄目だったので御座ゐます。
 万策つきた先生は、明治二十九年に丹波国綾部の「ミロク大神」様の許(もと)へ教へを乞ひに行くより方途(はうと)が無いと申され、徒歩で行かれる事となり、私に供を命じられたので御座ゐます。
 今日でも通りました山坂は明瞭(はっきり)と記憶致して居りまするが、其の中(うち)最も印象に残ってゐますのは、綾部も目近に迫りました須知山(すちやま)峠での事で御座ゐます。この峠へやっと差(さし)掛かったかと思ふ頃先生は、
「この峠には御殿の出来る処だから綺麗にせねばいけない」
と申されました。私は狐に憑かれたやうで皆目(かいもく)訳(わけ)が判りませんでしたが、云はれる儘(まま)に峠を越して愈(いよいよ)綾部へ参り、ミロク大神様を訊ね尋ねて参ったので御座ゐます。
 私はミロク大神様と申せば、立派な社殿でもある事と思って居りましたから、余りに小さいので、何ぼ何でも此の家ではなからうと思って、先生のお側を離れて外に出て調べましたが、矢張(やはり)この朝倉伊助さんの土蔵の六畳間位(くらゐ)の穢(むさ)くろしい所であるのには驚いたので御座ゐます、其の時家内(かない)はお婆さん一人きりで御座ゐました。
 左様な状態にも拘(かかは)らず先生は其のお婆さんに向(むか)って慇懃に平身低頭して、
「ミロク大神様は貴女様で御座ゐます、何卒孝明天皇様の御神号を下さいませ」
と一生懸命に願って居られるので御座ゐます、お婆さんはと見ると、
「それはお人違ひです、私は左様な尊貴な者では決して御座ゐませんから、どうぞ他をお訊ね下さるやうに」
と固辞されては居るが、何とも云へぬ威厳とやさしみとは、私風情(ふぜい)の者にでも普通人とは見えませんでした。
 先生はお婆さんが何と云はれても微駆(びく)ともせず一心に頼まれて居ましたが、その中(うち)に「では神様にお伺ひして見ませう」と云ふ事になりまして、お婆さんは形ばかりのささやかな神床(かむどこ)の前に進まれて礼拝して居られましたが、暫(しばら)くすると先生の方へ向き直って、
「神様は『たまほこノ神』と仰せられまする」
と云はれました。
 先生の喜びやうと申したら、何んな事にでも動ずる方ではありませんが、彼(か)の時は全く包み切れぬ模様で、幾度も幾度も礼を述べられ、勇んで帰途に就かれたので御座ゐました。
 孝明天皇様に「たまほこノ神」と御神名を下さった此のお婆さんこそは、大本開祖出口ナカ[※出口直のこと。戸籍上の名は「ナカ」と登録されている。]その人であったので御座ゐます。
 私は斯(こ)の稀(まれ)なる先生の御動作に(勿論孝明天皇様の御神名が定まったので御座ゐますから嬉しいのは当然でせうが)少々過ぎて[※度が過ぎて]居られるやうに見え、不審に思ひましたので、其の訳をお訊ねいたしますと、
「佐藤さん、貴下が不思議がるのも無理は無い。是(こ)れには深い々々訳がある、古い話になるが」
と、前置きして話された大略は次の様な事で御座ゐます。
(このお話の中、旭形亀太郎小伝にありまする分はその方を御覧願ひ、それに無い分や誤ってをる所丈(だ)けを話させて頂きます。)
 
 元治元年[※1864年。]七月十九日払暁、長門藩の脱兵福原(ふくばら)越後(えちご)等、時の守護職松平(まつだいら)容保(かたもり)を獲んと思ひ隊を分(わか)ちて堺町、下立売(しもだちうり)、蛤(はまぐり)の各御門(ごもん)に発砲して逼(せま)りし折りの出来事で御座ゐます。
 飛弾は益々(ますます)激烈となり、畏れ多くも玉座の間近まで飛び来るやうになり、御側近に侍(はべ)る公卿を始め悉(ことごと)く顔色を失ひ、為す所を知らなかったので御座ゐますが、ひとり孝明天皇様に於(お)かせられては平常と何の御変(おかは)りも無く、泰然と飛弾の状(さま)を御覧遊ばして居られたので先生は、遉(さすが)は!と感嘆されたさうで、其の中(うち)にも戦(たたかひ)は増々(ますます)烈(はげ)しくなり、遂に玉座も危く思はれたので御座ゐます。
 此の時先生へ玉の御声がかかったので御座ゐます。
 先生は最初から御側近に御守護申されて居ったとは謂へ、玉体(ぎよくたい)の御守護は玉の御声のかるまでは、如何(いか)に危く思はれても手前から進み出る訳には参りませず、非常に心を痛めながら詮術無く、吾が身の危険は遠に忘却して案じ申されて居た矢先で御座ゐますから、飛び立つ思ひで御前に進まれたので御座ゐます。
 一天万乗の大君(おほぎみ)様を躬(きゅう)[※「躬」は「我が身」の意味。]を以て御守護申せとの玉の御声! 常に御側に仕へ奉る高貴の身ならばいざ知らず、心に錦を着るとも身は賎(いや)しき一力士、斯(か)かるこよなき大任を戴くとは! 嗚呼(ああ)何たる光栄ぞ、此(この)身はたとひ飛弾の為僵(たお)るとも、斯(こ)の大任を達さずにおかれようぞ! 感激に打ち震へて仕へ奉らうとされましたが、さて速刻此(この)場を去るに、背に負ひ申せば吾(われ)よりも反(かへ)って玉体が危く、されば平手に御受け申し仕へ奉らうと、金剛力(りき)を振(ふり)出して弾雨の中を掻(かき)潜(くぐ)り、危地を遁(のが)れられたので御座ゐます。
 途中先生は背に数個の弾丸を受けられましたが、少しも色に出さず見事この大任を果(はた)されたので御座ゐます。
 事(こと)平(たひら)ぐの後、天皇様は先生の至忠を嘉(よろこ)ばせ玉ひて左(さ)の御製(ぎょせい)を賜りました。
    御製
 照る影をひら手にうけし旭形
   千代にかヽやくいさをなりけり[※照る影を平手に受けし旭形 千代に輝く功なりけり]
 天皇様は亦(また)この時、紫宸殿(ししんでん)に於(おい)て先生へ神国の秘法を伝授し玉ひ、且(か)つ御宸筆(ごしんぴつ)の経綸書(けいりんしょ)と御旗(みはた)を托し遊ばされたので御座ゐます。
 先に私が先生から名古屋で伝授を受けたと申しました神術即ち切紙(きりがみ)神示(しんじ)も、此の時に伝授遊ばされた一つで御座ゐます。
 此の神示に現(あら)はれまする主なるもの一、二を左に掲げる事に致します。
一、救世主は「火」霊と「水」霊の二大神であって、アジアの日本タニハアヤベに出口ナカ、出口ヲーワニと顕現する、
一、ヲーワニ神のオヤク、二千六百年で七十のトシ、神が見止めて神が守る、
一、タンバアヤベ出口ナクセバ日本はホロブ、
一、大日本の三山はミセン山、ヨツヲ山、ホン九山、
一、ヨツヲ山は世ヲツグカミ山、寺山ヘコム、十里四方神のミヤコトナル、
一、日本のミ九サ(三種)の神タカラとヒノマルのミハタをベーコクはウバウタクミ、ユダンスルナ、
一、日米戦の状態は天はヒコーキ、ヒコー千(セン)、バクダン、地は旭のミハタ、大ホ、タン九、ウミヲクグルマノフネ、
 その他米国は日本から日の丸を奪って是を踏み台にして日本を蹂躙する魂胆である事や、天皇機関説等反国体思想の事も出て居り、そして是(こ)れを追放すると「日の出」となり「日の守」となる事も出て参るので御座ゐます。
 此の切紙神示の他に八紘一宇の数表(すうへう)も御座ゐまして、御皇室と大本との関係が針でつく隙も無いまでに、然(しか)も自然の裡(うち)に現れて居るので御座ゐます。
 天皇様は大本と仰せられず「みろくの大神」と仰せ遊ばされたそうで御座ゐます。
 先生が明治二十九年に綾部へ参られたのも、実は此の数表と切紙神示に由って、綾部の事は既に明治二十五年に知って居られたからで御座ゐます。
 数表に就きましては実物を御覧頂いて説明申(まうし)上げる事に致します。
 天皇様が先生に托し遊ばされた御旗(みはた)とは、赤地白菊章の御旗で御座ゐまして、
『今より二十八年目の辰年にみろく大神が出現遊ばす。この御方が出現になれば、我(わが)皇国は万々歳なれども、それ迄は大変な事が頻出するから、此の御旗をみろく大神出現の時機まで預け置く。大神出現の年とならば、日を撰んで奉還せよ』
と仰せられたとの事で御座ゐます。
 この御旗は明治二十五年の八月十七日に無事奉還されましたので、特に明治天皇様から御手許金壹百円を賜り、宮内省より下附されたので御座ゐます。
 奉還するに当(あた)り先生は十五日に上京せられ、十六日、十七日と手続きに三日間、五六七(ミロク)の日を要したと云ふ事は、不思議と申せば不思議な事で御座ゐます。
 私はこの御旗の何であるかは明確には存じませんでした。と申しますのは、天皇旗であると云ふ事は聞いては居りましたが、実際そうだとすれば明治の御即位式には無かった筈だし、無いでは大変な事でせうから──此点に捉(とら)はれて信じかねて居た訳で御座ゐますが、或る日友人篠原(しのはら)景宣(かげのぶ)氏が「当大阪に薩州島津の分家が居られるから其処(そこ)の隠居に聞けば御即位式の実情が必(かな)らず判る筈だから」と申されるので、篠原さんに訊ねて頂きますと、
「実際に天皇旗が無くて困り、挙句(あげく)のはて、京都の西陣で金壹百円で帯地を買ひ御旗を拵へられた」
と云ふ事が判明したので御座ゐます。
 右の如(や)うな次第で先生の御預(おあづか)りになった赤地白菊章の御旗は天皇旗に相違無かった事が立証されたので御座ゐます。
 それで篠原さんが先生や私の事を島津の隠居に話されたので、隠居の希望により篠原さんと私が或る日同道で訪づれ、神示や数表に就いて御説明申上げると、一々驚異の眼を以て聴いて居られましたが、偶々(たまたま)大本関係に就いて説明致しますると、隠居は何(ど)う誤解されたのか非常に立腹せられて、私に向(むか)って罵詈(ばり)讒謗(ざんばう)されたので不快に堪えず、忽々(こつこつ)[※すみやかに、という意味。]帰った事が御座ゐました。
 其(その)後、湯浅仁斎さんから「天皇旗が明治の御即位式に無かって代(かは)りを作ったと云ふ事の一書を[※証拠として]島津の隠居に書いて貰って置くとよい」と云はれて篠原さんを訪ねますると「隠居は先般馬詈(ばり)した後に頓死した」との事で御座ゐましたので、私は今更ながら喫驚(びっくり)致しました。と申すのは他でもありません。
『この事に反対致す者は皆国賊(こくぞく)であるから日本の御土の上に置くことはならぬ』
と孝明天皇様の御宸筆(ごしんぴつ)の中に記されてあり、又(また)切紙神示にも現れるので御座ゐます。
 
 明治三十四年一月元日の事で御座ゐます。先生は病臥中で御座ゐますから、枕頭に愛知県知事を始め、家族、門弟一同を集められて、
「此度(このたび)の病患は本復覚束(おぼつか)ないと思ふ、今年は愈(いよいよ)この世を去らねばならぬから元旦の佳日(かじつ)に遺言する」
と申され、夫々(それぞれ)御言葉がありましたが、私には孝明天皇様の御宸筆(ごしんぴつ)(世界経綸の御玉稿)と、壹円札百五拾枚と、長さ一寸二分[※1寸2分は約3.6センチ]の八本の霊竹とを預けられまして、
「皇紀二千六百年まで其方に預け置く、その日が来る迄は誰にも見せても話してもならぬ。二千六百年になったら七十歳になる男に此の金子(きんす)共々(ともども)御渡し申せ、黙って唯(ただ)渡せば其方(そのはう)の任務は勤め上(あが)るのだ、その御方が一切解決して下さるから。夫(そ)れからこの玉鉾神社には大変な事が起(おこ)る。尚(なほ)綾部の大本にも此処と同様大変な事になるから、克(よ)く記憶(おぼえ)て置いて貰ひたい。そこで此の玉鉾神社は子孫に伝へる訳には参らぬ。町に寄贈する。又(また)自分の屍(しかばね)は学術研究の資料として解剖に付して呉れ」
と遺言せられて、此の年の三月十一日に六十一歳で遂に不帰の客となられたので御座ゐます。
 私は此の托されました御宸筆(ごしんぴつ)を時折り拝読致しまして、皇紀二千六百年の辰年を待って居りまする中(うち)に、昭和十年十二月、思ひもよらぬ大本事件に遭遇し、翌十一年の春、警察の家宅捜索にかかり、遂に托された御宸筆(ごしんぴつ)を焼かねばならぬ羽目に陥ったので御座ゐます。
 私は御宸筆(ごしんぴつ)を無暗(むやみ)矢鱈(やたら)に何処(どこ)にでも置くのは畏れ多いので、大本皇大御神の御神体と一緒に御宮に祀って居たので御座ゐました。処が家宅捜索に来た刑事は仮令(たとへ)孝明天皇様の御宸筆(ごしんぴつ)でも、大本の神様と一緒に祀ってあるから穢(けが)れてゐるから焼けと云はれるので、之(こ)れは大本とは無関係の物であるから、充分に調べて頂くやう二回も島ノ内署へ持参致しましたが、二回ながら調べてくれず、唯(ただ)穢れてゐるから焼けとの一点張りで御座ゐますから、遺憾と存じ、今日迄の世の出来事と、この御宸筆(ごしんぴつ)の予言の全く一致する事を説明致しますると、刑事は一々驚異の眼を見張って頷いて居ましたが、最後に昭和十二年の予言で忽(たちま)ち豹変して、「来年の事を言へば鬼が笑ふと云ふが、判りもせぬのにそういふ先の事を云ふて世道(せだう)人心(じんしん)を惑(まど)はすから大本教はけしからぬのだ、直ぐ焼却せぬと王仁三郎と共々死刑にするぞ」と云はれる。「異な事を申されるな。此の御宸筆(ごしんぴつ)が大本と何の関係がありますか」と詰問すると、「出口は此の御宸筆(ごしんぴつ)によって大本教を拵へ、予言したり致して居るのだ」などと出口聖師が此の御宸筆(ごしんぴつ)によって今日迄(まで)予言警告されたものであるかの如き口吻(こうふん)ですから、私は、
「皇紀二千六百年が来るまでは固く口外を禁じられて居る私なのだ、どんな方にも未だ一度だって話した事も見せた事も無いのである。唯々(ただただ)孝明天皇様と旭形先生の御遺命を厳守して紀元二千六百年を只管(ひたすら)待ちに待って居るのである」
と理を話しても何(ど)うしても了解致しくれず、之(こ)れに逆(さか)らって投獄されては元も子も無くするに至っては尚々(なほなほ)相(あひ)済まぬ結果となる。現身(うつそみ)としては唯(ただ)一人残された自分だ、御宸筆(ごしんぴつ)は消えても此(この)身さへあれば御遺命を果(はた)す事は必らず出来るのだ、先づは御宸筆(ごしんぴつ)を御焼き申して身を全うするに然(しか)ず、と心を鬼に強制せらるる儘(まま)に焼却したので御座ゐます。
 この間、ああもしたら、斯(こ)うもしたらと思案の挙句、曽根崎警察署長の弟と昵懇(じっこん)なるを幸ひ、其処(そこ)へ一時預けた事もありましたが、熟(つらつ)ら考へるとその結果の反(かへ)って面白からぬに思ひ当(あた)り、これもほんの暫(しばら)くで止めたので御座ゐます。
 刑事が豹変した予言と申しまするのは、
『天の立替並(ならび)にノアの洪水から昭和十二年で一万二千年になる、この年から世界の大立替、大峠が始まる』
と御座ゐます。
 此処(ここ)で謂ふ天の立替とは、地球を左から巡る三個の星と、右から廻ってゐる三個の星とが、地球共々(ともども)一直線に並ぶ事を申すと先生から聞いて居ります。昭和十二年七月七日からの世界を見渡しますると、真に御宸筆(ごしんぴつ)の通りで御座ゐます。
 
 話が戻りまするが、皇紀二千六百年の辰年に七十歳になる男と云っても一人や二人ではありませんが、御宸筆(ごしんぴつ)には、
『天津日嗣(ひつぎ)天皇様の八紘一宇の鴻業は、皇紀二千六百三十六年[※昭和51年=1976年]に百六歳の男の活躍によって成就する。その男は拇印に⦿(ス)の紋を有す』
と在ります。そして其の男の七十歳が二千六百年になりますから、御宸筆(ごしんぴつ)を渡すべき人は此の人である事が明(あきら)かになるので御座ゐます。
 私は今年七十六歳になりますが、未だ⦿(ス)の拇印を持って居る人を出口聖師以外に見た事が無いので御座ゐますから、御宸筆(ごしんぴつ)の⦿(ス)の拇印の男と云ふのは、出口聖師を措(お)いて他に断じて無いと決定しても早計では無いと思ひます。私は出口聖師の作品に捺(お)してある⦿(ス)の拇印に初めて接した時「噫(ああ)此の人だ、この方に違ひ無い」と早速年齢を調べますと、御宸筆(ごしんぴつ)の通りで、亦(また)切紙神示にも「出口ヲーワニ、二千六百年、七十のトシ」と現(あら)はれ、更に月(つき)の家(や)、瑞月(ずゐげつ)等の月の雅号を見ては、絶対的確信を得たので御座ゐます。
 孝明天皇様は「月の出をひた待ちに待って居られた」と先生に何時(いつ)も聞かされて居りました、百五拾円の金額にも満月の意味が含めてありまするし、天皇様の御陵を後(のち)ノ月(つき)ノ輪(わの)東山(ひがしの)御陵(みささぎ)と申し上げ[※泉涌寺には25の天皇・皇族の陵墓があるが、孝明天皇陵だけでなく、全て「月輪」が付されている。名の由来は、泉涌寺を開山したのが月輪大師(がちりんだいし)であり、泉涌寺の背後に「月輪山(がちりんさん)」があるから。]、西国三十三ヶ所の十五番の札所泉涌寺(せんにゅうじ)に在るのも偶然では無いと存じます。
 私は孝明天皇様が待望遊ばされた月の精七十歳の⦿(ス)の拇印の主は出口聖師であって、此の方が救国主であり済世主である事を、右のやうな訳で信仰するに至ったので御座ゐます。
 或る時私は御宸筆(ごしんぴつ)の中に、
『神武天皇様が神様から八個の井戸を戴かれて八紘一宇の大宣言を遊ばした其の地は橿原(かしはら)である。そして皇子(みこ)に神(かむ)八井(やゐ)耳(みみの)命(みこと)と御命名遊ばしたのは是(こ)れに由来するのである。生命の源は水であり、従って井戸である、八紘一宇の鴻業は八個の井戸の所在地で無くては成就なし能(あた)はず』
と記して御座ゐましたから、早速大和の橿原へ参り査(しら)べた所が、何(ど)うしても七個より在りませんので、孝明天皇様の御考への地は屹度(きっと)他にあるに相違ないと思ひ、切紙神示の随々(まにまに)世継王山(よつわうざん)、本宮山(ほんぐうやま)、弥仙山(みせんざん)を調べやうと思ひ、先づ綾部へ参りましたが、大本事件後の事とて調べやうも訊(たづ)ねやうも無いので、極楽餅屋へ立ち寄りますると、店主はこれから何処(どこ)かへ出かける様子で御座ゐますから尋ねますると、日出麿師にお餅を上げに行くとの事ですから、店主と亀岡へ同行する事に致しました。汽車の中で懸命に聖師様に「此の人の口(くち)を通して教へ玉へ」と祈願を凝らし、店主に大本の井戸の数を問ひますと、即座に「八個」と答へて呉れたので、私の此の時の嬉しさは到底申上げやうが御座ゐませんでした。
 最近湯浅(ゆあさ)仁斎(じんさい)さんに井戸数を厳査して貰ったが、間違ひは御座ゐませんでしたから、八紘一宇の鴻業の経綸地は綾部の大本である事が、更に立証されたので御座ゐます。
 先生が明治二十九年に須知山(すちやま)峠で申された「此処には御殿が建つ」との語意も茲(ここ)でどうやら判るやうになったので御座ゐます。
 又御宸筆(ごしんぴつ)に、「皇紀二千五百六十一年[※皇紀2561年=1901年=明治34年]当時の天皇様は神武天皇様の御再誕であらせられ、神(かむ)八井(やゐ)耳(みみの)命(みこと)様は皇太子様[※皇紀2600年=昭和15年当時の皇太子は明仁親王=平成天皇=現上皇。正仁親王はその弟。]と御再誕遊ばし、朕は六歳の男児となって再誕する、また朕が二千六百三年[※昭和18年]に九歳になった秋に一か八かをわける」と御座ゐまするが、二千六百年祝典当時、第二皇子義宮(よしのみや)正仁(まさひと)親王殿下[※常陸宮正仁親王。昭和10年(1935年)11月28日生まれ。皇紀2600年=昭和15年に数え年で6歳、昭和18年に数え年で9歳。]には御六歳に当(あた)らせられたので、私はこの御宸筆(ごしんぴつ)の一字一旬の相違も無い事に全く驚嘆致した次第で御座ゐます。
 話が大変脱線致しましたが、孝明天皇様は斯様(かやう)に御英邁(ごえいまい)にわたらせられたにも不拘(かかはらず)、孝明神社創建を許可しないので、遂に先生が綾部に参られた次第は前に述べましたが、此の「たまほこノ神」の御称号でも孝明天皇様のお宮では許可仕様(しやう)と致さぬから「常々天皇様が八幡宮を特に崇敬遊ばされて居ったから」愛知県知事の骨折りで、幸ひ当時一人の氏子も無く社殿は荒れるに任せ、将(まさ)に取払(とりはら)はれやうとする八幡様が、名古屋から五里ばかり離れた寒村に御座ゐましたのを、これを武豊に移し、夫れへ合祀する事として、七年振りでやっと明治三十二年十一月二十八日に玉鉾神社建設の許可を得たので御座ゐます。
 先生は翌三十三年一月(六十歳)に玉鉾神社の神職に補せられ、日夕(にっせき)御奉仕に精進されて居りましたが、翌三十四年三月十一日に逝去されたので御座ゐます。
 予言者故郷に入れられずと世の諺(ことわざ)にも御座ゐまするが、一天万乗の至尊の御身(おんみ)を以て、あらう事かあるまい事か、崩御遊ばした後までも、然(しか)も卑(いや)しき官吏輩(ばら)に、畏き最後の御遺勅迄も拒まれ玉ふとは何たる事で御座ゐませうか、目に一丁字も無い[※文字が読めない、という意味。]私が五十余年(先生の跡を継ぎましてからでも四十三年)の歳月を、斯様(かやう)にして過(すご)して参りましたのも、孝明天皇様が待ちに待ち玉ふた月の精、ミロク大神様の顕現に坐す出口聖師へ、孝明天皇様の御心の裡(うち)を御伝(おつた)へ致すのみで御座ゐます。
 然(しか)るに私は大切なる御宸筆(ごしんぴつ)を焼き、出口聖師に御渡し致す事が出来なくなりましたので、記憶を辿り辿りて御宸筆(ごしんぴつ)の荒増(あらまし)を言上せねば、死んでも死に切れぬ処(どころ)か、大国賊とならねばならぬので御座ゐます。
 何卒此の爺が申述べまする仔細を支離滅裂で恐れ入りまするが御寛容の上、御聞き届け下さいまするやう、平に伏して御願ひ申上げる次第で御座ゐます。惟神霊幸倍坐世
   昭和十八年八月二十五日
 
口述 佐藤徳祥
校閲 湯浅仁斎
撰録 木庭輝男
改訂編修及清記 西田豊太郎
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