日清戦争の予言が実現したときから、「不思議な婆さんだ」とうわさが立ち、村人からも「おなあ婆さんにおがんでもらえ」という声が多くなりだした。
一八九四(明治二七)年一〇月、山家村西原へ、開祖があきないに出かけたとき、二年ばかり前から、精神病でひきこもっていた西村文右衛門の平癒祈願をたのまれた。開祖は神に祈り、右手を病人の腹に、左手を背中におき、そのあと身体をさすり「鬼門の金神を唱えて一心にたのみなさい」とおしえた。それから一〇日ほどして西村を訪ねてみると、すっかり全快していた。西村夫婦は開祖に感謝し、「神さまにお礼参りをさしてもらいたい」とたのんだが、開祖は「家なしでまだおまつりしておりまへん。八木の娘が信仰しておる金光教でも金神さんと唱えておりましたから、そこへお参りしましょうか。私は八木にも王子にも娘がおり、それにも会えますで」といって、いっしょに亀岡の西町にある金光教会をおとずれた。
教会長大橋亀次郎は、大いによろこび、「綾部に役員を一人おくるから、おなおさんといっしょに神さんのお道をひらいてもろうたら」と話をもちかけた。
それから一五日ほどして、大橋から派遣された金光教布教師の奥村定次郎が、山家の西村をおとずれて家の借入れを依頼した。ほどなく、奥村は、綾部新宮に住む何鹿郡長大島の裏座敷の六畳を月一円で借りることができた。奥村は、かねて、大橋よりきいていた金光教信者の四方平蔵をよんで、今後の布教について相談した。四方は、開祖からおかげをいただいた人々の名を聞いて、綾部近在をかけまわり、その中から一一名の役員をえらび、一一月一一日(旧一〇月一四日)最初の会合をひらいた。相談の結果、金光大神と艮の金神を併祀して広前(布教所)とし、毎月旧暦三日・一五日・二三日に祭をおこなうことがきまり、月額一〇円くらいの経費を、役員の一一人でだすことにした。当初の経費としては、お宮をはじめその他の諸経費を四五円くらいだしあって、翌一二日(旧一五日)に鎮祭をした。
この時の一一人の役員は、綾部=四方源之助・出口寛太郎・西岡弥吉・西村忠兵衛、鷹栖=四方平蔵、西原=西村庄太郎・西村弁太郎・四方与平次・四方祐助・四方伊左衛門・西村文右衛門であった。
このなかで四方平蔵は、当時三四才、大本草創当時の中心人物であった。こののち七五才の生涯をおわるまで、大本の神業に終始奉仕した人である。四方平蔵は、一八五九(安政六)年山家村鷹栖に生まれ、農業のかたわら二〇人ばかりの人を使って養蚕製糸をしていたが、一八八八(明治二一)年に失敗し、亀岡に出稼ぎしていたところ、金光教の信者となり、一八九三(明治二六)年郷里に帰っていた。その他の役員は農業をいとなんでいる人が多かった。こうして、金光教のはからいと、四方平蔵らの世話人、開祖の信者たちによって、最初の広前ができ、合祀の形ではあったが、艮の金神をまつる教会が成立した。
〔写真〕
○大広前─大島の裏座敷(別荘ともいわれた) p101