一九二四(大正一三)年の七月二一日に、大阪控訴院で判決された第一次大本事件は、被告側が即日上告したので、審理は大審院にうつされた。
大審院における公判は、一九二五(大正一四)年三月二七日よりはじまり、四月二四日、五月二三日、ついで六月一二日に開廷され、花井弁護人らの弁論があって、矢追検事が意見をのべた。こうして七月一日には、大審院でつぎのような決定をみた。
一件記録ヲ審案スルニ被告人王仁三郎ニ対スル原判決ニハ事実ノ誤認ヲ疑フニ足ルベキ顕著ナル事由存スルコトヲ認ムルヲ以テ同判決ハ之ヲ破毀スベキモノトス
有罪の原判決が破毀されたので、この事件はあらためて事実の審理からはじめられることになった。そのため一二月一六日には、大審院で聖師のしたしらべがあり、その後弁護人側は検証や証人尋問を要求する一方、心霊学および精神病学的鑑定を申請し、これが受理されて、京都帝大今村新吉博士が精神鑑定人となった。一九二六(大正一五)年の三月六日、京大病院で第一回の鑑定がおこなわれ、のち前後七固にわたって鑑定がつづけられた。
七月一二日には、公判準備があり、一〇月、一一月と証人の尋問があって、一二月七日には東京で、東京帝大の杉田直樹博士による精神鑑定がおこなわれた。その結果、博士は聖師にたいし誇大妄想などの精神病者にあらずと断定した。
あけて一九二七(昭和二)年の二月七日には、大赦令が発せられたために、聖師は同年の五月一七日、大審院で横田裁判長から「原判決ヲ破毀シ免訴トス」との判決をうけた。これによって、七年のながきにわたる第一次大本事件は解決したのである。
五月二五日聖師は、多数の信者たちのでむかえをうけて亀岡にかえり、翌日ただちに小幡神社および出雲神社(亀岡)に参拝した。ついで二七日には帰綾し、夕方から五六七殿でおこなわれた開窟奉賽祭に参列した。開窟とは岩戸が開けたということを意味していた。当局や社会からの重圧に数年ぶりで解放された、このときの信者のよろとびようは多言するまでもない。これまで邪教というよび名のもとに、それにひるまず役員・信者は神業にいそしんできたのであったが、正式に免訴の判決がくだったのである。免訴の判決があった翌々日、井上留五郎は東京愛信会(大正15・2・21確信会を改称)で信者にたいし、事件解決についてつぎのような注意をあたえている。その要点の第一は、宣伝にあたっては皇室に関することはいっさい触れないようにということであり、あわせて大本には片言隻句も不敬の要素はないことを強調した。そして第二に「宣伝の根本方針」は、「世の基礎をなす所の霊界の消息、殊に神界即ち天国の状況を宣伝しておる事が一番よいのです」とのべた。
聖師と二代すみ子は、同年一月一五日に亀岡の中矢田農園をゆずりうけ、また二月五日には綾部でも農地を入手して、出口家による自給自足の道をひらいた。
五月一三日には綾部神苑内に掬水荘が竣工し、ここが三代直日の住宅にあてられることになった。
〔写真〕
○昭和の時代はじまる p815
○判決の日 大審院での王仁三郎(右)と井上(左) p816
○掬水荘 p817